episode 10『噴水紳士』

 噴水紳士の噂を聞いた瞬間から、激しい胸の高鳴りを抑えきれなかった。

 首から上は、紳士らしく上質な石材で造られた見目麗しい噴水。頭のてっぺんからは絶えず水を吹き上げている。

 躰は完全に人の姿で、身に着けているスーツも見るからに高級そうな逸品らしい。その立ち居振る舞いはたとえようもなく優雅だという。

 そんな噴水紳士が、夜な夜なパーティーに姿を現すそうだ。

 月のきれいな夜によく現れるらしいと教えてくれたのは、姉がクラブで歌っているという、イケイケなクラスメイトだった。つやつやの長い髪が妖艶ようえんな雰囲気をかもしている。彼女のことはなんとなく苦手だった。

 それでも背に腹は何とやらと思い切って、噴水の紳士について尋ねてみると、知っている限りのことを快く話してくれた。

 そればかりか、件の紳士も出席する予定のパーティーに招待してくれるという。彼女のやさしさにわたしは涙した。その場のノリでSNSのIDまで交換し、家に帰ってから妙な自己嫌悪に陥ったりなどした。

 週末になってわたしは約束の時間よりも早く家を出た。

 演劇をやっている従姉が自作の衣装を貸してくれ、メイクまで施してくれることになっていた。そうして、従姉の趣味が遺憾いかんなく発揮された新しいわたしが爆誕した。

 尖った耳を生やし鼻の頭を黒く塗った顔はネコ科の獣を思わせた。背中にはハエのような羽を背負っていた。靴は履いておらず、足裏に塗った特殊な樹脂のおかげで、水を弾いて歩行することまでできた。

 待ち合わせの店にやって来たわたしは扉を開けて店内に入るだけで、ホール中の視線を独り占めした。足音ひとつ立てず、床の上をすべるように移動し水の上を舞った。

 さて、噴水紳士だが実際に会ってみると、特に噴水の部分はところどころが黒く汚れていた。長い時間を地下街で、水を噴き上げながら過ごしてきた彼は、すっかり擦り切れてしまっていた。わたしが舞っているのは、そんなくたびれた噴水紳士の頭の上だったのだ。

 客席から赤いドレスの女性が、噴水紳士をじっと睨んでいた。

「あそこの女性は先ほどから、ずっとあなたを睨んでるようですが……」

 わたしは云った。ああ、お嬢さんにも見えているのですね。ずっと昔に私に溺れてしまった方なのです。未だに気持ちの整理がつかずにいるのですよ。婦人のまとう闇の深さを思って身震いがした。

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