第3話 しなくてもいい仕事
エレベータで一階に下りて、エントランスから外に出る。すると、一台の車が音もなく近付いた。ドアが自動で開き「お乗りください」と男性の電子的な音声がコウキをいざなった。
後部座席に乗り込んだコウキは「会社まで」と短く告げると、ドアが自動で閉まり車は静かに発進した。コウキは誰も乗っていない運転席に視線を向けた。
完全自動運転。この時代では当たり前の技術だ。コウキの予定は午後、仕事だと分かっているコンピューターが自動で配車したのだ。こうした制御は政府が管轄する巨大コンピューターが一手に担っている。なんとも便利な世の中だ。
無人の運転席でハンドルが右や左に回転している。「なんで無人で運転できるのにハンドルがあるんだ?」コウキは不思議に思って調べたことがあった。その理由は政府の発表の中に記載があった。「もしも、自動制御が故障した場合に備えて人間が操作できる機構を残す」というものだった。
それを知ってから周囲を気にして観察すると、テレビの裏には操作ボタンがあるし、シャワーには温度調整のノブが付いている。しかし、自動制御が壊れたという話は聞いたことがないので、コウキには無駄なものに思えた。
車の中は静かだ。事前にそうリクエストしているからだ。家では激しい音楽を聞くコウキだが、仕事前は気分を落ち着かせたいと思っていた。
窓の外に視線を移すと、並木道に親子連れが歩いている。それほど多くないが車も走っている。コウキはふと気になり腕時計に語りかけた。
「東京の人口は?」
「二千万人です」と女性の声が返答する。
「その割には出歩く人も、車も少ないよな。まあ、遊歩道が混まなくていいけど」
ボーっと外を眺めながらコウキは呟いた。家で過ごす人が多いからかもしれない。外出しなくても、必要な栄養は採れるし、体を鍛えることもできる。それが可能な世界だ。
二十分ほどで都心部に到着した。大きなビルが立ち並ぶオフィス街。その一画にある五階建ての雑居ビルの前で車は停まった。周囲の高いビルと比べると貧相に見えるその建物にコウキの勤める会社が入居している。
エレベータで五階に上がると「山本アカウンティング(株)」と印字された扉があった。ノックをすることもなくコウキは中に入った。
「おはよう。いいや、昼なので「こんにちは」かな」
窓際の大きな机の向こう側から、大柄で太った男がにこやかに話しかけた。彼がこの会社の社長、山本だ。
「おは……いや、こんにちは。社長」
コウキは自分の親よりも年上の社長に作り笑顔で挨拶をした。
「道は混んでいたかい?」
「いいえ、混んでいませんでした。タイムカードを押してきます」
職場は狭く、事務机が十人分と、社長の机。あとはコピー機に小さい打ち合わせスペースくらい。社長の机は皆を見渡せる位置に置かれていた。事務机には女性が二人、互いに離れた位置に座って作業をしていた。それ以外の席は空いている。
「おはよう、コウキ君」
コウキが脇を通過すると女性の一人が声をかけた。
「こんにちは、和田さん。今日も精が出ますね」
机に散らばる伝票を見ながら返事をした。五十歳を少し超えたこの女性がベテランの和田ミエコ。ミエコは、コウキが困っているといつも優しく教えてくれた。両親と離れて暮らすコウキにとってお母さんのような存在だった。
「和田さん、コウキ君にコーヒーを」
「お言葉ですが社長、あなたが一番、お手すきのようですが」
ミエコは遠慮なく、社長に言い放った。「それもそうだ」社長は少し薄くなった頭を
「フフフ。社長でも和田さんには叶いませんね」
少し離れた席で作業をしていた若い女性がクスクスと笑う。彼女は、
「こんにちは、ユウカさん」
「コウキ君、今日も伝票が山積みよ。心しておいてね」
和風美人を連想させる長い黒髪を揺らしながらユウカが楽しそうに告げる。コウキはこの会社の砕けた雰囲気が気に入っていた。
「今日の出社はこれだけですか?」
壁際に取り付けられた機械にタイムカードを通しながら二人に質問した。
「ケンタ君は急きょお休み。サユリさんは旅行でお休み、あとは――」
ミエコが丁寧に説明してくれるが、コウキは途中までしか聞かずに自分の机に着いた。急に休んでも社長も誰も文句は言わなかった。それがこの会社の方針だ。コウキも予定外で休むことがあったが、決めた予定はできるだけ守るようにしていた。
「和田さん、今日は伝票の入力をすればいいですか?」
コウキは、机の上で今にも倒れそうな紙伝票の山を両手で整えた。
「ええ。それが終わったら、申請書のチェックもあるので頑張って」
ミエコは空席の机に積まれたA4の紙の束を指さした。
「任せてください。体力には自信があるので」
最初の仕事は紙伝票の電子化。経理作業の代行がこの会社の業務だ。大きな会社は様々な間接業務を外の会社に依頼している。そのうちの一つ。
毎朝、様々な会社から紙の請求書や伝票が送られてくる。それを一枚ずつ、パソコンに打ち込んでいくのだ。そんな作業は機械にできることは、コウキにも分かっていた。これは、人間に与えるために作られた仕事だ。
急に休む人がいても問題にならないカラクリはここにある。人手が足りないときには機械に作業をさせればいいだけだ。
一見無駄な作業だが、コウキは気に入っていた。伝票を一瞬で暗記して、パソコンの画面に視線を移して入力する。終了した伝票を脇の段ボールに入れて、次の伝票を入力する。単純作業のようだが、手の動かし方、視線の移し方、記憶の仕方など工夫の余地は沢山あった。作業スピードは会社一だと自負していた。
「終わりました!」
三十分、止まらずに作業をしたコウキは、汗がにじむ額を手の甲で
「さすがのスピードね。じゃあ、次にこれよろしく!」
いつのまにか、ユウカが細い腕で次の伝票の山を抱えて後ろに立っていた。それをドサッとコウキの机に置く。黒髪からほのかな香水の匂いが漂うのを感じた。
「まあ、ユウカさん。少し、休憩を挟ませてあげなさい」
「社長、お言葉ですが。まだ30分しか働いていませんわ」
ユウカが社長に物を申すが、決して怒っているわけではない。その証拠に、顔にほのかな笑みを浮かべている。
「コウキ君。冷めてしまったがコーヒーが入っている。休憩スペースで近況を聞かせてくれんか。続きはそれからでいい」
社長は、作業に集中しているコウキを見てコーヒーを差出すタイミングを失っていた。「暖かいのをいれなおすか?」と社長が言ったが、コウキは「いいえ、それをいただきます」と笑顔で答えた。
壁際に置かれた小さいテーブルと対面で置かれた小さいソファー。そこが休憩スペース。
「コウキ君は相変わらず引き締まった体をしているね。自力でトレーニングをしているんだよね」
社長は自分の太った腹を撫でながら聞いた。
「はい、日課です。筋肉刺激機はどうも好きになれなくて」
「ワシも同じ。あれはピリピリして不快だ。まあ、自分でトレーニングする気もないので結果、こんな体形になっているがな。ハハハ……」
社長は豪快に笑った。ピリピリするのを少し我慢すれば、スリムな体形が手に入るのに……コウキはその言葉を噛み殺した。
「仕事のあと、みんなで夕食はどうかね? 無理にとは言わんが」
社長は皆に聞こえる声で提案した。一人で過ごすのが好きなコウキが回答に躊躇していると、和田さんが「和食なら行きます!」と手を上げた。続いて、ユウカも「コウキ君が行くなら……」と小さく手を上げた。
「じゃ、じゃあ、ご一緒します」
ユウカさんも来るなら……コウキはそう思って同意した。休憩後に席に戻ったコウキは次の作業に取り掛かった。今度は清算書の処理だ。小物を買ったり、出張の交通費を精算したりした場合に会社に請求をするための伝票。各会社で精算のルールが異なるので、チェックには気を使う。ルールに合わない伝票は理由を附して返却をする必要があるからだ。
コウキは、大量の書類を素早く、次々と処理していった。
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