第30話

夜の自室。虫の音に包まれながら蛍光灯の明かりの下で、僕は資料をまとめる。良さげな本をコピーし、見つくろった箇所に傍線を引き、登場人物の気持ちや作者の意図を問う問題を作成する。

資料といっても歴史総合のものじゃなく、静音ちゃんの家庭教師用だ。

あらかじめ準備をして、予習をしておかないと教えることはできない。一人でさえこうなのだから、数十人に教える教師は大変だなとしみじみ思う。

ぽこんと、傍らに置いたスマホから特徴的な音が鳴る。

胸に沸き立つような感情を覚え、急いで手に取った。

『こんばんは。試験どうだった? 答案受け取るとき、私何かしちゃったかな……』

 祇園さんからは様子がおかしくなったことを心配するメッセージが多い。

『なんだか、教室で目立つのが気恥ずかしくなってきて』

『でも、この間までそんなことなくなかった?』

『この前、』

 デートと打ちかけた文を消す。

『一緒に出かけたのがきっかけかな。人目が気になるようになって』

『そう? 私服だったし、人が多いから人ごみにまぎれて、私はそんなに気にならなかったけど』

『次は…… どうする?』

 次、と。

デートのお誘いだろう。直接的な表現を使わないところに彼女の奥ゆかしさを感じる。

 試験も終わったし、来週にでもと呟きたい。

 夏休みになったら、一緒に行ってみたいところがたくさんある。

 でも。


「身の程をわきまえろ」


 あの時の言葉が、いばらの棘のように心に刺さって、なかなか抜けない。

『夏休みの予定が、まだよくわからなくて。もう少し先でもいい?』

『そっか。家族のこととか、色々あるだろうしね。じゃ、また連絡するね!』

 巫女さんがお辞儀をしているスタンプを最後に受信し、会話が終わる。

 連絡先を交換しておいて良かったと、対面で話せなくなって改めて思う。

たとえ学校で話せなくても、つながりが切れたりはしない。

あの時の一件から、祇園さんとはラインだけの関係が続く。

ラインでのやり取りなら見られることもないし、からまれる口実になることもない。

 祇園さんにはこの前の一件は言っていない。ただ、忙しいとだけ。

 彼女も何かあったことだけは察しているようだけど、深くは追及してこない。ありがたいと思う。

 もし知られたら、きっと彼女は僕を心配してしまうだろうから。

そういえば、もうすぐ生徒会選挙だ。まあ誰がなってもいいけど。

 学校の行事なんて、どうでもいい。

 集中するためにスマホをサイレントモードに設定し、静音ちゃんのための資料作りに戻る。デート帰りに静音ちゃんと出会った日のことを、思い出した。



 夏の残照の中、静音ちゃんの瞳が鋭く僕を捉える。

 天神とは違い、駅前とも違い、もう周囲には誰も人がいない。ヒグラシの鳴き声と、庭木の葉擦れの音だけがあった。

「あの人って……」

 とりあえずとぼける。はっきり見られたと決まったわけじゃない。

「黒い髪がきれいで、白い大きなリボンを頭の後ろで結んで、プリーツスカートをはいた女性です。ずっと、見てました。先生が電車の中で、あの女の人といっしょにいるのを。隣に座ってたのも」

 ばっちり見られていた。

「私は今日、都心の方で模試があったので。同じ電車に乗ってたんです。それで先生、あの人は先生の何ですか」

「友達、だよ」

 別の一言を言いたい衝動を抑えて、僕はそう口にする。

「ただの友達ですか、よかった。私は先生のことが大好きですから」

 甘さもムードもない、ただ断定するかのような物言い。世界を「情報」ととらえがちな彼女らしかった。

 でも静音ちゃんは、嘘をつけるような子じゃない。

「大好きって…… 高校生と小学生だよ?」

 今までもそんな予感はあった。

でも、一人ぼっちでいたところに声をかけたのがたまたま僕だっただけ。そう自分に言い聞かせていた。

「そのどこがいけないんですか」

 世間体と常識をタテマエにした僕の言葉に、静音ちゃんの眼が光を失う。

 声の響きに宿った狂気に、背筋に氷を詰められたかのように感じた。

「今は十二歳と十七歳だけど、将来、私が二十歳の時先生は二十五歳です。世間的に問題ない年齢差になると思います」

 年齢不相応な物言いに聞こえるけど、彼女にとってはこれが普通なのだ。

 賢い子は、周りと違う話し方をしてしまうからいじめられやすい。

「他にいろんな人がいるから、同年代の男子だって、まだ出会いの機会はいくらでも……」

「同じ年の男の子なんて大っ嫌い。私がひどい目にあわされてた時、どんな反応してたと思いますか? 笑って、茶化して、いっしょにいじって」

「人が泣いてるのに、いじるのはいじめとは違うからいいって」

「そんな無神経で白状で人の心がない奴ら、顔も見たくない」

 静音ちゃんの言葉の端々から怒りがほとばしる。

 彼女に流されないよう、穏やかな口調を心がけた。

「でも環境が変われば、きっといい出会いもあると思う。静音ちゃんは、小学校のクラスメイトとは別の学校に行く予定なんでしょ?」

「はい。合格すれば、ですけど」

 背中のカバンに記されたロゴ。それは、某有名塾の名前だった。

「先生が教えてくれて、本当によかった。あいつらと同じ学校に行かなくて済む方法があったんですね」

 少し歪んだ目元と、華やいだ笑顔がそこにあった。

 彼女の状況を変えるため、家庭教師をしていた僕が提案したこと。

 彼女と会うたびにずっとずっと、考えていた。かんしゃく持ちだけど優しくて、すごく頭がいい子だ。そんな子がいつも辛そうな顔をしているのが辛くて。

いろいろと調べているうちに中学受験という方法にたどり着いた。

 親戚に似たような子がいたし、この前やっていたドラマで似たようなシーンがあった。

中学受験をテーマにして。小学校では浮いている子、静かにできない子、学校には行けないけど塾には行ける子。そんな色々な生徒が織りなす物語。

自分でも調べたけど、病気で外見にハンディがあったり、同じように不登校の子たちが通うこともあるらしい。

 僕は彼女に、中学受験することを勧めた。高校と違って内申書が必要ない学校も多いから不登校でも問題ない。学費と塾の費用は掛かるけど、名家である彼女なら問題ないだろうと思った。

 勉強を見る限り得意科目、不得意科目の差は大きいけど地頭はいいし、これだけの集中力があればなんとかなるだろうと思った。

 人間関係を一からやり直せば、友達だってきっとできる。

 僕が提案すると静音ちゃんは目を輝かせて、部屋を飛び出すように母親に相談しに行った。

もちろん最善の方法ではないのだろう。お金も時間もかかれば、家族への負担も大きい。一介の家庭教師が言うことじゃない。

 人間関係から逃げたやつは一生逃げる、というネットの書き込みもあった。

 でも彼女の状況をどうにかする方法は、これしか考えつかなかった。

 逃げるな? 不愉快極まりない。

 死にたくなるほど苦しんでる、十歳を過ぎただけの子供に。逃げることを勧めて何が悪いんだ。

 静音ちゃんを責める資格があるのは、彼女と同じ目に遭った人だけだろう。

 意外なことに母親はすぐに賛成した。不登校の子の将来について色々と調べていたらしく、当事者同士の集まりいわゆるピア・カウンセリングなどにも出席して相談や情報交換を行っていたという。

 そこで中学受験をさせてはどうか、と話が出たそうだ。

 僕の家庭教師だけでは受験は無理なので、まず塾に行ったらしい。

まず一週間の体験入塾。一日目はほとんど話ができず、暗い顔をして帰ってきたけれど。二日目、三日目と話しかけられることも増えてきた。

からかわれず、いじられず、いじめられずに話しかけてもらえる、そんな彼女にとっては奇跡のような状況に感激したそうだ。

 一週間で数年ぶりに友達ができて、塾にこのまま行きたい、塾の友達と同じ学校なら行ってみたい。そのまま入塾を決意したそうだ。

信頼できる人がいることで、落ち着いてきた。かんしゃくを起こすこともだいぶ減り、同じ学校に通う古賀の妹という友達もできた。

「先生の言うことは、わかります。私みたいな人間に言い寄られて迷惑だってことも」

「……それでも」

 静音ちゃんが、視線を茜色の地面に落とす。カバンを持つ手が小刻みに震えていた。

「今でも笑顔が、怖いんです。私と同じくらいの子達の笑い声を聞くと、いじられ、いじめられていたことを思い出して震えが止まらないんです」

「塾が好きなのは、みんな真剣に勉強してるから、笑い声が少ないからっていうのもあります」

「塾の子たちは、学校の乱暴な子とはだいぶ違いますけど…… それでも、怖いことがあるんです」

「学校の先生だって、お医者さんだって変わらなかった。私の話を聞いたふりして、おざなりな対応するだけ。親だって私の心を完全にはわからない」

「私の心を理解してくれた、怖くないって思えた、初めての人が先生だったんです」

 うなだれていた静音ちゃんが、僕の方を向き直る。目には真珠のような涙が光っていた。

「先生。今は高校生と小学生だから無理、って言いましたよね? 他にいい男の人がいるかも、まだ会えていないだけじゃない? って言いましたよね?」

「なら、私が大人になって。先生以外の男の人をたくさん見て。それでも気持ちが変わらなかったら」

「私と、真剣にお付き合いしてくれますか?」

静音ちゃんは、どこまでも真剣だ。

もし僕がここで、彼女を拒んだら。きっと彼女は、壊れてしまう。

僕は一度壊れたからよくわかる。だから。

「うん。大人になったらね」

そう、言うしかなかった。

その時の彼女の表情は、あまりにも脆く、そしてあまりにも幸せに満ち足りていた。

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