第30話 剥落 2
「はぁー」
玄関の前で今日一番の盛大なため息をつく。
ミサキを襲った女性の正体はF県F市に住む主婦だった。そんな人がなぜ東京にまで来てこのような犯行に及んだのか。理由はミサキの予想した通り『タナトスと踊れ』にあった。
ネットではミサキの書いた小説は現実で起きた事件を参考にして書かれていて、それらの事件はミサキ自身が起こしたものだという噂が流れていた。でもそれを信じているのは一部だけで、どちらかと言えば信じていない者のほうが多数派だった。だが、ミサキが二日前に警察から事情聴取を受けたことがネットに流れると状況は変わった。少数派と多数派が逆転したのだ。
そしてミサキを襲った主婦もまた噂を信じている側の人間だった。主婦は小説内でエースによって事故に見せかけて殺されたライダーの元ネタになった事件の被害者の母親だと自称していた。だから娘の仇を取りに来たのだと。
「勘弁してよ。もう」
泣きそうになるのを堪えてミサキは玄関の戸を開けて家の中に入った。頼りない足取りで寝室まで行って、カバンと一緒にベッドの上にボフッと身を預けた。
暗い部屋、何の音もない部屋。刺激されるものがなければ頭をよぎるのは襲われそうになったときの映像。一歩間違えれば怪我ではすまなかった。恐怖を思い出した体が一瞬だけ震えた。
ミサキはこの時になってようやく自分のしでかしたことの重大さを自覚していた。でも、それでもミサキは止まらない、止まれない。子どもの頃から夢見ていたことがようやく現実になろうとしているのに、それをみすみす手放すようなことをするつもりはなかった。
そのためには『タナトスと踊れ』の修正作業を無理矢理にでもやり遂げる必要がある。
今日は家にミサキの両親はいない。自分一人だけなら夕食を用意する必要もない。
シーリングライトのリモコンに手を伸ばす。昼白色の光に一瞬だけ目を細めるもすぐに慣れる。サイドテーブルに置きっぱなしの文庫に手を伸ばす。最近買った小説で、本屋で表紙に惹かれて衝動買いした小説だ。ジャンルはミサキの大好きな恋愛小説。夜寝る前に少しずつ読み進めている。挟んだ栞のところを開いて文字を追う。
こうやって本を読んでいると嫌なこと辛いことは全部忘れられる。恋愛小説には様々なパターンがあるが基本的には主人公が誰かと結ばれてハッピーエンドで終りを迎える。
自分の前にもいつか素敵な男性が現れるに違いないと夢想していた子どもの時分が懐かしい。でも現実は、何の出会いもないまままで来てしまった……
「って、ダメダメ」
今しがた仕事に向き合おうとしていたのに、気づけば誘惑に負けていた。
寝室は仕事部屋も兼ねていた。負けそうになる体に鞭打って、ベッドから起き上ががり、テーブルの上に開きっぱなしのノートパソコンのスリープモードを解除する。適当でも何か書き始めれば調子も出てくるだろう。ミサキがイスに座って作業を始めようとしたところで家のチャイムが鳴った。
「だれよ、もぅ」
リビングに移動してドアホンを取る。カメラの映像にはトレンチコートを着た無精髭の男が立っていた。
「はい。どちら様でしょうか?」
どんなに滅入っていても、こういう時はすんなりと余所行きの声が出る。
『警察です。何度もすいませんが先程の件についてもう一度詳しくお話を訊きたくてですね』
そう言いながらドアホンのカメラに向かって黒い手帳を掲げて見せてくる。
詳しい話も何も、さっき警察署で嫌ってくらい話したはずだと辟易しながらもミサキは対応する。
「はい。今開けますので少々お待ちください」
玄関を開けると警察だと名乗った男はもう一度ミサキに手帳を見せてすぐにコートの裡に仕舞う。せっかちな正確なのか、速すぎてよく確認できなかった。男は構わず話を続けた。
「少しお話がありまして。今よろしいですか?」
本音を言えば気乗りはしなかったが、自分は警察に疑われている立場だということを鑑み、ここでゴネて心象を悪くすることは躊躇われた。だから「ええ、どうぞ」と男を家に招き入れ、リビングに案内し、食事用に使っているダイニングテーブルに座るよう勧めた。
「それでお話というのは?」
お茶でも出そうとミサキは訊ねながら台所へ移動する
「ああ、お構いなく。――それよりこれを確認してほしくてですね」
男は申し訳無さそうにイスから立ち上がりミサキを追いかける。
「確認してほしいことですか?」
ミサキが振り返る。男がコートのポケットをまさぐっていると、ミサキの視線は自然とそこに注目する。そして男がポケットから手を抜き出した瞬間。ミサキの目を冷たい液体が襲った。
「ひょあっ! なっなんなんですか!?」
ミサキはわけもわからず目をこする。視界が塞がれたミサキは突き飛ばされ盛大な尻餅をついた。
「あいだっ!」
闇の向こうで男が自分の体に触るのがわかると、ミサキはこれから自分が何をされるのか想像し恐怖に打ち震えた。
「ちょ、やめて! ふざけないで!」
恐怖を払拭するように手足をばたつかせ必死の抵抗を試みるが視界が判然としない状態ではそれらは空を扇ぐばかりだった。両手を無理やり拘束され、その次は両足だった。ミサキはあっという間にイモムシのような状態にされてしまった。
「いつまで目をつぶってるんですか? それ、ただの水ですよ」
そう言われてゆっくりと目を開けた。まだ少し湿った感覚は残っていたが痛みや痒みなどは感じなかった。
「あんた、警察じゃないわね! 言っておくけど、私に酷いことしたらどうなるかわかってるんでしょうね!」
ミサキが最大限の侮蔑と怒りのこもった目で相手を睨みつける。だが、相手はお前の体になど興味はないと言わんばかりに鋭い視線をはねのけ、ダイニングテーブルに備え付けのイスを床に転がるミサキの傍まで移動させる。背もたれを前にしてそこにどかっと座った。
背もたれに両腕を乗せミサキを見おろす。ミサキに対抗するように蔑むような視線を向ける。
「なによ、なんとか言いなさいよ」
しばらく無言が続いて男が口を開く。
「どうして罪を認めないんですか?」
……またか。
ミサキは辟易としため息を付いた。一日に二度もアンチの襲撃を受けるとは思っていなかったからだ。
「アンタもネットの噂を信じ込んだ口ね。言っておくけど私はやってないの! 何も!」
「どうして罪を認めないんですか?」
男はミサキの言葉を無視して繰り返した。これもあの時の繰り返しだった。アンチには日本語が通じないのかとミサキは苛立ちをあらわにする。
「何よ、もうっ! どいつもこいつもバカの一つ覚えみたいに! だからやってないって言ってるでしょ! 人なんて殺してないのよ。私はっ! そんな事できるわけないでしょ! 常識で考えなさいよ!」
ミサキは叫んだ。しかし男は怯んだ様子もなくただ彼女をしていた。そして一言。淡々と――
「わかってますよ。そんなこと」
「だから何度も言わせないでっ! ……て。へ?」
ミサキは予想していなかった言葉に面食らう。
男はイスから立ち上がってミサキの顔の前でしゃがんだ。そしてミサキの髪の毛を鷲掴み、無理やり顔を自分の方に仰向かせ、顔を寄せた。
「いいですか。わたしが言いたいのは――」
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