第25話

翌日の日曜、朝から家事を済ませた後。

 僕は古賀の家に行った時と同じ、清潔感のあるワイシャツとチノパンといういでたちで最寄りの駅のホームに立っていた。

 前よりもずっと丁寧にアイロンをかけ、しわ一本もない状態にした服。でも空調はおろか屋根すらもない駅のホームでは、あっという間に汗まみれになる。

一時間に一本しか電車の来ない、僕の家最寄りの木造の駅舎。無人の改札口を超え、錆びの浮いた線路を跨ぎホームへ行く。

 四角いお菓子の箱のような形をしたコンクリートの塊に、椅子と駅名を記した看板だけが乗っかっている。コンクリートに入ったヒビからは雑草が夏の日差しを受け青々と伸びていた。

電車に乗り込むと、まばらに見える客はスマホをいじったり参考書に目を通したりしている。都心には大手の塾があるし、そこで模試があるのだろう。

線路は単線で、すぐに山を削って作られたトンネルに電車は吸い込まれていく。

「楽しみだね」

 窓の外の景色が暗闇の中を流れる白いライトだけになると、隣に座る祇園さんの姿が一層際立つ。

始めてみる彼女の私服は、控えめに言って天使だった。

エメラルドグリーンのプリーツスカートは細かいひだが緋色の袴にも似て。

上着はフリルのついたシンプルな白一色のブラウスで、巫女服の小袖にも似ている。

彼女の黒く輝く髪には、やっぱり清楚な服装がよく似合う。

ピクシブ以上に魅力的な存在が、今ここにある。

 でも女子らしいおしゃれなバックでなく、なぜか大きめのザックを膝にのせていて、そこだけファッションが浮いている感じがした。

 僕が凝視していると、祇園さんと目が合う。

 お互いに何を言うこともない。目をそらしたのは、どちらが先だっただろう。

 横顔やうなじが少し赤らんで見えたのは、妄想じゃないと思う。

 でも、僕のことを好きという感情まではいっていないだろう。ただ男子と目が合ったから、気恥ずかしくなっただけ。この年になって、それくらいの分別はつけられるようになった。

 でも、それくらいでちょうどいい。今ここで両想い、なんてことになったら。

 嬉しさと興奮で、また叫んでしまうだろう。

 会話が途切れ、周囲の状況が目や耳に入ってくる。急に車内が明るくなった。

 トンネルを抜け、線路にはみ出した山の樹木にぶつかりながら電車は走る。ばたばたと、枝が車体をたたく音が響いた。

 休日のため、市内へ向かう電車にはそこそこ人がいる。その中の熟年夫婦がほほえましげに僕たちを見ているのと目が合って。

 急に気恥ずかしくなった。

 山を抜け、社内にも窓の外から見える景色にも人が増えていく。

 目的地の天神に着くまで僕たちはほとんどしゃべらなかった。だけど、不思議と気まずくはない。

 


 宮若町から電車で二時間ほど進み、電車は天神の街に着く。ぶつかりそうになる人込みを抜け、千円ほどの電車賃を払い、駅を出ると。

 目が痛くなるような数の看板と空を狭く感じるほど乱立するビル。

 僕たちの住む町にある、ヒグラシの鳴き声と田畑をざわめかせる風はどこにもなく。排ガスの香りと宣伝カーの騒音が、耳と鼻を容赦なく蹂躙する。この臭いと音だけは、いつまでたっても慣れない。

 僕らは示し合わせたように、途中のブティックもカフェーも無視して本屋へ一直線に向かった。

 ビルが丸々本屋となっているジュンク堂書店。一歩中に入ると肌を刺すような冷気に包まれ、汗に濡れた体から容赦なく体温を奪っていた。

祇園さんは身震いしてザックからカーディガンを取り出し、羽織った。

「準備がいいね?」

「慣れてるから」

 トレードマークでもある白いリボンで腰まである黒髪を束ねながら、ドヤ顔になる。

 本を入れるためと思ったけど、このためでもあったのか。

 店中に掲げられた新刊の広告、店内に山のように積まれた平積みの新刊。宮若町ではまずお目にかかれない、絵本から専門書まで揃えられた空間にテンションが上がる。

 あまり読まないジャンルでも、知の泉に飛び込んだ時には高揚を覚える。

隣の祇園さんも、無邪気な童女のように目を輝かせていた。

 彼女のこんな様子を見るのは、初めてだ。

 ずっと地下へ続くエスカレーターを見つめながら、彼女はそわそわしていた。

 僕もその階にまず用があったので、彼女と並んで降りていく。

 祇園さんが向かった先は、女子向けのティーンズノベルが並ぶ一角。棚一面に白っぽい表紙の本が並べられ、平積みにされている本の表紙にはイケメンと美少女が並んでいる。

 当然、僕が好む男子向けのライトノベルや純文学とは場所が別だ。周りは女子ばかりで。

 居合わせた女性の口元が動くたび、目線が僕をとらえるたびに。何を思われているか気になって仕方がない。

 その思いが顔に出ていたのか、無表情を装っているつもりでも雰囲気ににじみ出たのか。

「ごめん、西戸崎くんが好きなところへ行っていいよ?」

 祇園さんがそう言ってくれた。表情は苦く、愛想笑いを浮かべている。

「いや、いいよ」

 少し強引な気がしたけど、棚の奥のほうへと僕は進んでいく。

「え、でも」

「恥ずかしいけど、せっかくだから祇園さんが面白いっていう本をもっと知りたい。あとから見せてもらうだけなんて、なんだか違う気がする」

 彼女はためらいがちに、新刊コーナーへと足を向けた。

「じゃあ、杜乃先生の新刊を……」

 祇園さんは迷いなく平積みにされた本のいくつかを手に取っていく。ジュンク堂の入り口に置いてある本を入れるための白いカゴが、たちまち半分ほど埋まった。

「あ、小出先生の新刊も出てる!」

 彼女は突然嬉々とした声を出し、一冊を手に取った。表紙と作者の名前を食い入るように見てから、そっとカゴの中に入れる。

「じゃあ次、コミックの方に行くね!」

 輝くような黒髪をたなびかせ、別のコーナーに早足で歩いて行った。

 彼女のテンションが徐々に上がっていくのを感じる。本の表紙をじっくり見て、中身を我を忘れたように読み込んでからカゴに入れたり、棚に戻していく。

 本によっては一話分だけ立ち読みできるようにカバーがかけられているのだ。

 笑ったりぷんすかしたりと彼女の表情が百面相するのが面白い。

「あ、ごめん、西戸崎くん…… 自分の世界に入っちゃって」

「いや、いいよ。祇園さんを見てるだけで楽しいから」

「え……、それはひどいよ」

 一拍の間が空き、彼女の声が上ずる。

 お決まりのセリフを言ってみたが、想像以上に恥ずかしい。

ラブコメじゃないんだから、動揺しても好感度は上がってはいないだろう。

言葉なんて時と場合に応じて使い分けるべきで、本のパクリでリアルの人が口説けるわけがない。

でも彼女の感情が揺れ動いたのは、何となく感じる。

今まで、クラスメイトを相手にする時は気を使ったり、相手の反応の意味がわからなかったりで。疲れてばかりいた。

でも気になった相手だと。ちょっとしたことへの反応がすごく楽しい。

恋愛を楽しむっていうのは、こういうことなんだろうか。

リア充はこういう気持ちを、常に味わっているのだろうか。

 祇園さんがお気に入りを堪能した後は、男子向けのライトノベルのコーナーにも連れて行った。僕たちのほかにも何組かの男女がいて。

 どう見られているのか怖くなった。知り合いがいないか、素早く視線を巡らせる。

 祇園さんと一緒にいるところを、見られるのはまずい。

「西戸崎くん、大丈夫だと思うよ?」

 祇園さんの声に頭が冷え、冷静に周囲を観察して見る。

みんな、他のペアを対して気にしていない感じで小説を手に取っている。

 軽く目が合っても、意識の外だ。服装も声も顔も、気に留める様子がない。

「みんな本が目的だし。もし顔なじみがいても、知られたくないのはお互い様だと思うし」

「ありがとう、祇園さん」

 それからは心地よい無関心の中で、僕らはゆっくりと本の海を楽しんだ。

 大衆文学や、純文学のコーナーにも行った。まだ持っていない司馬遼太郎や太宰治の文庫本をぱらぱらと立ち読みしていく。祇園さんもほかの有名作家の作品を手にとっては眺め、また棚に戻していった。

 そのまま移動すると、やがて英語のタイトルがずらりと並べられたコーナーを横切った。

「You are unaware of what is about to happen」

「なんだか怖いタイトルだね…… 意味深って感じがする」

祇園さんはタイトルを一読しただけで正確に翻訳できたらしい。だが僕は単語を追って、表面上の意味を探るだけで精いっぱいだった。

「君たちは、何か、幸せ……?」

 僕の訳を聞いて、祇園さんは目元を緩ませた。

「違うよ、『何が起こっているか君たちは気づいていない』だよ」

やがて本屋巡りも終わり、二人でお互いに選んだ本をレジに持っていく。

 ざっと四千円弱。交通費と合わせて、かかるだろうお金は食事代も含めれば六千円強か。

 デートはお金がかかる。僕が恋愛に足踏みしていたのも、それが原因の一つだった。でも祇園さんとは本を買いに行って、それから一緒に食事をするだけだから。僕の普段の休日の過ごし方とほとんど変わらない。

 ひと月に一回、六千円程度なら。家庭教師のバイト代で十分。お金が無くなったら買う本を少なくするか、諦めるしかない。

 お金は大事だ。それを僕は一年前、身を持って思い知った。

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