episode 32『海に沈んだ透明な小舟』

 夕暮れ時にホテルの部屋を出た。向かった先は昼間にも訪れた古城だ。

 古城は修繕してから年月が経っているのか、ところどころ床がめくれて草が生い茂っている。そんな風景も記憶のよすがになるかと思い、昼間スマホで写真に撮っていた。

 また古城に戻って来たのは、写真を撮っていた時に落としたらしい私物を探すためだ。

 それはアクリルでできた、透明の小さな舟だった。

 海岸を歩いている時に思い出して、なぜか居ても立っても居られなくなってしまった。

 自分にとってそんなにも大事なものだったのか。そう問われれば意外だとしか答えようがない。

 どういうわけか、小さな舟のフィギュアを落としたことで、私という人間から剥がれ落ちた欠片が、まだこの岬の古城に佇んでいるような気がしたのだ。

 海岸で落としたのでなくてよかった。波に攫われてしまえば、透明のフィギュアを見つけることなんて到底できないだろうから。

 ――海に沈んだ透明な小舟。

 そんな詩的な空想に耽りながら、古城の回廊を回る。

 程なくして私は剥がれ落ちた別の私と再会した。

 小さな子どもが小さなアクリルの舟を弄んでいた。ベンチに置いてみて、寝そべって眺めたりしている。

 やがて子供は舟を手放して去っていった。

 後に残された私と私の舟は、しばらくの間、回廊に佇んでいた。

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