04 嵐神(バアル)こそわが救い

 大地が轟く音が聞こえる。

 微細な揺れ、大きな揺れ。

 そう、大地が揺れていた。


 時は紀元前二五一年。

 ここはシチリア、パノルムス。

 共和政ローマ執政官コンスルメテッルスは、そのパノルムスの城壁の上から、迫るカルタゴ軍の戦象部隊を見ていた。


「来るか、ハスドルバル」


 ハスドルバル。

 カルタゴではわりと一般的な名前で、のちにローマを大いに脅かすハンニバル・バルカの義兄と弟も同名のハズドルバルである。

 だが、紀元前二五一年、この第一次ポエニ戦争のパノルムスの戦いにおいて今、戦象部隊を率いるハスドルバルは、カルタゴの大貴族、大ハンノの息子のハスドルバルである。


「来たぞ、メテッルス」


 ハスドルバルは遥か城壁の高くを望み、そこにメテッルスが立っていることを認めた。


嵐神バアルこそわが救い、というわが名にふさわしく、メテッルス、お前たちローマにとってのが――おれだ!」


 ハスドルバル嵐神こそわが救いは、ひときわ大きい象の上で、吼えた。騎象もまた、吠えた。



 ローマの執政官コンスル・メテッルスは、迫る巨象、そしてその上に立つカルタゴの将軍・ハズドルバルと対峙する。


「……一別以来か」


「……あの嵐の日に言ったとおり」


「私が」


「おれが」


「貴様を討つ!」


 その時、メテッルスと対峙するハスドルバルに、彼の乗象の脇、カルタゴの斥候ものみから、声がかかった。


「ハスドルバル将軍!」


「何だ」


「パノルムスの城に至るまで、堀があります!」


「そうか」


 ハスドルバルは、いかにもつまらぬといった表情で答えた。


「しょ、将軍」


「何だ」


「どうするので?」


「どうするかだと?」


 ハスドルバルは鞭を振り上げた。


「おそらくは堀で足止めでも考えているのであろう? くだらぬ! さような策でカルタゴを、このハスドルバルを! 戦象を! 止められるとでも思っているのか!」


 征けサランボー、とハスドルバルがえた。

 さてはあの時の仔象があそこまでの巨象に、とメテッルスは驚愕した。


「まずサランボーが、このハスドルバルが征く! 飛び越えよ! あのような堀など!」



 この対峙の瞬間に先立つこと数刻前。

 メテッルスは副官のファルトにある命令を下していた。


「堀?」


「そうだ」


 メテッルスは、師アルキメデスのように、砂盤を使って説明する。


「ここがこのパノルムス。ローマの陣地。ひるがえってこれがオレスタル川。パノルムスの前の川だ。カルタゴは、この川を越えて、パノルムスへ迫ろうとするだろう」


 砂盤の砂で都城を作り、川を模す。

 可視化されたそれは、ファルトのほか、カトゥルスやアルビヌスといった幕僚も、分かりやすさに舌を巻いた。


「……しかるに、オレスタル川の渡河地点。ここからパノルムスの都城にかけて、堀を掘っておく。さすればカルタゴは、戦象の足止めすると思い……」


「悠々と越える、と」


 あの自信満々なハスドルバルなら、そうするだろう。

 特に彼の乗象は巨象で有名だ。


「そこで軽装歩兵ウェリテスですか」


 これはカトゥルスの発言である。

 カトゥルスは平民プレブスの出であり、補助兵団ともいうべき軽装歩兵ウェリテスには親しみがあった。


「そのとおり。兜と盾と軽衣(今でいうズボン)のみの軽装歩兵ウェリテスに、短剣と槍を持たせて潜ませておく」


 これならば、堀の中に隠れやすく、目立たない。

 戦象のからも見つかる可能性が少ない。


「よしんば気づかれたとしても、その時にはよい」


 メテッルスはそこで鎧を脱ぎ、あたかも軽装歩兵ウェリテスのような、身軽な格好になった。


「なお、この伏兵には危険が伴う。だから私が……」


「おやめください」


 これはアルビヌスの発言である。


「聞き及んでおります。執政官コンスルのハスドルバル、知己ちきであることを。ならば、城壁に執政官コンスルの姿なくば、ハスドルバルは怪しみ、この策は破れましょう」


 いかにもマルス神殿の最高神官フラメン・マルティアリスの家柄のアルビヌスらしい、古風な言い回しであった。


「ゆえに、執政官コンスルは城壁にて指揮を。その軽装歩兵ウェリテスなら、私……」


「と、われわれが行きます」


 アルビヌスとファルト、そしてカトゥルスは、メテッルスが止める間もなく、彼の砂盤に背中へ向けて駆け出した。

 戦場へ向かって。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る