21:帰り道
――随分と帰りが遅くなってしまった。
資料を携えたネイトは、同じく腕いっぱいに資料を抱えた先生を見やります。
執筆のための資料が必要だといって、プラーンシール社に向かったのが昼ごろのこと。それから夕刻までかかって――そのうち半分くらいは先生と編集長の世間話だったことについてはとりあえず目を瞑ることにします。先生の手はその間も動いてはいましたから――、ありったけの資料を複写して今帰路についたところでした。
先生の記す『霧の向こうに』という物語は、限りなく過去に起こった事実に近く、それでいて物語としての体裁を崩さないお話であり、その性質上、現実の出来事を正確に書き記す必要があります。「昔のこと」はしっかり覚えている先生ですが、もちろん全てを知っているわけでもないので、そういうときはこうして資料に頼るのでした。
「ああ……、近頃は随分夜が早くなりましたね」
不意に、先生がぽつりと言いました。
確かに、辺りを漂う魄霧が光を失い、闇に包まれるのが随分早くなったような気がします。熱季が終わり、実季に入った証拠です。これから徐々に気温も下がってきて、やがては最も寒い季節である雪季がやってくるのです。
「そう、ですね」
ただ、先生はその移り変わりをきちんと覚えていることはできません。知識として「夜が早くなったはず」ということはわかっても、四日より前にどれだけ昼間が長かったのかを把握することはできないのです。
それでも、先生は常々季節を言葉にします。夜の早さもそう、風の吹き方もそう、屋敷の庭に咲く花の種類だってそう。そうすることで、先生は自分が今どの時間に立っているのかを確かめているようでもありました。
「長い夜となれば、酒の一杯でも引っ掛けて帰りたいとこですが」
「原稿終わるまではお酒はダメですからね」
「わかってますって」
わかっていても、言わずにはいられなかったに違いありません。先生はお酒に目がないのです。屋敷に帰っても、ネイトの手によって酢と入れ替えられた酒瓶だけが転がっているので、外に出たときくらい羽目をはずしたいと思っているのかもしれません。もちろん、ネイトがそれを許すはずもないのですが。
「きちんと締め切りを守ればいいんですよ」
「そうですねぇ、三日と少し後のオレが覚えていれば?」
「先生」
ネイトはむっとして先生を睨みます。先生は夜闇の中でも外すことのない色眼鏡をネイトに向けて「冗談ですよ。忘れようにも忘れられねーです」と笑います。先生に締め切りを忘れさせないのがネイトの役目ですから、その役目は果たしているといえるでしょう。
そんな他愛のない、いつも通りのやり取りを繰り返しながら、十字路に差し掛かって。
「……で、帰り道はこちらでしたっけ?」
と、先生は少しばかり困った顔でネイトを見やるのです。
先生は自分が暮らしている屋敷の場所も正確には覚えていません。
ネイトは、そういう先生がふと、心細そうな顔をすることを知っています。
ですから、そんな先生の腕をぐっと引いて。
「そうですよ! さあ、帰りましょう」
先生はぎょっとしたのか「わ」と声を上げて、けれど抵抗することもなく、ネイトに腕を委ねます。その程度には――先生の記憶が、ネイトを信頼していいと告げているのだとわかって、ネイトはほとんど無意識に口元を笑みの形にします。
そうして、今日も鈍鱗通りのお屋敷に、二人で帰っていくのでした。
(プラーンシール社からの帰り道、作家先生と編集者)
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