第26話
「お昼どうしようか?」
祇園さんが腕時計で時間を確認しながら言った。ベルトは上品なデザインのシルバーで、スマホで確認しないところに気品といったものを感じる。
「そうだね……お気に入りの店があるんだけど、いいかな?」
本の重みをずっしりと感じながら、炎天下の道を歩いて行く。
天神の駅と反対方向にジュンク堂から歩いて十分程度。
駅前とは打って変わってスーパーやアパートなどが立ち並ぶ。宮若町に比べごちゃごちゃとした印象のある住宅街の隅に、ひっそりとその店はあった。
黒ずんだ木製の看板、窓ガラスがプランターから伸びたアサガオの蔓で覆われた喫茶店。
看板と同じ色の扉を開けるとドアベルがカラコロと鳴り、同時に外を歩いていた時に噴き出た汗が、皮膚を凍らせる魔法をかけられたかのようにひいていく。
本屋といい喫茶店といい、弱冷房の店はないものか。
店員さんに案内され、席に座ってすぐに祇園さんはカーディガンを羽織った。
「ごめんね…… 寒いけど、美味しい店だから」
「ううん、西戸崎くんは悪くない。私が寒がりなのが悪いから」
祇園さんはそう言いながら、革表紙でラミネートされたページを綴じたメニューを開く。
「うん、確かに美味しそうだね! どれにしようかな……」
メニューをめくるときでも膝をそろえ、背筋を伸ばしているのは図書館で見かけた時と変わらない。
電車の座り方でも思ったけど、やはり彼女には大和撫子という言葉がぴったりだ。
「お待たせしました」
やがて銀色のお盆に乗せられた料理が運ばれてくる。目の前に湯気を立てる濃い飴色のルウの香りが、鼻腔と食欲を刺激する。祇園さんはカレーと紅茶のセット、僕はカレーだけだ。
「飲み物は?」
「水があるから、いいかなって。カレーにはやっぱり水でしょ!」
カラ元気でそういうが、本音はお金がもったいないからだ。セットの紅茶一杯に三百円も払うくらいなら、そのお金を貯蓄に回したい。
「いただきます」
「いただきます」
さっそくカレーにスプーンを差し込み、口に運ぶ。
同時に香る数種類のスパイスが味に深みを出している。口の中でほろほろとほぐれるじゃがいもと肉は飲み込むたびに幸せを感じて。
白米に絡むようなルウは、野菜とスパイスと肉を煮込んだコクと旨味が濃縮されている。
大変なことばかりの人生だけど、僕はしばし口内の天国を堪能する。
祇園さんの食べ方は、僕は会ったことがないけれど、天使の羽が舞うようだった。
もし現代に本当の華族というものがあれば、こういう食事なのだろうか。
真っ白い指先でスプーンをつまむように手にして、ひらりひらりと擬音が聞こえそうな優雅な手つきでカレーをすくい、口に運ぶ。
スプーンが皿に触れるときもは立てず、口にカレーを運ぶ時は前かがみにならない。
太宰治の中でも一番好きな「斜陽」を彷彿とさせる、完璧なマナー。
黒髪ロングだけどプライベートでは言葉づかいが汚く、寝転がってお菓子つまみながら「あの男バッカだね~」なんて言う、なんちゃって清楚系じゃない。
食事に人間の本質は現れるという。付け焼刃の礼儀作法なんかじゃない。
祇園さんは、ホンモノの大和撫子だ。
一通りカレーを食べ終わる。僕は水、祇園さんは紅茶を飲んでいると、話は自然とお互いの好きな対象に移る。
小野不由美先生といったメジャーな女性作家から彼女が好きな別の悪役令嬢ものまで。
「西戸崎くんが教えてくれたマリーアントワネットの転生ものも読んでみたよ。安っぽいチートじゃなくて、あえてフランス革命に疎い人を主人公にしてるのが面白かった」
「うん。続きが楽しみだったんだけど。実はあれ、次の巻で打ち切りらしいんだ」
「え? 嘘、まだまだ書けそうな話題がたくさんあったのに」
「この前祇園さんに貸した本だけど、別のシリーズものもあってね」
嗚呼。会話が楽しい。
僕は今まで、会話が気まずいものでしかなかった。
自分が楽しいと思っていることが他人はそうじゃなくて。その逆もあって。
僕の気持ちと他人の気持ちはすれ違ってばっかりで、ただ空気を悪くしないよう気遣っていた。
でも祇園さんとは違う。
神経尖らせなくてもいい。それにだんだんと、祇園さんが楽しいと思う話題を、彼女のちょっとした反応から探るのが面白くなってきた。
祇園さんの喜ぶ話し方を色々と考えるのが心地よくなってきた。
考えて、工夫して、祇園さんの嬉しい気持ちがこっちにまで伝わってくる、そんなやり取りが嬉しい。
「でも意外だね」
ふと話題が別方向に向く。
「本屋さんでの英語のタイトルの件だけど、読書家だから文系全般得意かと思ってた」
「英語は、苦手なんだよ」
中学のころからそうだった。勉強をどれだけ頑張っても、英語は常に中の下くらいの成績しか取れない。
他は大体、上の中くらいは取れるのに。英語の家庭教師だけはまず無理だろう。
空気を悪くしてしまったことに気づき、僕は慌てて話題を探す。
焦ったのが、良くなかったのだろうか。
「祇園さんは友達多いし、文学少女ってタイプならたまに見かけるからさ。こうやって本の話で盛り上がれる人は僕のほかにいないの?」
「今までも、本の話しをする人はいた」
彼女の声の調子が、硬質になる。地雷を踏んでしまったのが、はっきりとわかった。
「本好きって人はいたよ。でもね。上っ面ばっかり合わせてくるんだ」
「同じ本が好きな子はなかなかいない。同じ本が好きでも同じ感動を抱く子はさらにいない」
「気持ちを分かってくれてるって思ったら、実は熱く語る私に辟易してるだけだって、噂で聞いたり」
「同じ本好きってだけで集まるグループがむかついて。それで、高校では入るグループを変えたんだ」
穏やかだった言葉遣いが、乱暴になっていることに気が付く。
「それにリア充グループに憧れた時期もあったし。いつも大勢で集まって、にぎやかにしてる人を見て。一人で本ばかり読んでいる私は、なんなんだろうって」
「メイクも流行りの話題も、髪形も服も勉強して、一生懸命周りに合わせた。運が良いことに第一印象の会話ですべらなかったから、そのまま陽キャのグループには入れた。本をたくさん読んでたせいか、幸い話題は豊富な方だったし。相手に合わせるのが上手い、っていうポジションを確立してグループに溶け込んでいった」
「そうやって、自分が憧れた中に入って。毎日が充実する」
「はずだった」
祇園さんは強く、冷たく言い切った。
「でもすぐに、自分が合ってないことに気がついたんだ。そもそも本ばかり読んでいた私と、毎日バカ騒ぎしてた人たちの感性がかみ合うはずなんて、ないよね」
祇園さんの口調が沈み、同時に自嘲するような響きを帯びる。
空になったカップのふちを、真っ白な指でなぞっていた。
「グループの人たちと違って黒髪にしてるのも、あんな風に派手に染めるの、なんだか怖くて。一度髪を派手に染めた自分を鏡で見た時、まるで別の人間が私の体を乗っ取ったみたいに思えて。すぐ元に戻して、髪とかメイクとかは地味なものにした」
「それに感性が合わないって、結構絶望的なんだ。皆が楽しいと言っているドラマで私は楽しむことができず、綺麗という芸能人が嫌いで」
「誰かをからかって楽しむ会話なんて、特に嫌いだった。自分がからかわれて嫌な思いをしたのに、それを見て見ぬふりをしないといけなかったから」
「この頃急に、話を合わせるのが辛くなってきて。でも気付くと、もう私は抜けられないところまで来てた。下手にグループを抜けるといじめの対象になりかねない」
息を荒くした彼女が、空になった紅茶の代わりに水を一気に飲んだ。氷の浮かぶコップが、カラコロと音を立てる。
空調の風が、会話で汗ばんだ体から急速に熱を奪っていくのが感じられた。
「ちょっと、ごめんね」
体を抱えて席を立った祇園さんは、しばらく帰ってこなかった。帰ってくると、青い顔で少しふらついている。
「ごめんね。お腹、弱くて。寒いも苦手だけど、ストレスでも緩くなるの」
「別に、気にしてないよ。祇園さんのせいじゃないし」
「でも、迷惑かけてるから……」
「祇園さんが悪いわけじゃない。自分がなりたくて病気になったわけじゃないでしょ? それなのに自分を責めるような物言い、やめてよ」
僕にも身に覚えがあることだから、彼女が自分自身を責めることが許せなくて。つい、きつい口調になってしまった。
大和撫子の顔に怯えが走る。残った水の味が、いやにカルキ臭く感じた。
それからは何となく気まずくて、寒かったこともあってすぐに喫茶店を出た。
普通の人なら嫌がる汗が噴き出るような日差しを浴びて、祇園さんはほっとしたような表情を浮かべる。
嗚呼。
どうして好きな人との会話っていうのは、うまくいかないんだろう。
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