02 シラクサのアルキメデス
話は二十数年前にさかのぼる。
当時、シチリア、なかでもシラクサはまだ第一次ポエニ戦争(メテッルスとハズドルバルが戦っていた戦争)という嵐に見舞われず、まずまずの平和を謳歌していた。
ギリシア系植民都市として発展してきたシラクサは、学術においても隆盛を極め、地中海の各地から留学してくる者が多くいた。
メテッルス――ルキウス・カエキリウス・メテッルスもまたその留学生の一人で、彼はまだ少年といってもいい世代に属していた。
そして彼は、シラクサの自然哲学者、アルキメデスという青年の下で学んでいた。
「私に支点を与えよ。さすれば地球を動かして見せよう」
アルキメデスとメテッルスは海岸に出て、そこで
メテッルスはちょうど落ちていた棒切れをつかんで、言うように地球を動かすような仕草をした。
といっても地球が海岸にあるわけもないので、遠くに見える岩を見立てた仕草だ。
アルキメデスはそれを見ながら、砂地に地球と梃子とメテッルスの絵を描いた。
「あ、見せてください」
メテッルスがアルキメデスの描いた絵を見ようとすると、突如現れた大柄の少年に、その絵を踏み消されてしまった。
「おい」
自分と同世代とおぼしき、その大柄の少年に、つかみかかろうとした。
だが、後ろからアルキメデスに「待て」と
「せ、先生」
「よく観察しなさい」
大柄の少年が口笛を吹くと、さきほど地球に見立てた岩が動き出した。
「象!?」
「まだ
おこがましいわ、と大柄の少年は嘲った。
メテッルスが棒切れを剣のようにして構える。
「そんな棒切れで、わが象とやり合うつもりか」
「黙れ。こちらの方は、そちらの象と知らなかったし、そもそも持ち上げる真似をしたところで、どこが無礼か」
「……貴様、ローマ人か」
よくしゃべる奴は大抵ローマ人だ、と大柄の少年はうそぶいた。
「そういう貴様こそ……象は戦象という奴だろう、カルタゴ人か」
「そうよ」
「何故、こんな真似をする」
「そこなシラクサ人はシラクサ一の碩学と聞く」
アルキメデスは自分を指差して、目をぱちくりとさせる。
そういう自覚はない、ということらしい。
「……ゆえに、そいつを論破すれば、シラクサ人どもの高き高き鼻を挫くことできようと思ったが」
どうやらそれには及ばぬ、地球を動かすなどというあほうな物言い、片腹痛いわと吐き捨てた。
「……大体、貴様らシラクサもローマも、カルタゴに対して敵対的だ。誰がこの地中海を守っていると思ってる」
当時、カルタゴは地中海世界において一大交易圏を形成し、同時に海軍国家として、地中海世界に覇を唱えていた。
大柄の少年が言うには、そのカルタゴに逆らって、あるいは逆らう兆候のあるシラクサやローマは潜在的な敵であり、今の内に鼻っ柱を叩き折ってやる、ということだった。
「そうだとしても、いくら何でもこのように学問の場を邪魔することはあるまい。それこそ無知蒙昧な振る舞いではないか」
「よくしゃべる。さすがはローマ人だな」
「……そいつはどうも」
この象を連れた大柄の少年は、カルタゴの、おそらく支配層の子弟。
シチリアへは、物見遊山に来たのか。
いや。
「そうか、またぞろカルタゴは、シチリアを攻めるつもりだな」
「……そろそろうるさくなってきた。
どうやら図星らしい。
メテッルスが棒切れを投げつけようとした、その時。
背後のアルキメデスが言った。
「……雨だ」
にわかに空がかき曇り、雨滴がぽつり、ぽつりと降り落ちる。
そうこうするうちに、風が吹き、雨も強くなり――嵐となった。
「ほう」
大柄の少年は、だがむしろ喜ばしいとばかりに諸手を広げて、全身で雨を受け止めた。
「わが名に――
「ハスドルバル――それが貴様の名か」
「そうだ……そして誇りあるわが名を知った以上、貴様も名を名乗れ。怖くないのならな」
「メテッルス」
そこで象が叫んだ。どうやら嵐が怖いらしい。
「サランボー、それでもカルタゴの象か」
ハスドルバルは舌打ちしつつも象のサランボーの耳の裏を撫でて、落ち着かせる。
「チッ……まあいい。まだ仔象だ。怯えるのも仕方ない。ならば貴様ら、今からおれの聞く質問に答えろ。答えられたら見逃してやる」
「…………」
無言で立ち尽くすメテッルスとアルキメデス。
だがかまわずハスドルバルは言った。
「雨を降らすのは誰?」
意外にも年齢相応の表情と口調で、大柄のハスドルバルはその質問を口にした。
そんなの知るか、とメテッルスは叫ぼうとしたが、アルキメデスに制せられた。
そのままアルキメデスはメテッルスの前に出て、ハスドルバルを睥睨した。
「……不定だ」
「……は?」
「不定だと言っている、ハスドルバル君。私の観察する限り、それは単に海の水分が上昇して雲となり、それがやがて雨となって降る、という現象なのかもしれない」
「…………」
「……だが、それを、その現象すらをも、
「不定だというのだな」
面白い、とハスドルバルは呟いて、
大柄のわりには身軽な動作で、象のサランボーに乗る。
「待て」
雨に濡れながらも、メテッルスは叫んだ。
「ピュロス王の起こしたピュロス戦争の傷跡も生々しい今、そのような戦象を使って何とする」
数年前、エペイロスのピュロス王がイタリア半島、ならびにシチリア島に乱入して、ローマやシラクサ、そしてカルタゴを巻き込んで大いなる戦乱の巷に叩き込んだことがある。
その戦乱において、ピュロス王は戦象を引き連れ、ローマ相手に血みどろの戦いを繰り広げ、戦いに勝利しながらも、次から次へとローマが軍を立て直して襲いかかってくるため、とうとう諦めて兵を退いた。
メテッルスは幼いながらもその惨状を目の当たりにして、このような虚しい戦いを起こすまいと密かに決意していた。
「フン、ローマ人よ、教えてやる。ピュロスのような愚か者が二度と現れないためにはな、カルタゴのような強者が支配することが肝要なのだ」
「くだらぬ」
「くだらなくはない。どうしてもというのなら、貴様が止めてみるがいい。討ってみるがいい」
だがその時はおれが貴様を討つと言い捨てて、ハスドルバルはサランボーを操って、今度こそ去っていった。
「…………」
あとに残されたメテッルスは、「風邪を引きます」と言って長衣を脱いでアルキメデスをかぶせ、そして二人してシラクサへと駆けて行った。
雨を避けるためだけではない。
カルタゴの動きを、一刻も早く報じるためだ。
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