第12話 今更だけど視点の話

 こんにちは、だるっぱです。久々の投稿になりました。一カ月以上、沈黙したままになっていました。色々と僕の生活に変化があったことが原因なわけですが、それも段々と落ち着きつつあります。


 拙書「逃げるしかないだろう」の推敲は続けております。8月の下旬に下巻をkindleで発刊すると宣言していたのですが、まだ出来ておりません。時間が掛かっております。「逃げるしかないだろう」という作品は、上巻と下巻で物語が大きく変わります。下巻は、登場人物が新たに増えて、クライマックスに向かって盛り上がっていくのですが、この新たな登場人物というのが僕にとっての難敵でした。


 多くの小説の主人公というのは、往々にして作者の分身であります。自叙伝的なものであれば、自分が感じたことをそのまま紙面に書き写していけば良い。頭の中にあるイメージを形にしていく作業というのは、快感が伴うもので、非常に気持ちが良い。どんどんと物語を紡ぐことが出来たりします。


 ところが、「逃げるしかないだろう」の下巻の登場人物は、僕とは全く違うタイプの個性を活躍させています。

 ――僕なら、そのようなことはしない。

 そんな行動を、ワザとさせています。その登場人物の精神的なものに、なり切ろうとする。近づこうとする。そんな作業に時間が掛かっております。


 ――でも、多くの作者は、様々な個性を持ったキャラクターを、物語に登場させているじゃないか!


 そのような指摘があるかと思います。正に、その通りです。漫画制作の手引書的なものを読んだことがあります。

 ――魅力的で個性的なキャラクターをたくさん登場させろ。

 ――そのキャラクターたちの掛け合いで物語を盛り上げていけ。

 このようなアドバイスがされていました。ジャンプ漫画に顕著なのですが、ドラゴンボールも、ハンターハンターも、ジョジョも、鬼滅の刃も、個性豊かなキャラクターがお互いにしのぎを削って戦いを繰り広げます。


 これらの漫画には共通の一つの型があります。勝手に命名しますが、今日はスポーツの日なのでこれらのパターンは運動会型と呼ぶことにします。運動会型は、競技なので白熱したバトルが面白い。勝つか負けるか、そのせめぎ合いが一瞬一瞬で入れ替わるので目が離せません。また時には、主人公よりも魅力的な悪役が活躍したりします。


 対して僕の作品は、運動会型の様な物語の作り方は苦手です。それは、視点の違いからも言えます。小説の書き方には、大きく二つの書き方があります。一人称と三人称です。少しでも小説の書き方を勉強した方なら直ぐに分かると思うのですが、視点とは、映画でいう所のカメラです。


 一人称は、カメラが主人公にセットされています。主語は「僕は~」で始まります。主人公が見ている景色だけを描写して、物語を積み上げていきます。一人称の良いところは、主人公の心像風景を描写できることです。例文を紹介します。


 ――僕は、ジャイアンのことが嫌いだった。だって、僕のことをイジメるんだもん。だけど、あの時だけは違った。ジャイアンが、とても頼もしく見えた。あの時、ジャイアンが助けに来てくれなかったら……。


 また一人称は、小学生の時に書かされる夏休みの日記とか作文の延長とも言えます。非常に書きやすい上に、没入感が強い。読者は主人公に乗り移って、物語の世界を見聞きすることが出来ます。

 ただ、一人称には大切なルールがあります。自分が見ていない事柄については語ってはいけないのです。

 例えば、先程の例文の続きを書いてみます。


 ――ジャイアンは僕の危機を、スネ夫から聞いた時叫んだ。

「バッカヤロウ! のび太は友達だろう」

 ジャイアンは走り出した。僕の危機を救うために。


 一人称視点で書いてみました。意味は通じます。ただ、僕(のび太)は、ジャイアンとスネ夫のやり取りを見ているわけではありません。カメラはのび太に固定されているはずなのに見えているということは、まるで超能力か何かです。これでは、読者が混乱するのです。


 一人称の良さは、没入感です。暗いダンジョンで、一人彷徨っているような不安定さが面白いのです。暗いもの影から突然怪物が襲い掛かってくるから、読みながらハラハラドキドキするのです。あらかじめ怪物が現れることが超能力で分かってしまえば興ざめです。のび太にしたって、絶体絶命の危機にジャイアンが助けに来てくれたから、嫌いだったジャイアンが好きになるのです。


 この一人称に対して、三人称はカメラをどこに置いても構いません。実は、三人称にはいくつかのパターンがあるのですが、今回は神視点に限定して説明します。先程の例文を、三人称で書き直してみます。


 ――のび太が危機に瀕していることを、ジャイアンはスネ夫から聞いた。ジャイアンは、大きな声で叫んでしまう。

「バッカヤロウ! のび太は友達だろう」

 ジャイアンは走り出した。のび太の危機を救うために。

 ジャイアンのことが嫌いだったのび太だけど、その時だけはジャイアンに頭を下げた。

「ジャイアン、ありがとう」


 三人称において、主語は登場人物の名前になります。「僕」とか「私」は使いません。神視点ですから、どこにでもカメラをセットすることが出来ます。歴史ものとか壮大なスケールの作品には、三人称が有効です。時代背景を説明することが出来ます。また、ジャンプ漫画に特徴的な運動会型も三人称です。様々なキャラクターの動きを表現することが出来ます。


 ただ、三人称で注意することは、登場人物の思いや考えは極力入れない方が良い。登場人物の個性は、セリフや描写でかき分けた方が良い。なぜなら、読者がこんがらがってしまうからです。例文はあげませんが、中途半端に登場人物の思いを書き込んでしまうと、その思いが、主人公の思いなのか、ライバルの思いなのか分からなくなるのです。酷い場合は、読み返して確認作業しなければなりません。


 ただ、一人称視点の三人称という書き方もありますので、そこは作者の好みでかき分けたら良いと思います。


 僕は、一人称にこだわっています。没入感こそが、小説ならではの最高のエンターティメントだと考えるからです。ただ、一人称で書く場合、大きな問題があります。自分の事を表現する場合は問題ないのですが、自分とは違った価値観の主人公を描く場合、正直、分からないのです。


 僕は、どちらかというと憑依型です。ノッテいる時は次々と書くことが出来ます。これまでにも、結構なスピードで作品を仕上げてきました。ところが、推敲という作業に入ってからは、そのスピードが減速しました。じっくりと腰を構えるようになりました。


 ベースとなる作品は既に存在しています。その作品の中の一人一人の登場人物が、どのように考えて行動しているのか、一つ一つ確認しながら推敲を続けています。全て書き直しています。従来と行動が変わった登場人物もいます。そうした作業をしながら、僕は長男の事を考えています。


 長男は、現在も引きこもりです。一年間、学校に行けずにいます。正直言いまして、どのように長男と接したらよいのか分かりません。一年間は、友達のように付き合いました。学校の話題は避けました。アニメや音楽やゲームなど、長男の視線に合わせて接してきました。


 ただ、長男は高校三年生です。人生の分岐点に立っています。最近、長男に辛く当たりました。父親として思っていることを、強くぶつけてしまいました。長男は凹んでいます。僕を避けるようになりました。


 僕も真剣です。思いをぶつけたことに対して後悔はしておりません。長男が子供から大人になるための、大きな通過儀礼だと考えています。高校に行くとか、大学に行くとか、そんな目先の事はどうでも良いのです。一人の人間として、逞しく育って欲しい。幸せになって欲しい。


 現在の長男は繭の中で包まっている状態です。繭を割って、大きく羽を広げる時を待っています。

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