第7話 むかつく顔には裏がある
次に会った時は、前回の分を取り返すかのような激しいセックスだった
23歳の男の性欲はとどまることを知らずに深雪を求めてくる
その一瞬だけ、深雪は現実を忘れられるし、自分が誰かに必要とされているように感じるのだ
帰る時、
エレベーターが到着する合図が鳴ったら手を離して、エレベーターの中に他に人がいなかったらまた手をつないで乗り込む
エレベーターの中でocomeが深雪を抱きしめるのは別れの儀式のようなものだ
初めて会った日、「こうして触れ合えるのもここまでだから」と言って、身動きができないほどに固く抱きしめられた時、深雪は驚きとときめきとあまりのきつさに本当に心臓が止まるかと思ったほどだ
この日も2人はエレベーターの中でつかの間の別れを惜しみ、エレベーターが1階に到着すると同時にパッと離れた
2メートルほど間隔をとってホテルを出て、あとは友だちか仕事の同僚のような顔をして駅まで歩くだけである
いつも通りホテルを出ようとすると、先を歩いていたocomeが立ち止まった
「どうしたの?」
深雪が後ろから声をかけると、ocomeはいきなり深雪の手をつかんで走りだした
「ちょっ…どうしたの?」
「いいから走ってください」
ocomeの言葉に従いつつも後ろを振り向くと、黒い高級車からスーツ姿の男性が降りてきたところだった
ocomeはホテル街の狭い路地を走り抜け、小さなホテルの半地下の階段に隠れて息を潜めた
深雪は息を整えながら、ホテル入口の目隠しの陰から様子を伺うocomeの表情を伺った
「…大丈夫みたいですね」
「誰なんですか?」
深雪の質問に、ocomeは一瞬何を聞かれているかわからないとでもいうようにきょとんとしてから首を傾けて「さあ?」と言った
「知らないのに逃げてたんですか?」
「いや、黒塗りのベンツが止まってたらとりあえず逃げるじゃないですか」
「確かに。いかにもな車だったね」
「念のため別々に帰りましょうか」
「ですね」
深雪の方にも心当たりがないこともない
聡はアナログだから、ロックがかかった深雪のスマホを見たり、GPSで場所を調べたりはしないだろうが、人を雇って探ることくらいはするかもしれない
ただし、疑っていればの話だが―
ocomeに促されて深雪は一人ホテル街を出た
※※※
深雪は聡の帰宅時間に合わせて、いつでも温かい食事を出せるように準備している
聡の帰りが22時を回る系列の病院に行く日も例外ではない
本当は作り置きしてすべて片づけて、後はのんびりアニメでも観ていたいのだが、ずっと緊張感を持ったまま待たなければならない
昼間、どんなに優しく撫でられて甘い言葉をささやかれて至福の時を過ごしても、家に帰ったらどんよりと沈んだ
帰宅した聡はいつにも増して不機嫌で、帰るなり食事を一瞥して「量が多いよ」と言った
「全部食べなくてもいいよ。明日私が食べるから―」
「そういうことを言ってるんじゃないんだよな」
「じゃあどういうこと?」
「こんな時間にこんながっつりしたモノ食べたら体に悪いだろ」
深雪は自分が用意したメニューを確認した
トウモロコシの炊き込みご飯・チキン南蛮・茶碗蒸し・あおさの味噌汁
「いつもと一緒だよ」
「他の日ならいいけど、月曜と金曜は遅いってわかってるんだからもっと気を遣えよ」
この中で『がっつりしたモノ』と言えばチキン南蛮くらいだ
今までだって月・金に揚げ物を出しているのに、いきなりケチをつけるのは何かほかに気に食わないことがあったのだ
深雪は昼間の出来事を思い出した
黒い車と黒スーツの男たち…
彼らが聡の差し向けた調査員かなにかだったら―
深雪は話の糸口をつかまれないように警戒しながら「ごめんなさい。じゃあこれは下げるね」と言ってチキン南蛮の皿に手を伸ばした
しかし、聡はその手を強引に引き戻し、「いいよ食べるから」と言ってチキン南蛮の衣を剥がし始めた
―そんなことするなら食べなくてもいいじゃない―
深雪は喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ
※※※
気が付けば裸姿でベッドに横たわっていた
ルーティン通りであれば、聡が風呂に入っている間にキッチンを片付けて、聡と入れ替わりにお風呂に入って、スキンケアをして髪の毛を乾かし、ベッドでスマホや雑誌を見て小一時間過ごして就寝する
だが、聡がチキン南蛮の衣をはがし始めた辺りから記憶が曖昧で、なぜいま自分が裸でここにいるのかよく思い出せなかった
隣では、普段は別の部屋で寝ている聡がいびきを立てて寝ていた
きっちりとパジャマの一番上までボタンを留め、首元まで布団を掛けている
深雪は寒気を感じ、床に散乱している下着とパジャマを拾い集めて着た
何が起きたのかは一目瞭然だった
記憶は曖昧でも状況が物語っている
いつもは深雪の誘いを鼻で笑うようにあしらい相手にしないくせに、なぜ今日に限ってこんなことをしたのか
夫婦であれば嬉しいはずの行為なのに、気持ちよかった記憶もなければ、実感もない
ただただ自分の意識が体の中にあるようなないような、常に視界に黒い靄がかかっているようなそんな感覚だった
深雪はスマホを手にリビングに向かった
リビングの壁掛け時計は1時をさしていた
ソファに座り温かい紅茶を飲んでいると、スマホのモニターが光った
何も表示されないがメッセージが届いた証拠だ
深雪はスマホを手に取りメッセージをチェックした
相手はocomeだった
深雪はメッセージを返すことなく、端に表示されていた受話器のマークを押した
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