2.
『キャッチサイン!キャッチサイン!』
複素空間航法から抜けると、それは突然舞い込んで来た。
甘く、甘美な歌声——
「銀河のバミューダトライアングル」を飛び越す「吊橋」を掛けるための先攻偵察建設部隊重巡洋艦ラーク。
その指揮官が私の使命だった。
そこは「
寧ろ「無人」で当然の場所であった。
なにせ、そこはこの銀河の中央付近に位置する三大ブラックホールの密集地帯、事象の地平面が複雑に入組み、入ったが最後、そこから抜出すことは光でさえ不可能な宙域である。
幾世代にもまたがる、それこそ那由多にも近しい時間をかけた世代間航行をしなくてよくなったとはいえ、確立されたばかりの複素空間航法でも「着地点」をかなりシビアに定めないと、出た瞬間に再びシュワルツシュルト半径の内側に吸い込まれ、二度と出てこられなくなる可能性もあるような空間である。
この宙域での事故の多さから、旧来の世代間航行船も殆ど通らなくなって久しい。
三次元航行しかできない旧来の船でここを通るのは、戦間期に夜間飛行を敢行したリンドバーグやサン・テグジュペリのような、ほとんど自殺行為と同義の冒険行為であった。
実際、現在の技術をもってしても空間センサの精度はこの宙域では初期の飛行機でアルプス越えをするよりいい加減なものになってしまう。
だからこそ、新しく開発された複素空間航法の専用装置を持てない中型以下の船舶も複素空間航法に「乗れる」為の「吊橋」を掛け、この銀河の流通をより効率的にしようと我々が派遣されたのである。
そんな宙域に女性の歌声?
それも、こんなに楽しそうな——
私は当初、複素空間から出た直後の錯乱、「実在性バーティゴ」が自身に起きたのではないか、と疑い、すぐさま自動操縦の安全モードに切り替えると、自分のバイタルチェックを行った。
結果は良好。一切問題無し、と出た。
「ああ、こちら
バイタルチェック後、すぐさま指示を出す。
「現在、当艦は正体不明の信号を受信。内容は『プリマドンナのアリア』。実に楽しげだ。このA.I.君を信じるならば、私には『実在性バーティゴ』は起きていないもよう。危害は無いと思われるが、この『無人の空間』にあっては何が起るか判らないので、各員最大限の警戒に努めてもらいたい。繰返す……」
私の指示に各員から了解の返事がくる。
「こちら
副官から冗談も返って来る。
「少なくとも『夜の女王』程危険な歌声には聞こえないが、貴官には『沈黙の修行』が必要かもしれないなパパゲーノ補佐官」
「トゥーランドットでもないと良いですね。タミーノ指揮官」
恒星間航行は暇な時間が大いにできるため、船員を無駄に教養豊かにしてしまう。
我々の間ではオペラが流行ったが、他に編み物に没頭する者等、様々な「暇つぶし」が行われる。
「それで」
副官から話の本題が入る。
「その『プリマドンナ』とはコミュニケーションは可能なので?」
「まだ不明だ。取り敢えずはこちらからキャッチした旨返すが、これだけ事象の地平面が入組んだ場所だ、どれだけのラグがあるか、そもそも届くのかも計算不能だ」
「了解。では先ず、テノールのそちらからラブレターの返事をお願い致します。ウェルテル指揮官」
「拳銃自殺をしそうな名前で呼んでくれるな。補佐官」
こうして、「歌姫」との楽しい日々は始まったのである。
+
結論からいくと、「歌姫」は幽霊や妖精でもなければ「エイリアン」でもなかった。
こちらの返信に応じて発信された動画には20から30代始めと思しき栗色の長髪をフワフワと編み込んだ女性が映っており、自分の事をシャーロットと名乗った。
時空の歪みが酷いためリアルタイムでの音声・ビデオ通信は不可能であったが、ラグを考慮したビデオレターやテキスト通信の形でコミュニケーション可能な、普通の人類である。
彼女の説明を基に調べたところ、彼女が乗るアバロン級恒星間飛行船シャーロット(彼女の名前はここから取られたそうだ)は宇宙大航海時代の初期に地球を出発した世代間フロンティア船団の一隻で、運悪くこの「バミューダ」に捕まり、「座礁」した模様であった。
ただ、普通であればそのままブラックホールに飲込まれるのだが、丁度それぞれのブラックホールの重力均衡点に「座礁」したらしく、その場にピンされてしまったようなのだが、「歌姫」本人はその事をよく理解していないようで、「呪い」という表現を使っていた。
彼女はその船の生まれか、或は幼い頃にコールドスリープに入ったかのどちらかで、船が「座礁」している事を然程気にしている風もなかったが、外界との通信が可能になった事には大いに喜んでいた。
「お父様もお母様も、『お外』との連絡が取れないことで酷く落胆されてましたので、今のこの事をお伝えしたら、さぞお喜びになられるかと思いますわ」
外界の情報自体は事象の地平面が、湾曲した時間の中とはいえ届けていたようで、認識の擦り合わせも最小限で済んだ。
ただ、少々言葉遣いが古風によるのは、両親の教育の影響なのか、情報の伝達ラグによるものかは判らない。
「その、そちらのお父様とお母様は現在どちらに?」
つい短文のビデオメッセージを送ってしまってから数分後、彼女から返事が来た。
(この後も数分から長いときには一時間以上のラグが発生したが、ここでは割愛する。)
「お父様とお母様?お二人でしたら、今はもうお隠れになって、この船と私の血肉になっておりますわ?」
物事を理解するのには聡明ではあるが、しかし自分が発信する立場になるとふわふわとし、危機感も薄い彼女とは別に、その落胆する程度には物事の重要性を理解している両親からも船の状況を聞き出すため放った私の問いは、しかし、これもふわふわと返されてしまった。
「ああ、御愁傷様で……」
思わずお悔やみの言葉を発してしまう。
「あら?残念な事ではありませんでしてよ?」
彼女は哀悼に対し、微笑んで返して来た。
これも船の中で育った彼女からしてみれば当然の話で、彼女にすれば最初から「世界」はあの船とモニター越しの情報だけであり、また、現在と違い世代間航行の場合は船内リソースの関係から人の死体であっても「リサイクル」するのは「正しい」事な訳なのだから、これは単純に文化の相違でしかなかったのかもしれない。
我々先攻偵察建設隊がこの宙域に来た目的や行動、上手く行けばシャーロット宇宙船を救出できる可能性もある事をシャーロットに告げると、彼女は喜び、その日の通信はそこで終えた。
その後、本隊に上述の報告を上げると、我々は早速現地調査に乗り出し、「ゲート」や「アンカー」等を設ける空間が充分にあるか等を確認し、建設に着手した。
+
「御覧になって下さいな。今度の柄はここの折り込みを立体交差にさせてみましたの」
画面の向こうのシャーロットが嬉しそうに、またどこか誇らしそうに織物をカメラに近づけ、こちらに見せようとしてくる。
「特にここの部分は機械織りの合間に手作業を加えたものですから、手でやるのよりも余計に時間がかかってしまいましたの」
残念ながら、最も見せたいであろう箇所はカメラに近づけ過ぎて、焦点が合わず、却って不鮮明にしてしまっていたが。
建設中も我々とシャーロットとの交信は続き、日々の他愛のない事も共有するようになっていった。
建造任務とはいえ、常に空間ごと飲込まれる可能性もあるこの宙域での緊張を伴う日常において、彼女との交流はそれだけで我々の心のアンカーになっていた。
シャーロットはこれまでの人生で他者と遠隔通信した経験が無い為か、通信機器の、特に発信する際の扱いに不慣れで、しばしばマイクやカメラをオフにし忘れたまま機織りの作業に没入してしまい、そのまま歌声をブロードキャストしてしまう事があった。
その歌声は時に我々を癒し、或は鼓舞してくれたので、スイッチの切り忘れを指摘する者はいなかったが。
この歌声こそ、我々がこの宙域に出現した当初受信したものであった。
その歌声は透き通って良く響き、軽やかで艶やかでもあった。
その音階は孤独によって磨かれ、普段我々が馴染んだ調性を離れ、しかし無調とも異なる憂いと喜びとの
シャーロットの体を媒介とし、その生命に胎蔵する宇宙が形而下に受肉し、瑠璃色の銀河と共鳴する、唯一にして普遍の原初の音楽。
それは、一切が有無の演算に還元される我々の作業が、しかし実際には無限に重なり合い、複数の要素を複雑に組み合わせ、計算の埒外をもって現実に顕現する生命の仕事である事を思い出させてくれた。
それは、システム化され、全体のための一部になる事を避けられない我々の文明へのアンチテーゼにして福音のように響き渡っていた。
我々の作業の内容や進捗状況は機密に当たる為彼女に教える事はできなかったが、その代わりに船内での些細な事や、どれだけその歌に救われているか、どんな物が船内で流行っているか、等を送った。
そうして日々は過ぎてゆき、いよいよ「吊橋」の「タワー」が立ち「ワイヤーケーブル」(いずれも概念的呼称である)が掛けられる段にさしかかった。
そして、ここに至り、それまで重なり合っていた「ケーブル」の中央付近とシャーロットの座標とが近しい事が確定し、いよいよ救出できるかもしれない、となった。
現場は複数の事象の境界面の均衡点であるため多分に困難かつかなりの危険を伴うが、もしこれが成功すれば、我々は、世紀の大建造事業の魁と前代未聞の救出劇とで、二重にその名を歴史に刻む事ができるのだ。
何より、これまで我々が救われた分、これで彼女を救い返せるのである。
その事の喜びと覚悟を彼女に伝えるメッセージを送ると、我々はその日に備えることとした——
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