第40話
お金がなくなる。
それを意識するようになって、日常から安心と言うものが消えた。
感情が不安定になって、ささいなことにも涙ぐみ、激昂し、精神をすり減らしていった。
決してお金持ちとは言えないけれど、ある程度ゆとりはある家ではあったと思う。
年に一度は旅行に行けたし、ローンという単語が時々聞こえたけれど一軒家に住めた。
でも平凡な幸せなんて、所詮は砂上の楼閣だ。ふとした拍子で簡単に崩れ去る。
お母さんが病気で倒れて寝たきりになってから、僕の生活は崩壊した。
死への不安と介護負担、莫大な治療費。
それだけで家の中から笑顔が消え、会話は重たい話ばかりになった。食事の時間さえ苦痛になり、発作的に過呼吸が止まらなくなる。
私物や道端のがらくたに八つ当たりすることも増え、その度に自己嫌悪に陥った。
心療内科で処方された薬を飲んでもイライラが募り、指が震えたり気分が乱高下したりするだけだったのですぐにやめてしまった。
何で自分だけがこんな目に遭うのだろう、あの頃はそんなことばかり考えていた。恋愛には興味がなくなり、将来には恐怖を抱いた。
小学生のころから本好きだったけど、現実を忘れるためにさらにのめりこむ。絶望感や自殺企図にシンパシーを感じて太宰治に深くはまった。
太宰治で一番はまったのは『斜陽』。落ちぶれていく華族の家の悲哀を描く物語。
母さんのこととぴったりと重なって。
病気のことを病院の診察室で医者から聞かされた時、足元が崩れ落ちるように感じた。
それから、母さんは医者の言う通り段々と悪くなっていった。大好物の卵焼きですら、口に含んだだけですぐ戻してしまう。
手がむくんでくるのも、ほとんど食べられず口にガーゼをしめらせたのをそっと含むだけになるのも、いよいよか、そう思うと逆に悲しくなくなるのも。
みんな、『斜陽』に出てきて、ページをめくるたびに涙があふれた。
父さんは母さんの治療費を稼ぐため、少しでも稼げるからと単身赴任していった。
今思えばそれはいいわけで、だんだんとやつれていく母さんを見るのが辛かったのかもしれない。
幸い保険金などが入ってきて、医療費の助成制度も活用し、僕が高校を卒業するくらいの資金の目処は立った。
ずっと寝たきりかもしれないと言われた母さんも、奇跡的に回復してきた。それとともに家族にも笑顔が戻って、父さんは月に一度は帰ってくるようになった。
そうするうちにやっと、食事の時間が苦痛ではなくなった。
でも一度味わったトラウマは僕の心に深く根を下ろす。
今でもフラッシュバックや過呼吸は、夜一人になった時に時々出現している。その度に弾かれるように跳び起きて、深呼吸をくりかえしたり苦いお茶を流し込んでいる。
母さんが回復して、色々と考える余裕が出てくる。将来はお金の心配がない職に就きたい、そう強く思うようになった。
現実を忘れるかのように勉強を必死にするようになったけど、陰キャコミュ症ゆえの要領の悪さは相変わらず。苦手科目だった英語は克服できなかった。
それから、バイトを探すようにもなった。でもそのために勉強の時間が削られては本末転倒だ。
できるだけ時間を取られず、給料が高いバイトが良い。もしくは勉強の邪魔にならないバイトか。
でもそんな都合のいいものがそう簡単にあるわけない。そう思っていたけれど、幸福も不幸も、願いごとも。僕には何の唐突もなくやってくるらしい。
不登校の玉名ちゃんと知り合い、家庭教師のバイトにつけた。
同じような境遇だったから、彼女の心に寄り添えたのだと思う。
さらに勉強の邪魔にならないどころか、考えをまとめたり、発表する練習にもなってお金をたくさん稼げる。
「生徒会長になったよ」
選挙が終わった日の夕食の席。僕は母さんにご飯をよそいながら、そう言った。
二人で席に着き、いただきますをする。
母さんが箸を取るのを見るだけで、ありがとうっていう気持ちがこみ上げてくる。
一年数か月前、母さんは一人で食事を取ることすら出来なかった。今も食事を摂るスピードは僕の半分もない。
これがあるから、古賀を家に招待できなかった。
考えすぎかもしれない。被害妄想かもしれない。
でも中学時代、母さんが重い病気にかかったと知って、心配してくれた人もいたけれど。いじりやからかいのネタにした奴は皆無じゃない。
僕の心がナイフで抉られ、辱められ、切り刻まれていっても彼らは笑顔で。
僕が逆切れすると逆に非難された。
『なにキレてるんですかー』
『ただのおふざけだろ、何マジになってんだ』
このこともあり、高校は小中学校の学区から離れたところを選んだ。同じ町内だけど方向が正反対だから滅多に会うことはないし、もう僕に関心を無くしたのか、ばったり会っても特に何も言ってはこない。
僕に心無い言葉を言ったことなんて覚えてないのか。もしくは、心無い言葉とすら思っていないのか。
生徒会長になったという僕の言葉を聞いていた母さんは、細い目をさらに細めた。僕を見つめるその瞳に、喜びが溢れていて。母さんのその表情を見るだけで、嫌な思い出が吹き飛んでいく。
でもすぐに血色の悪い肌に陰が差し、掠れるような声で呟いた。
「無理してないかい?」
母さんが僕のことを考えるときは、必ず心配から入る。
だから努めて笑顔を作り、優しい声音を心がけながらありのままを話す。
「大丈夫。頼もしい友達も一緒にやってくれるから」
経験者の黒崎君に任せれば、だいぶ楽になるだろう。
それを聞いた母さんはやっと笑みを浮かべた。
「それは良かった。でもね、辛かったらいつでもやめていいんだよ」
母さんは骨ばった指で箸を置き、涙をにじませた。
「お前があんな風になって、見てるのが辛かった。私のせいで心配かけたね」
「無理だけはしないで。生きていてくれるだけでいいから」
母さんの優しさに目の奥が熱くなる。同時に、母さんが病気になったくらいで荒れてしまった、過去の自分が情けない。
僕は母さんに、どれだけの不安を与えてきたのだろう。
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