第13話 はじめてのトレーニング①

 翌日は日差しが心地よい晴天。コウキは約束の九時より少し早く、マンションの一階へ向かった。「暑くなるかも」と思いつつ自動ドアを抜けて外に出ると、そこには、すでにマヤの姿があった。落ち着かない様子で道の向こう側をキョロキョロと見ている。

「早いですね」

 コウキが声を掛けるとマヤは振り返り「良かった」と言わんばかりの笑みを浮かべた。どれくらい早く来たのだろうか。

「早く目が覚めてしまったもので」

 自宅周辺を歩くだけなので、気負う理由は全くない。しかし、それは慣れているコウキの感覚だ。初めての体験を前にすると落ち着かなくなってもおかしくない。翌日、マヤのピアノを聴きに行く。今度は自分がソワソワするのだろうか? そんなことを考えていたコウキを、マヤの言葉が現実に引き戻す。

「こんな格好で大丈夫でしょうか?」

 マヤは両手を広げて自分の姿をコウキに見せる。上下、紺色で揃ったジャージ姿。スポーティなデザインとは言えないが、トレーニングには差し支えない装いといえる。

「上下とも問題ないです。靴も歩く分にはそれでいいでしょう。ただ……」

「ただ?」

 言葉の語尾が気になり、マヤは眉をハの字型にした。不安そうにコウキの顔を覗き込む。落胆させるつもりで言ったのではない。ただ、マヤの持ち物が気になっただけだ。

「その大きなリュックサックは……何でしょうか?」

 マヤは異様に大きいリュックサックを背負っている。前日に伝えた必要な物はそんなに多くない。いいや、そもそも手ぶらで大丈夫なはずだ。マヤはコウキの視線がリュックサックに向いていることに気が付いたようだ。

「これですか? 始めてのトレーニングが不安なので、色々持ってきました!」

 マヤは、勢いよくリュックサックを地面に降ろした。上部のチャックを開けると、中身を地面に出しながら持ち物の説明を始めた。

「まずは、水のボトル。これは予備も含めて二本。いや、三本あります。脱水になりたくないですからね」

 取り出したボトルを三本、地面に置く。これだけでも、それなりの重量になる。

「で、これは、おにぎり。途中でお腹が空いたら困りますからね。あっ、コウキさんの分もあります」

 銀紙に包まれた塊を出してコウキに見せる。マヤは、それを地面に置かずにリュックサックに戻した。

「あとは、ケガをした場合の応急処置セットに、汗をかいたときの着替えでしょ……」

 真剣に説明するマヤの様子を見ていると、コウキは笑いがこみ上げてきた。これでは登山の準備だ。近隣を歩くために用意するには大げさすぎる。

「ハハハハハハ」

 こらえきれなくなったコウキは、お腹を抱えて大声で笑い出してした。失礼と思いつつ、我慢が出来なくなっていた。水のボトルをリュックサックに片付けようとしたマヤの手が止まる。何がおかしいのか分からず、キョトンとしていた。

「水は目的地の公園で買えます。あと、このくらいの短距離のトレーニングだと、朝ごはんをちゃんと食べれば、食事を持っていく必要はありません、それに、ケガは滅多にしません。もし歩けなくなったら自動運転車を呼べます」

 大声で笑われたことに加え、理由付きで持ち物を否定されたマヤは、頬を膨らませてふてくされた表情をした。

「だって、そこまで教えてくれなかったじゃないですかー」

 語尾が少し怒っているように上がる。表情も少々、起こっている様子。ここで機嫌を損ねられたら、楽しみにしていたトレーニングが台無しだ。反省したコウキは、マヤをフォローすることにした。

「ごめんなさい。確かに言わなかった僕が悪いです。笑って失礼しました」

 そう言ってはみたが、マヤの表情はまだ不機嫌に見える。

「戻って置いてきます」

 マヤは立ち上がってリュックサックを背負い直すと、マンションの自動ドアの方へ歩き出そうとした。コウキは、咄嗟にマヤの手をつかんで止めた。そして、振り返ったマヤに笑顔で伝えた。

「大丈夫です。リュックサックは重そうなので僕が背負います。用意周到なのは良いことです。行きましょう」

 コウキの目をジッと見たマヤは「じゃあ、お願いします」とリュックサックをコウキに預けた。それを背負ったコウキは「こっちです」と川に向かう方角を手で示した。想像より重たかった。一体、何が入っているんだ? 不思議に思ったが、コウキはそれを口に出すのをやめた。


 二人は遊歩道を並んで歩いた。木々の隙間から鳥のさえずりが聞こえた。姿は見えないが、一匹ではなく複数いるようだ。互いが会話するように交互にさえずり合う。その歌声のような響きに耳を澄ませながら歩くマヤ。機嫌はすっかり良くなったようだ。

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