第72話 因縁+
毎日が楽しかった。
リリとアテルとウィミュ。そして『ちっちゃなケーキ屋さん』の店員たち。
彼女たちと笑い、スイーツをお腹いっぱい食べて満足する。夜はカードゲームに興じ、冗談を言いつつ、一日を過ごす。
思い出は思い出。昔のことだ。
嫌なことも、良かったことも、時が経てばすべての記憶は脳裏の片隅に追いやられていく。
だから、怒りは風化していた――
あの時の恨みは指の隙間からこぼれ落ちてなくなった――
――そう思っていた。
でも、それは自分自身がそう思い込みたかっただけで、心の底では憤怒が熾火のように燻っていたのだ。
それは、銀帝の姿を見た瞬間に思い知った。
胸を焦がすような理由のわからない焦燥に追い立てられ、記憶から抹消したはずの『耐えがたい何か』が自分の中で鎌首をもたげた。
その瞬間に、『ようやく会えた』とミャンは思ってしまったのだ。
宿敵を目の前にした彼女は、思考を置き去りにして体が動いた。
「お前さえいなかったら」
ミャンの瞳に浮かぶのは憎悪。
心の冷静な部分はうるさいほど『止まれ』と叫び続けている。
「お前さえ、来なかったら!」
だが、彼女の足は止まらない。耳を貸すこともない。
全身で煮えたぎる血潮に、自制など無意味だと言わんばかりに。
ペルシアン家に伝わる体術を武器に、さらにリリの眷属となったことで得た《血界術》を鎧と化して、銀帝に肉薄する。
「父様も母様も、死ななかったのにっ!」
白銀の王。竜神。死を呼ぶ炎帝。
そんな呼称を欲しいままにしてきた銀帝に敵うとは思っていない。
ペルシアン家の強者が力を合わせても歯が立たなかったのだ。ちっぽけな力でどうにかできるはずがない。
ミャンの眼前で思い出の中の銀帝の像が重なる。
『降臨書を隠し持っているらしいな。渡せ。お前らには過ぎたものだ。それは支配者たる俺のみに許されたレガシーだ』
嗤う銀帝は、数多の武人を蹴散らした。
逃げろ――誰もが子供たちをかばって前に出た。
だが、銀帝の部下に囲まれ、次々と喰われていく。
竜という種族が、産まれた瞬間に強者だと言われる理由を嫌というほど知った日だった。
ミャンを赤ん坊の頃から知っている乳母も、誕生日にはバレバレのサプライズを用意してくれた妹も、厳しい顔しか見せない優しい先生も――みんな死んだ。
「私たちがお前にっ、何をした!?」
ミャンの瞳からひとりでに雫が流れた。
あの夜、たった一人で国を出た。鼻をすすり、溢れそうになる涙をぬぐい、歯を食いしばって、ありったけの荷物を滲む視界の中でリュックに詰めて歩き出した。
正直に言えば重たかった。
国を出てどうなる――数歩進んで膝が折れた。ふと振り返れば、国のみんなが笑ってくれている幻想も見た。
でも、現実はたった一人。
前を歩く父も母も、隣を歩く友人も、後ろを守る臣下もいない。
冷たい風が身を切るように痛かった。
『でも、私が生き残った。ペルシアン家はまだ残ってるわ。そうよね?』
無理やり顔を上げ、力無い笑みを浮かべて空を見た。
返事はなかった。
どれくらい時間が経っただろう。とぼとぼ歩くうちに日が落ちた。
高い丘に到着したとき、ミャンは遠くに広がる光景に絶句した。
ペルシアン家の城の白亜がどす黒く変色し、領地が跡形もなく焼け落ちていた。
銀帝がすべて焼いたのだ。
全員、あの場に眠っている。
そう思った瞬間――膝を折って両手をついてしまった。
そして、体を震わせ、とうとう声にならない嗚咽を漏らした。
熱い涙がぼろぼろとこぼれ、呼吸を忘れたように何かを吐いた。
『私だけ……どうして生き残ったの?』
また返事はなかった。
捨てられた子猫のように、ミャンは何日もその場で過ごした。
時折、領地に竜が舞い降りているのを廃人のように眺め、何も目的がない時間を重ねた。
ふと、持ってきた本を開いた。小さな妹に貸していたものだ。
何かが挟まっていた。一瞬、枯れ葉に見えたが、それはそう見えるように切り抜いた紙だった。
そこには――
――おおきくなったら、ぶじゅつをおしえて! いっしょに国をまもる。やくそく!
ミャンは消え入りそうな声で読み上げた。
そして、すっくと立ちあがり、涙をぬぐった。頬を叩き、何日も来ていた服を脱いだ。新しい服に着替え、髪を整えた。
彼女は歩き出した。
全部あきらめないために。できることをするために。
『強くならないと、何もできない』
本格的に移動を始める。寒い森。遠吠えの響く深夜。
時折、寂しさも感じたが、ミャンの心はもう折れなかった。
小さな妹との約束を守るためには、前に進むしかない。
『強い仲間も欲しいわ』
ミャン自身が強くなることは当然だった。
でも、一人で勝てると思うほどうぬぼれるわけではない。
銀帝を倒せるほどの存在――教祖プルルスに協力を頼もう。
そう方針を立ててヴィヨンの町に到着し、リリと出会った。
どこか不思議な雰囲気を持つ少女だった。
強く、どこかとぼけたヴァンパイア。本当のところを言えば配下に欲しかったけれど、彼女はそういうタイプでないことは一目でわかった。
プルルスと接触。
洗脳されかけ危ういところで嗜虐翁に救助される。
リリは我が事のように怒り、そして――朱天城ごと葬り去った。
彼女は理不尽なほど図抜けた力を持っていた。なのに、少しも誇らず、むしろ戦いを避けている。
こんな強者もいるんだ、と興味を持つ。
ミャンが諦めていた普通の生活を、全力で楽しんでいるヴァンパイアに惹かれた。
真逆の存在で、とてもまぶしく、気高く見えたのだ。
――リリさんのようにヴァンパイアでありながらも、何事にも動じない気高さが欲しい。
そう願ったミャンはヴァンパイアとなった。
急激に強くなった。それはリリも認めている。
でも、心のどこかで『銀帝にはきっと勝てない』と諦める自分が生まれてきた。
強くなればなるほど、化け物じみた強さには届かないと実感した。
だから――思い出から目を背け、楽しい毎日を意識した。
いや、そう頑張ってきたのだ。
「ああ、これはおもしろい」
銀帝の喉奥を震わせるような声が、ミャンの足を止めた。
竜の大きな瞳は糸のように細められ、彼女を無遠慮に眺めていた。
「お前――もうあきらめてるな?」
その言葉は何よりも鋭利に、胸の奥を抉った。
銀帝の口がミャンの反応に合わせて綻びるように裂けていく。
「怒りに身を焦がしているフリか。興が削がれるな」
「そ、そんなことない! お前は殺す!」
「その尾で?」
ミャンがはっと息を呑んだ。
首を回さずともわかる。自分の尾がどんな状態なのかは。
凍りついたように体が動かなくなった。
銀帝が片目を眇めた。何かを懐かしむ風でもあった。
「お前らペルシアンの一族は、どいつもこいつも尾を逆立てて俺に向かってきたぞ。……だと言うのに、お前の尾は負け犬そのものだ。いや猫だったかな?」
「こ、これは……」
「もっとやる気を出してみせろ。俺を殺すのだろ? お前の父も母も、もっと勇猛に戦ったぞ。弱いお前を守るためにな……まあどいつも弱すぎたがな。くくくく」
「父様と母様を侮辱する……な……」
「なら、お前がその恨みを晴らせ。さあ、俺を殺してみよ。俺はここから動かない」
銀帝は舌なめずりをして、ミャンの瞳の奥を覗き込むように顔を近づけた。
絶好の機会だった。上位者による挑発と見下し。
一発殴ってみろと言わんばかりの横っ面が、彼女の眼前にあった。
だが、動かなかった。
動けなかったのだ。
銀帝は目で語っている。攻撃した瞬間にお前は終わりだ――と。
「うぅぅっ、うわぁぁぁぁっ!」
「良い良い。その顔が見られただけでも、少しは満足した」
嘲る銀帝に、ミャンが牛歩のような歩みで踏み出した。拳を引き絞り、止まらない体の震えを叱咤し、頼りない足取りで銀帝にのろのろ近づき――
「無様だ」
竜のあきれ果てた声が響く。
しかしその瞬間、二人を分かつように、白銀の刃が上空から振ってきた。
肩にはウーバも乗っている。さらに別の方向から赤髪のシャロンが疲弊した顔を浮かべて歩いてくる。
巨大な刃は銀帝の視線を遮り、ミャンを盾のようにかばう。
それを持つ巨体が荒々しい言葉を吐いた。
「人の覚悟を無様と笑うとは、銀帝も堕ちたものだ。無粋で見苦しいことこの上ない」
「嗜虐翁とサキュバス、それに俺の炎を必死に止めていたヴァンパイアか」
つまらなさそうに距離を取った銀帝をディアッチが睨みつける。
そして、重厚な斧を片手で持ち上げ、くるりとミャンに向き直る。
「良い覚悟を見せてもらった。貴殿を助けるのは二度目だな。だが、あの時とは状況が違う。この戦いはミャン、貴殿の戦いだ。立て。立ち向かえ。あの愚図に――覚悟を見せてやれ」
ディアッチはにやりと口角を上げる。
と、ミャンのそばにウーバが駆け寄り「負けないで」とつぶやいた。淡く温かい光がミャンの体を包みこむ。ウーバの身体強化魔法だ。
「銀帝の《恐慌》スキルを受けているだけ。落ち着きなさい」
ウーバが優し気に瞳を曲げた。
「もう大丈夫。落ち着いて呼吸をしなさい。戦う前から戦意を崩そうとする銀帝の常套手段よ。負けないで」
ミャンが浅い息を吐きながらこくんと頷くと、ディアッチが大きく頷いた。
「無論、これは我の戦いでもある。銀帝はプルルス様の祭りを台無しにした。それは回りまわって主の楽しみを壊すことでもある。そして何より――我はああいった愚図が大嫌いなのでな。個人的にも参戦する」
「プルルスの腰巾着ごときがよく吠えるな」
銀帝が喉の奥で笑う。
「まあいい。羽虫が何匹集まろうと俺の相手にはならんということを教えてやる良い機会だ。胸を借りるつもりでかかってくるといい」
「それはありがたい。その薄っぺらい自信ごと切り裂いてくれよう」
ディアッチは吐き捨てるように言った。
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