第18話 ディアッチの苦難

 プルルスが治める町、ヴィヨン。

 深い堀に囲まれたこの町には人間の王が住む城と、プルルスの居城である朱天城という、赤い窓枠と尖塔が目立つ城がある。

 実体的には人間の王が治めているものの、実権はプルルスが握っている。

 けれど、面倒くさがりな統治者は政治に口出しすることはない。

 朱天城には現在、プルルスの側近が住んでいる。

 他の部下はヴィヨンの町に散らばって生活している。有事の際には独自のネットワークで集められるものの、普段は人間や亜人、獣人たちに混ざっている。


「ディアッチ、起きてる?」


 朱天城内。桁外れに大きい部屋の一室に、真っ黒な水着のような衣装に身を包んだ女性が入ってきた。

 耳は尖っており、瞳は青い。ウェーブのかかった髪は金色で精緻な彫刻のように美しい。

 背には蝙蝠のような羽。腰には自在に動く細い尾。

 サキュバスである彼女は、円状に広がった空間の岩山に視線を巡らせる。

 この部屋には自然の岩が無数に運び込まれているのだ。

 目的人は中央に鎮座し、目を閉じていた。


「ウーバか。何用か。部屋には入るなと言っているはずだ」


 ディアッチは抑揚のない声で尋ねた。

 ウーバが肩をすくめた。


「あなたに手紙よ。ちっちゃなヴァンパイアが渡してくれって」

「ヴァンパイア?」

「ええ。とても目が紅いヴァンパイアだったわ。あなたをご指名だったの。しかも、途中まで催眠を使って入ってきたみたいで」


 ウーバは巨体の足下に近づき、細い腕を伸ばした。

 太い指が降りてきた。手紙を器用に挟んで受け取ると、丁寧に開いて一瞬で読み終えた。

 そして、なんと口の中に放り込み、咀嚼して呑み込んでしまった。

 一瞬、ディアッチの瞳が眠りから覚めたように鋭くなった。

 しかし、ウーバは気のせいだろうと気にしなかった。

 なにせ、最近のディアッチときたら、プルルスから命じられた仕事のことごとくを失敗している。

 咎められると、寝ぼけた子供か、と言いたくなるような言い訳をするのだ。

 ウーバにとって、最近の腑抜け具合は心配の種だった。


「何て書いてあったの?」

「話す必要はなかろう」


 冷たい言葉に、ウーバはぴくりと眉をあげた。

 サキュバスである彼女はめったに怒らない。常に笑顔を振りまき、愛嬌の良さを持って取り入るのが信条だからだ。

 けれど――つい最近、心を許し始めた同志にはそうではない。

 なぜかわからないが、目の前のディアッチは素行が良くなり、大人の空気を纏うようになったのだ。

 ただの変人だと思っていたところから一転、ディアッチは――良いモンスターになっていた。

 最初はあんまりのギャップに戸惑った。

『細い首を、縊るよろこびぃぃぃぃ! その首に黄金比率を!』と、毎日、悪趣味な発言をしながら少女を追い回していた同志が、ある日突然、ウーバの手助けをし、捉えていた贄の少女たちを解放していった。

 しかも、「もう捕まるな。国を出ろ」と金貨を渡しているところまで見ているのだ。

 別人と言われた方がよっぽど理解できた。

 人知れず心を許してしまった相手の冷たい反応は、ウーバの気持ちをささくれだたせた。

 

「それはないんじゃない? あなたへの手紙なんて、握りつぶしても良かったのよ。門の責任者である私が、気をきかせて渡してあげたのよ。少しは感謝したらどうなの」


 口に出てきた言葉は、思ったものと違っていた。

 本当は、話をしたかったのだ。

 山の頂から谷底まで落ちて頭を打ったような、変化した同志を、もっと知りたくなったのだ。

 しかし、ディアッチは困ったように見つめるだけで、反応がなかった。

 ウーバは怒りを表すことに決めた。

 腰に両手を当て、じろりと睨みつけた。


「どういう関係なの?」

「なにがだ」

「あの、ヴァンパイアと、どこで知り合ったの? プルルスのサソリ紋が体のどこにも見当たらなかった。まさか別の国のヴァンパイアじゃないでしょうね。余計なトラブルはごめんよ」

「話す必要はなかろう」


 ウーバはとうとう、カチンときた。

 こっちはこんなに、あなたに興味を持っているのに――そんな言葉を呑み込みつつ、意地悪っぽく瞳を曲げた。


「頭のおかしいあなたが、言えない関係なんて珍しいじゃない。あなたにとって、少女なんて遊び道具に過ぎなかったのに」

「…………」

「ねえ、もしかして惹かれたの? あのヴァンパイアに?」


 ウーバは自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。

 サキュバスの特性だろうか。嫌な炎が胸の中でちろちろと燃え始めていた。

 けれど、これは探求心の裏返しだと結論を出した。


「ねえ、答えなさいよ」


 ウーバの瞳が揺れた。

 ディアッチはそれに気づいたように見えた。

 そして、「ふん」と面倒そうに鼻を鳴らして、大きく息を吸った。


「いじる! いじる! 首をいじるぅぅぅ! 首の黄金比率ぅぅぅ!」


 突然の大声に室内が揺れた。岩が共鳴するようにびりびりと振動した。

 耳をとっさに抑えたウーバが、呆気にとられて見上げた。


「は?」

「ウーバはどう思う?」

「え? 何が?」

「今のセリフだ。これが……我の口癖だった。そうだな?」


 ディアッチの瞳が自嘲するように曲がった。

 ウーバは知っている。その口癖は微妙に違うと。

 しかし、目の前で魔力が一気にみなぎった巨体は、彼女の細かい疑問を吹き飛ばした。

 一回り膨れ上がった体には迫力があり、頷くしかなかった。

 そう言えば、任務から戻ってきたディアッチは確実に大きくなっていた。


「……ちょっと、変わったやつだと思うわ」


 ウーバは言葉を選んで答えた。

 ディアッチが初めて微笑んだ。


「我もそう思う」

「え?」

「良く言えば、変わったやつ。率直に言えば、頭のおかしいクズだ」

「え……そうね……」


 ウーバはひっそり賛同した。

 しかし、ディアッチ自身がそう思っていたことは衝撃的だった。 

 なにせ、プルルスの前や部下の前で、見せつけるようにさっきの言葉を放つのだ。

 前触れなく吠えまくり、そして、その後沈黙。一日に何度も見た光景だ。

 頭のおかしいクズに見せかけていると、聞こえた発言だ。


「ウーバだから話すが……」


 ディアッチが言葉を切った。

 ウーバがごくんと喉を鳴らした。

 自分だから、と言われた言葉に軽くときめいたことを、もう一人の自分が「お手軽な女」と笑っていた。

 彼はそんな葛藤に気づくことなく、迷いのない様子で言った。


「我は悔いている。何年もの間、頭のおかしいセリフを至る所で喚き散らし、さらには年端もゆかない少女をいたぶっていた自分を。ウーバ、お前が会ったヴァンパイアは、その過ちを正してくださった人だ。我にとっては恩人であり――」


 ディアッチは唐突に言葉を切った。

 そして、言い直した。

 一瞬、「カミダ」と聞こえたのは気のせいだろう。


「いや、恩人なのだ」

「恩人……じゃ、じゃあ、さっきのセリフを定期的に言ってる理由はなんなの!? 自分でもおかしいやつだって思ってたのよね?」

「自戒だ。生まれ変わったからには、元の自分に、生前の自分に戻ることは断じてならないのだ。あれを口に出すことで、恥ずべき自分を思い出すことができるのだ。セリフを練習させた意味が、こんなところにあったのだ――」

「れ、練習?」


 ディアッチの瞳はぎらぎらと輝いている。

 生前や生まれ変わったというのは比喩だろう。

 でも、その言葉は真実であるかのようにウーバの心に響いた。何より嘘をまったく感じない。

 きっと、任務に出ている間に何かがあったのだ。

 それこそ生まれ変わるような何かが。


「しかし、胸が張り裂けそうなのも事実。酷なことをおっしゃる。自戒を永遠に続けろとは……」

「え? え? どういう意味?」


 ウーバの頭は混乱し始めていた。

 ディアッチは羨望の眼差しで空中を見ている。

 何かがそこに立っているかのような――まるで敬虔な信者のように。

 ただ、その相手は教祖プルルスではないことは、はっきりわかった。

 話の流れからすると、その相手は――


「こんなところにいたのかい、ウーバ。ディアッチと内緒話かい?」


 室内に透き通った声が響いた。

 ウーバの体が硬直した。そして、ざっと音を立てて膝をついた。

 入り口から、黒く長い髪を背中まで揺らす男が現れたからだ。

 彼は白い法衣に身を包み、片手で分厚い書物を大事そうに抱えていた。表情は貼りつけたように不気味で、瞳は紅く輝いていた。

 ディアッチが無言で両膝をついた。


「ようこそいらっしゃいました、教祖プルルス様」


 プルルスは「ちょっと話があってね」と優しく笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る