ねがい

スエコウ

ねがい

「この場所は前に、夫と旅行したんですよ。ほら、向こうの浅瀬に大きな岩がありますよね。浸食されて大きな穴が三つ開いていて、それがちょうど両目と口のところにあって、人の顔に見えるんですね。ちょっと傾いていてずいぶんな造形なのだけど。あれ実は岩じゃなくて大昔に死んだ神様の死骸しがいなんだって、地元の人は言うんです。なんでわざわざ死骸なんて言い方をするのかは知らないんですけどね。だって、なんとなく不敬な言い方じゃないですか。虫の死骸みたいで。ともかく、あの神様に捧げものをしてお祈りをすると、願い事が叶うなんて言われていたそうなんですよ。

 私と夫は幼馴染で、お互い小さな頃に両親を亡くしてから、二人で支え合うように生きてきました。親しく頼れる人が他にいないものですから、社会人になって夫婦になってからも、心のどこかで二人きりで生きていくことの不安や寂しさがあったのかもしれません。ですから私、職場の同僚の紹介で出会った男性の親切な態度に、心と身体を許してしまったんです。

 私も罪悪感があって、こんな関係はこれきりにしようと度々思うんですけど、その男は私に会うたび私のことを綺麗だ、綺麗だと褒めそやして、あなたのような素敵な女性に寂しい思いをさせるからには、あなたの夫にはあなた以外に大切な女性ができてしまったに違いないと言うんです。もちろん最初の頃は気にしないようにしていたんですけど、繰り返し繰り返しそういったことを耳元でささやかれるものですから、私はだんだんと彼の言葉を信じて夫の行動を疑わしく思うようになってしまって、そうしてある時期、夫の帰りが遅くなるようになったのを境に、わたしはとうとう夫が浮気しているに違いないと信じ込むようになったんです。可笑おかしなもので、私自身は平気で夫以外の男と寝ているのに、夫が別の女に心奪われているに違いないって思うだけで、本当に眩暈がするほど夫を憎い気持ちになるんですよね。

 私は夫を旅行に誘いました。旅行先は人気の観光地というわけではないちょっとした穴場の峡谷で、泊るところもなくて、とにかく空気と景色が綺麗な場所なんです。そこに掛かっていた古いつり橋から夫を突き落としました。なにしろずっと二人で信頼し合って生きてきたのですから、裏切りにふさわしい末路だと思ったんです。一人で旅行から戻ると、身の回りにあるものを適当に旅行かばんに詰め込んで、部屋を引き払って不倫相手の所に行きました。その頃私はすっかり不倫相手に夢中だったものですから、相手もきっと私と一緒になることを喜ぶに違いないと思ってたんです。でもその住所には誰も住んでいませんでした。彼の話は嘘でした。

 私は彼を喜ばせたくて、彼にたくさんプレゼントをしたんですよ。夫と二人で貯めたお金を全部彼にあげたんですよ。彼との子供を堕ろしてあげたんですよ。だけど彼にとって私は、身寄りがいなくて後腐れがない都合のいい女でした。私は一人ぼっちになりました。自業自得ですけど。不思議なことに、あんなに夢中だったのに、不倫相手の男のことは何も思い出せないんです。思い出すのは夫と過ごした何でもない日々の事ばかりで。夫と住んでいた部屋は引き払ってしまっていたし、夫の荷物も全部捨ててしまっていたものですから、何か夫との思い出の品が残っていないか探そうとしました。そうしたら、私の旅行かばんの中に小さな箱が入っていたんです。そんなもの入れた覚えはありませんでしたが、手当たり次第に金目の物をかばんに放り込んだだけの適当な荷造りだったので、気付かなかったのかもしれません。

 その小箱には、不器用だけど丁寧な、いかにも夫らしい文体の私宛てのメッセージ・カードと、私の薬指にぴったりの、白金に輝く指輪が入っていました。私たちはとても貧しかったので、一緒になってからずっと結婚指輪を持っていなかったんです。カードには、私たちが婚姻届を出した日付が入っていました。その日にこれを私にプレゼントするつもりだったのでしょうか。夫は浮気していたのではなくて、私たちの記念日のために一生懸命に働きながら準備をしてくれていたのでした。その時私は何かを叫んでいた気がしますが、よく覚えていないんです。

 しばらくの間、私は抜け殻のように過ごしました。夫の後を追おうと思ったとき、私この場所を思い出したんです。神様の死骸の浜辺を。

 私、神様に願い事を叶えてもらうために、お供え物を一生懸命探しました。ようやく例の、私をたぶらかした男を見つけ出して、そいつの髪の毛とか目玉とか心臓とか名前よく知らないけど何かの内臓とか、かばんに入りそうなものを全部詰めて、神様のところに持って行ってお供えしたんですよ。岩に空いた三つの穴のうち、ちょうど口に当たる所に岩を加工した台があって、そこにお供えをするんです。

 そうしてお祈りを始めてからしばらくしたある日、波打ち際に骨が打ち上げられているのを見つけたんですよ。最初は石か貝殻かなと思ったんですけど、骨なんです。それからときどき、私が神様の死骸がある浜辺に行くと、骨のどこかの部位が流れ着くようになりました。それでだんだんと分かってきたんですよ。『これは夫だ、夫の骨だ』って。神様が私の願いを叶えてくれたんです。それで私、夢中でその骨を集めたんですよ。それでね、つい昨日の事なんですけれども、真っ白なつやつやの背骨が届いていたんです。だって、背骨ですよ! 私もう嬉しくって。だってもうこれで、夫の骨はほとんど全部届けてもらったのですから。あとはそう頭です。頭の骨がきっともうすぐ届くはずなんですよ。全部の骨が揃って、そうして彼が生き返ったら私、誠心誠意彼に謝って許してもらって、もう一度彼と一緒に人生を過ごすんです。ですから私、こうしてずっと彼のことを待っているんです」


「そうですか」


 おれはそれだけ言って、彼女の隣から立ち上がった。つり橋から転落して一命をとりとめた後、姿を消した妻をようやく見つけ出したというのに、彼女はすでにおれが夫だと認識できないほど頭がくるっていた。幸せそうに笑いながら海の向こうをじっと見つめる彼女を後に残して、おれは砂に足を取られないようゆっくりと後ずさるように浜辺を離れた。海岸道路沿いに停めていた車に乗り込んで先ほどの湿った空気から切り離されると、なんとなくほっとして息を吐き出した。知らないうちに呼吸をすぼめていたようだ。梅雨の時期とはいえ、あの場所の空気は妙に重苦しかった。以前二人で旅行した時は、こんな陰鬱な場所ではなかったはずなのに。

 顔を上げて車の窓越しに海岸に目を向けると、分厚い灰色の空の下、砂浜にぽつんと膝を抱えて座り込んだ彼女の背中が見えた。浅瀬から突き出した黒黒とした大岩は、虚ろに口を開けた巨人の顔のようで、水面に薄く漂う霧の向こうからじっと彼女を見下ろしている。不気味な絵画のような風景の中で、彼女がおれだと信じて待ちわびているのは一体、誰なのだろうか。彼女の言葉が本当なら、彼女の元に流れ着いているのは一体誰の……何の骨なのだろうか。凪いだ海の、囁くような波音の中で、砂に埋もれかけた髑髏どくろが拾い上げられる様が思い浮かんだ。いや、きっとすべて彼女の妄想にちがいない。おれは頭を一つ振って車を発進させた。バックミラー越しに妻と海岸が遠ざかっていく。もう二度とこの場所に来ることはないだろう。雨が降り始めている。


 ≪終≫



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