第41話
日曜の朝、少しよろめきながら歩く母さんと、散歩に出かけた。
休日は週に一度、リハビリ兼ねて一緒に歩くようにしている。数か月前は外を歩くことさえできなかったけど、今は三十分くらいなら休みなく歩ける。
病気のころは白髪交じりだった髪も、今ではカラスの羽のように真っ黒だ。祇園さんの髪に似ているが、年の差もあってか色艶は及ばない。
知り合いに出会わないよう朝早く出る。からかわれ、いじられた記憶は今も新しい。
車が通る大きな道に出たところで、道沿いのベンチに座り少し休憩する。体力が戻ってきたとはいえ、無理をすると翌日寝込むこともある。
肩で息をしていた母さんの様子が落ちついてきたので、腰を上げようとすると周りを霧が包む。山間のこの町では晴れた日はよく霧が出るのだ。
普段なら山の尾根がはるか先に見通せる平坦な道路なのに、今は対向車のライトさえかすんでよく見えない。
帰ろうか、そう勧めたけれど。
「せっかくのおめでたいことがあったし、もう少し歩くわ」
と母さんが言うので、もう少し進むことにした。いつも行く道は車が多く通るのでわき道にそれる。庭が小さな畑くらいある家が立ち並ぶ住宅街を、二人で進んでいく。
「いつもと違う道も、新鮮ね」
母さんは笑顔だけど、僕は万一がないよう、道の曲がり角や物陰に目を凝らして進んだ。車をとっさに避けるほどの運動神経はまだ戻ってはいない。
狭いけれど舗装され、よく整備されている道に入った。車一台やっと通れるほどの狭さだけど、道の脇には高い銀杏の木が植えられていた。
足元すらかすむほどの霧に包まれて先端の高さまでは見えないけれど、二階建ての屋根くらいの高さはありそうだ。
でもこの銀杏や整備された道はどこかで見覚えがある。やがて霧が流れ、道の奥にどこかで見たような真っ赤な鳥居が見えた。
さらには乳白色の霧越しに血がにじんだかのように、真っ赤なスカートが浮かび上がる。
「西戸崎くん……?」
赤いスカートと思っていたのは、巫女服の緋袴だった。その衣をまとった少女の瞳と髪は黒真珠のようにつややかで、大きめの白いリボンで長い髪をまとめている。
「祇園さん、なんでここに?」
「私の実家が神社だし、早朝は掃除のおつとめがあるから。今日は霧がすごいから、少し様子を見に来たの」
そう言われて周囲を見ると、確かに一度来た祇園さんの家の神社の境内に続く道だった。銀杏の青い葉が一枚、足元に落ちる。
この先を少し行くと長い長い石造りの階段と、その先に続く社があることを思い出した。
「ところで、その人は……?」
祇園さんは僕の隣に立つ母さんに視線を向けた。
彼女は疑問符を浮かべたが、年齢差や顔のつくりを見れば関係性なんてすぐに気が付く。怖い。
祇園さんの反応を見るのが怖い。病気の家族を見られたことが。
同情されるのも、馬鹿にされるのも嫌だ。
「お母さん?」
やせ細り、立ち止まっただけで足がもつれる母さんの様子を見て。祇園さんはごく自然な所作で身を少しかがめ、母さんと目の高さを同じにした。
「うちのおばあちゃんも、似たような感じだし…… でも一緒に散歩できて、良かったですね」
ごく自然に、心の内から零れ落ちるような笑顔で祇園さんは自己紹介する。
「クラスメイトの祇園 知里です。生徒会の会計をしています」
腰を曲げない丁寧なお辞儀は、清楚で上品な雰囲気に包まれた巫女服にぴったりで。頭を下げていくに従って、顔の横を艶やかな黒髪がさらさらと流れた。
「ちょっと体調悪そうだけど、すごく優しそうな人だね」
今まで僕の母さんを見た奴らは、病気であることを馬鹿にするか可哀想にと同情するかだった。
でも祇園さんは、違った。
考えすぎだったのかもしれない。
過去、母さんの病気をネタにからかう人が多くて、臆病になっていたのかもしれない。
心配してくれる人は、ちゃんといるのに。それを信じられなくて、勝手に頭の中で決めつけて、思い込んで。
自分で自分を傷つけていた。
母さんは節々が目立つ青白い手で、祇園さんの手をそっと包み込むようにした。
「うちの息子と、仲良くしてやってください」
「はい。必ず」
同じようにそっと、母さんの手を包み込んだ祇園さん。
同情も、蔑みも、嫌悪感すら感じさせない。
目頭に熱さを感じた、その時。霧の中からもう一体の人影が染み出してくる。
乳が濁ったような深い霧の中から、左右に結った髪と柳の葉のように細い栗色の瞳が見えてくる。
いつかもみたシンプルなシャツにひざ丈のスカートから、シミ一つない霧よりも雪よりも白い肌がのぞいていた。
「先生……?」
静音ちゃんは、同じく霧の中から姿を現した僕を驚いたように見上げている。
「なんで、こんな朝早くから?」
「運動ですかね」
静音ちゃんは淡々と答えた。
「学校にもあまり行かないから、運動不足になりがちだって。だから朝早く歩いたり、少し走ったりするようにしてるんです。特に霧とか雨の日はお気に入りですね」
「霧で服が湿る感触とか、雨が体をはじく感触が面白くて。それに近所の人とか、学校のクラスメイトと出くわしにくいですから」
彼女がそこまで言うと、風が出て霧が少し流れる。
視界がわずかに開け、少し離れた位置に立っていた二人と静音ちゃんがお互いを目視できるようになった。
彼女と初めて出会った、地域清掃のボランティアの時と同じような冷たい視線。それを祇園さんと母さんに向ける。
その目に浮かぶのは、明らかな拒絶と警戒の色。
静音ちゃんは黙って、その場を立ち去ろうとした。
「先生、って呼んでるってことは…… その子が全校集会の時に言ってた、家庭教師してあげてる子?」
静音ちゃんはその言葉を聞いて足を止める。
「どういう、ことですか。なんで知られてるんですか。全校集会って、どういうことですか」
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