第11話 テーマ

 まず初めに、告知です。拙書「逃げるしかないだろう・下巻」の発売が遅れます。8月下旬の発刊を予定しておりましたが、もう少し時間が必要になりました。申し訳ありません。

 理由は、推敲が思うように進んでいないためです。今回は、その言い訳になります。遅れるからには、より素晴らしい作品を送り出します。


 ◇   ◇   ◇   ◇


 推敲っていう作業は、手芸の折り返し縫いに似ていると思います。自分が紡ぎ出した言葉を読み返して、修正を加える。一度修正した箇所も、再び読み返すとまた修正を加えたくなる。行ったり来たりしながら、加筆したり、バッサリと切り捨てたり修正を繰り返す。ただ、推敲の目的ははっきりとしています。物語の模様をはっきりと浮かび上がらせることです。


 これまでに何度も推敲を繰り返してきました。そうした作業の中で感じたことがあります。誤字脱字の修正は、推敲の本来の目的ではないなと……。


 推敲のスタートは、誤字脱字の修正から始まります。しかし、修正する為には、作品を再び読み進めないといけません。面白い小説に出会うと、読者は物語の世界に入り込むことが出来ます。それと一緒で、作者は自分の作品であっても、物語にリンクします。まるで主人公になったかのように、その世界に放り出されます。不安を感じたり、戦いに神経を尖らせたり、恋愛に心が揺れます。


 ただ、読者と違うのは、作者には物語を書き換える権利があります。ザラザラとした肌触りをより際立たせるために、人物の心理により深く入り込む為に、言葉を選びます。その作業は、まるで超巨大なジグソーパズルを組み上げているような感覚です。ぴったりと合うピースを探すのに苦労します。


 出来上がった作品は、作者ではなくて読者が読みます。作者は内容が分かっていますが、読者は知りません。理解し易いように、丁寧な表現が大事です。文法や言葉のリズム、地文や会話文、基本に則ったバランスの良い文章構成を考えます。こまかい所では、語尾の変化も重要です。例えば、いま推敲をしている個所ですが、語尾の「た」と「る」に注意しています。


 ――自転車に乗って、天王寺公園にやって来た。園内に自転車を乗り入れ「た」。デコボコの段差で、ガタガタとハンドルが取られた。


 語尾に「た」を連続して使うと、小学生の作文みたいな印象になります。読めなくはないですが、リズムが悪い。この「た」を「る」に変えるだけで、滑らかに変化します。


 ――自転車に乗って、天王寺公園にやって来た。園内に自転車を乗り入れ「る」。デコボコの段差で、ガタガタとハンドルが取られた。


 「た」と「る」の語尾の変化は、基本的に交互に使った方が読み易くなります。他には、同じ言い回しが連続するようなら、他の類義語に置き換えたりします。


 ただ、そうした言葉に関する推敲も大切なのですが、より大切なのは内容です。どんなに美しい文章でも、論理的に内容が破綻しているようではいけません。文章構成には、起承転結という基本的なパターンがあります。この順番は重要です。ここでは触れません。


 順番という意味では、伏線の配置についても気を配らないといけません。伏線にも種類があるのですが、要は話を盛り上げていくための事前準備です。犯罪に手を染める登場人物がいたとしたら、その動機なり行動を、前もって知らせておく方が効果的です。13日の金曜日なら、ジェイソンがヒタヒタと近づいて来る描写が怖い。被害者が急に殺されたら、読者はその状況が理解できません。恐怖の存在があらかじめ表現されているから、読者の想像はヒートアップします。凄惨な現場が盛り上がるのです。


 推敲は、多岐にわたって修正を繰り返します。一度書き上げた作品だからこそ、作者は稚拙な箇所が気になって仕方がありません。地道に一つ一つ修正していくのですが、推敲を続けながら、もっと大きな問題にぶつかりました。


 ――なぜこの物語が存在しているのか?


 根源的な問題です。この物語の存在意義みたいなものに、思いを馳せるようになりました。自分が生み出した物語なのに、その存在理由が知りたい。これは可笑しなことに聞こえるかもしれません。でも、これは僕が本当に感じていることなのです。


 一度書き上げられた物語は、一つの作品として僕から独立します。それは、まるで子供の様なものです。僕は、いつでも修正を加える権利を有してはいますが、何でもかんでも自由にすることは出来ません。物語が破綻するような修正は、推敲とは言わないし、何よりも僕が悲しみます。そんなことを考えていると、作品と読者と作者という、三者の関係が見えてきました。この関係は、互いに影響しあっている状態が理想です。


 小説には、純文学と大衆小説という、二つの分け方があります。明確な定義が存在しているわけではないのですが、ざっくりと説明します。


 ――作者と読者、どちらに比重が傾いているのか?


 作者の思想が強くなると純文学になり、読者が喜ぶ展開がてんこ盛りだと大衆小説と考えて良いと思います。尖った作品に対して、「芸術性が強い」とか「作家性が強い」という言い方をします。作者の思想が強く表に出るのが純文学の特徴でしょう。反対に、読者の興味に比重を傾けていくと大衆小説に類されるようになります。「小説家になろう」に代表される異世界物は、現代の大衆小説の雄だと思います。


 これは、どちらが良いという話ではありません。ただ、シーソーのように比重が行き来する中で、その作品のバランスが保たれる位置があります。


 ――それは、どのような作品なのか?


 僕は、人間の存在を問いかけるテーマが必要だと思いました。


 モンテ・クリスト伯は、アレクサンドル・デュマの作品です。日本では、巌窟王と和訳されています。内容は、人間の尊厳を手にする為の復讐譚です。なろう系でも、追放物がもてはやされています。どちらも、テーマは同じです。理不尽に尊厳を踏みにじられた主人公の復讐の話です。作者も人間。読者も人間。同じ人間であるからこそ、普遍的なテーマは共通の関心ごとになります。


 ――そもそも、なぜ本が存在するのか?


 人間は、過去より真理を求めてきました。その方向性が、時には神であったり、哲学であったり、数学であったり、科学でありました。掘り起こした真理、発見した法則、それらを後世に残すために文字で記し残しました。それが本来の本の使命であったと思います。世界一のベストセラーは聖書だそうですが、人間が何かしらの真理を求めている証左ではないでしょうか。


 最古の長編小説は、紫式部の源氏物語です。まだ、読み切れてはおりませんが、登場する人々は現代と同じような悩みに翻弄されています。そうしたドラマに心を掴まれるのは、今も昔も、底辺に流れる人間の業に納得がいくからだと思うのです。


 作者と読者が作品を通じて、何かしら普遍的なテーマに触れるとき、深い思索が始まります。なくても小説は成立しますが、あった方が読後感のカタルシスは大きい。


「なるほどな」


 そんな一言を呟いてしまうと思います。

 長い言い訳でした。なるべく早く推敲を終わらせる所存ではありますが……そんな思考が僕の作業を遅らせています。

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