花氷の鎖
麗香「…。」
羽澄「…。」
麗香「もしもーし。」
羽澄「…。」
麗香「…まだ起きない…けぇ。」
羽澄「…。」
麗香「はーあ、どうしたものか。」
いくら声をかけても
目覚めそうな気配はない。
突いてみても、軽く揺さぶってみても
まるで起きるそうにない。
けれど、心臓はしっかりと
動いているようで、
気絶しているだけというのは把握している。
怪我も見ている限りはないのだが、
こればかりは本人に聞くまで
なんとも言えないだろうな。
麗香「はぁ…。」
湧き出るため息に色がついていたら、
あてのは鈍色だろう。
濁っているのだ。
ため息と聞けば
大抵は濁ったものを想像するだろう。
そもそもとして、
吐かれる息に綺麗なものなど
ないのかもしれないな。
麗香「…。」
羽澄「…。」
麗香「先輩、どうします。」
羽澄「…。」
麗香「あて達、帰れるのかな。」
羽澄「…。」
麗香「…帰れなくてもいいから、長束先輩は見つけようね。」
羽澄「…。」
麗香「……。」
羽澄「…。」
麗香「静かな方がつまらないけぇ。」
足を伸ばしてふらりふらりとしながら
先輩の隣でそういった。
目の前には大量の瓦礫の山。
時折、上からぱらぱらと
小雨のように何かが
降ってきているのが見える。
あて達は、そこから
少しばかり離れた場所で
何かをするということもなく
ただただ休憩をしていた。
昨晩、前に聳え立つ大きな塔に
鯨が突っ込んできてしまい、
大きな音を立てて崩壊した。
その破片は1部あて達を目掛けて
飛んできたところ、
先輩が身を挺して守ってくれたのだ。
先輩はというと、
一時は瓦礫に埋もれていたが
何とか救い出すことができた。
というのも、この空間では
重量が下方向へとあるはあるものの
浮力が生じているであろうからだ。
落下速度も遅いと言い切れるわけではないが
現実世界ほど早いとも言えない。
その影響もあり、致命的な怪我までは
しなかったのだろうと思う。
それから先輩を引っ張り出して、
またもや浮力であろう関係で
先輩を背負うことが出来たので、
塔が更に崩れてしまっても
影響がないくらいの位置にまで
移動してきたのだ。
暗闇に1歩、また1歩と踏み出すのは
未来の見えない中生きているあてが
1日、1日と日を
経ていくような感覚に似ていた。
先輩の長くくるりと
緩く捻じ曲がっている毛が
頬を撫でたのを覚えてる。
あの擽ったさが残っている。
徐に頬を擦ると、
当たり前だが引っ張られる感覚がした。
もう、何かが触れているわけではないのに。
先輩を安全な場所に移した後、
塔に登ることは出来たのかを
確認したいがためにまた
真っ暗な道を歩いた。
時にふわりと光が舞ってくる。
光源のようで、何かと思って
目を凝らしてみれば
海月だかチョウチンアンコウだかだった。
暗さゆえに何かまでは
特定できなかったし
しようとさえ思わなかったので
調べることはせず。
それよりも先輩を1人にしていることが
どうしても気がかりで、
さっさと塔まで行って
戻って行きたかった。
塔に戻ると、そこは先ほど同様瓦礫の山。
1周ぐるりと見渡しても
まるで入口のようなものはなく、
ただの象徴だったらしい。
瓦礫で出入り口が塞がってるのかもと思い
小さいものをいくつかどかしてみたが、
思っている以上に重労働で
瓦礫の量も多かったし、
何より先輩のことが気になって
その場は放置して戻ることにした。
もしかしたら、塔の側面に張り付いて
登っていくことだって
できたのかもしれない。
けれど、いくら浮力があると言ったって
重量もある程度働いている。
瓦礫でさえあの速度だったのだから、
人だったらあっさりポックリ
いってしまうかもしれない。
そう思って手を出すのはやめた。
それから先輩のところに戻ると
当然だと言うように
目を閉じたままだった。
することもなく、道の真ん中で
街を見渡していると、
3回建くらいの1番低い建物を見つけ
そこに入ることにした。
鯨がまた突っ込んで
建物が崩れてしまうかもと考えると
どうしても高い建物に入ろうだなんて
思えなくなっていて。
すると、その建物は屋上に
上がれる場所があったのだ。
室内だと気が滅入る。
あてらしくもなくそう感じて
屋上に上がってみれば、
そこには見事なほど何もない。
建物内もそうだが、
仕切り以外のものが本当に存在しない。
街だって道はあるものの
道路標識だとか店の看板とか
普段現実世界で見慣れていて
最早あるべきものが一切見当たらない。
この辺り、現実とも違う
全く別の何かなのだろうと思う。
別の何か、だなんて
言葉が曖昧すぎるけど。
そこで先輩の隣で大の字になって
光のない海を眺めてみたり、
座ってうたた寝してみたり。
出来るだけ先輩の側を離れないように
一晩を過ごしたのだった。
麗香「なーんであてのこと助けたけぇ?」
羽澄「…。」
麗香「答えなんてあるわけないけど。」
羽澄「…。」
麗香「んー…。」
羽澄「…。」
麗香「あてらしくないこと、したけぇ。」
羽澄「…。」
先輩は一晩中目を開くことはなく
こてんと横に倒れている。
その近くにあては居続けていた。
何かしら食糧を探して
この場所を離れたり、
街の散策に出かけたりしても
よかったんだろうけど、
何だか気が向かなかったのだ。
このままでいい。
このまま。
そう思ったんだ。
麗香「せーんぱーい。」
羽澄「…。」
ほっぺを突いてやる。
起きない。
次に髪の毛を三つ編みにしてみる。
関場先輩は普段ずっと
お団子にしているからわからなかったけど、
思っている以上に髪が長い。
緩く結んだだけから毛先までの
ゆるゆるとカールしている髪の毛で
遊んでみても起きない。
首の根元に手を当ててみる。
すると、とくんとくんと
脈打っているのが分かる。
生きている。
けれど起きない。
麗香「にしし…全然起きないけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「どうする、このままあて達死んじゃったら。」
羽澄「…。」
先輩の枕元にしゃがみ込んで声を降らせた。
死んじゃったらどうする?
あては、今日の晩御飯は
何がいいかを聞くくらい
何気なく口にした。
だって、あてからすれば
死とか生きるとか身近な考え事だったから。
先輩は、違うと思ってた。
あてとは全く違う人間で、
あてのことなんてこれっぽっちも
理解できないんだろうなって思ってた。
麗香「誰か、気づいてくれるけぇ?にぃ?」
羽澄「…。」
麗香「…あても先輩も望まれてない子供だったんだけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「そんな環境の中で長束先輩に出会っちゃったら、そりゃあ惹かれるけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「そりゃあ…長束先輩を探しにこんなところまで来ちゃうけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「自分が死んででも探そうだなんて思うけぇ。」
羽澄「…。」
自分の手を、指を握ってみる。
そこには確かに体温があるのだ。
自分の体温だから
あまり感じにくいんだけれど。
それでも、あてはここで生きているのだ。
望まれず生きているのだ。
それは自分が1番わかってる。
親の態度、周りの態度。
全て、全てが物語っている。
麗香「ま、あては先輩が死んだら気づいてあげるけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「あーあ、最後は長束先輩と一緒がよかったのに。」
羽澄「…。」
麗香「にしし、半分真面目で半分冗談けぇ。」
羽澄「…。」
麗香「…はぁ。」
羽澄「…。」
麗香「…ほんと、あてだけじゃなかったけぇ。」
°°°°°
麗香「あぁ、もう。…どうしてこんな思いをしなきゃいけないの。何で長束先輩が居なくなって、こんなに辛い思いをしなきゃいけないの。」
羽澄「そう思ってるのは麗香ちゃんだけじゃないです。」
麗香「…。」
°°°°°
麗香「せーんぱい。」
羽澄「…。」
麗香「…つまんなーい。」
羽澄「…。」
麗香「ほら、朝になってきちゃった。」
羽澄「…。」
麗香「明るくなってきてますよー。」
羽澄「…。」
麗香「……。」
羽澄「…。」
麗香「あ、長束先輩だ。」
羽澄「…。」
麗香「…って、そんなんで起きるわけないけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「先輩先輩。」
羽澄「…。」
麗香「先輩のいる施設って、普段どんなご飯食べれるけぇ?」
羽澄「…。」
麗香「お腹空きすぎてもはや空いてないから、今だけご飯の話できるけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「何だっけ、泳いでる魚取れるかなって言ってたけぇ、にぃ?」
羽澄「…。」
麗香「今は全然近くを泳いでくれないけぇ。ずっと高いところにいる。」
羽澄「…。」
麗香「鯨も空高くを泳いでるけぇ。あ、どっか行きそう。」
羽澄「…。」
麗香「もう近づいてきてほしくないよねー。」
羽澄「…。」
麗香「……。」
羽澄「…。」
麗香「もし本当に餓死しそうだったら、先輩が泳いでる取ってくるけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「あてはもう泳がないけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「あてはもう、泳がないって決めたけぇ。にしし。」
羽澄「…。」
麗香「…水泳とは縁を切ったんだけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「知ってる?」
羽澄「…。」
麗香「好きなことをやめるって、結構辛いんだけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「それと、板挟みだとか上位互換がいきなり現れるとかってのも思ってる以上に心にくるんだけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「どこまで先輩はわかるかな。」
羽澄「…。」
麗香「……。」
羽澄「…。」
麗香「どこまで…。」
羽澄「…。」
麗香「どこまで、あて、先輩のことをわかってあげられたんだろうね。」
羽澄「…。」
麗香「この話、長束先輩にもしたことあるけぇ?」
羽澄「…。」
麗香「誰にも話してなさそー。」
羽澄「…。」
麗香「いや、でも意外と親しい人には話してたりして。」
羽澄「…。」
麗香「先輩って人懐っこそうだし。」
羽澄「…。」
麗香「てか実際そうだし。」
羽澄「…。」
麗香「人懐っこいっていうよりは…世話焼き?」
羽澄「…。」
麗香「施設で年下の子でも見てた影響けぇ?」
羽澄「…。」
麗香「…あて達、環境に作られた人間けぇ。選べなかったんだけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「それか、選ぼうとしてこなかったんだけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「にしし、流石に今のはあてにも刺さるけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「あ、そーだ。」
羽澄「…。」
麗香「さっき…って言っても昨日か。腕掴まれた時痛かったけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「腱鞘炎、まだ若干残ってたけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「あてがどんなに必死にこれまでのことを書きまとめてたかも知らずに。」
羽澄「…。」
麗香「…逆も然り、か。」
羽澄「…。」
麗香「あても先輩がどれくらいの思いがあるのか知らなかったけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「でもまぁ、腕握った時痛かったってのは忘れないけぇ。一種の恨みけぇ、にしし。」
羽澄「…。」
麗香「それだけは後で謝ってもらうけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「……だから。」
羽澄「…。」
麗香「だから早く起きるけぇ。」
羽澄「…。」
…。
…。
夜が明ける。
太陽だなんて概念はなく、
どこからともなく明るくなっていく。
太陽はきっとずっと遠く、
この空だと思っている更に上に
膜を張った上に…あるんだと思う。
それとなく光を享受しながら迎える朝は
十二分に質素すぎた。
関場先輩は起きていたら起きていたで
煩いと思う時もあるけれど、
黙ったら黙ったで静かすぎる。
これこそつまらない。
長束先輩の時と似てる。
2人で話している時は
うんざりとしてしまう時も多いけれど、
1人になると恋しくなる。
あの騒々しさを求めているあてがいた。
そんなことあるはずないって
自分を否定し続けていたけれど。
…。
…そろそろ認めるしかなさそう。
関場先輩。
やっぱり先輩は、
長束先輩に似てるよ。
あてと共有できるような境遇もあるけれど、
それでもやっぱり先輩はあっち側だ。
あてなんかじゃ届かない、
きらきらと輝いている側。
麗香「…。」
羽澄「…。」
麗香「結局1人けぇ。」
羽澄「…。」
麗香「あーあ、先輩のせいだ。」
羽澄「…。」
麗香「でもね、ひとつ。」
羽澄「…。」
麗香「先輩のせいで助かっちゃったよ、あて。」
羽澄「…。」
麗香「立場が逆だったかも、とか、想像しちゃう時あるけぇ。今まさにそれ。」
羽澄「…。」
麗香「興味ないけぇ?あっそ。」
羽澄「…。」
麗香「ありがとう、先輩。」
羽澄「…。」
麗香「何かお返しするけぇ。何がいい?」
羽澄「…。」
麗香「お菓子?ご飯?…って、今に引っ張られすぎかぁ。」
羽澄「…。」
麗香「じゃあ、分かった。猫カフェ行くけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「最近あて、幼馴染と行ったんだけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「ま、会話の内容が内容だったからあんまり楽しめなかったけど。」
羽澄「…。」
麗香「やっぱり猫は可愛いけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「行こうよ、先輩。」
羽澄「…。」
麗香「そうだ、長束先輩も連れて3人で行こう。」
羽澄「…。」
麗香「長束先輩は猫苦手だけど、大丈夫けぇ。この前一緒に行ったしロケハン済み。」
羽澄「…。」
麗香「長束先輩ったら猫が近づくたびに飛び跳ねるんだけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「そしたら猫もびっくりしちゃって、その繰り返し。」
羽澄「…。」
麗香「ずっとそれしてたら猫が来なくなったんだけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「だから大丈夫。」
羽澄「…。」
麗香「行こうね。」
羽澄「…。」
麗香「もし死んじゃったら。そんでもって、長束先輩ももう死んじゃってたら。」
羽澄「…。」
麗香「そしたら、天国か地獄かわからないけど、そこで猫カフェ行こうけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「あー…。」
羽澄「…。」
麗香「もし死ぬんだったら、やっぱり死後くらいいい思いしたいけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「長束先輩は絶対天国。関場先輩もあっち側。」
羽澄「…。」
麗香「あてもあっち側に行けたらいいな。」
羽澄「…。」
麗香「にしし。生きてからも死んでからも楽しみができたけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「どっちに転んでもいいや。」
羽澄「…。」
麗香「ね、先輩。」
羽澄「…。」
先輩はこれだけあてが話しかけても、
自分に話しかけているのでは
ないと思っているのか、
何ひとつ反応を示してくれなかった。
当たり前だ。
だって眠っているのだから。
いくら外傷はないとは言えど、
やはりダメージは大きかったようで。
規則正しく呼吸をしている彼女を
近くで座って眺めるだけ。
そして時々空を眺む。
明るくなってきたせいで
仰向けで寝転がると
目がしばしばするけれど。
麗香「あ、そういえば。」
羽澄「…。」
麗香「さっきの話、途中で終わってたけぇ。にぃ?」
羽澄「…。」
麗香「覚えてる?長束先輩の出逢いの話をするって話。」
羽澄「…。」
麗香「それ、暇つぶしに聞いて欲しいけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「…っていうか、暇つぶしに話すけぇ。」
羽澄「…。」
麗香「あても面白い話じゃないけど。」
羽澄「…。」
麗香「うーん、でも、そこからの話じゃ繋がらないだろうし…結構遡ったところから話すけぇ。」
羽澄「…。」
結局、先輩の返事はないままに
あては1人話し始めるのだった。
鯨も先輩も聞いていない
ただの1人語りだ。
今聞いているのはあてぐらいじゃないかな。
°°°°°
「ラスト1本!」
麗香「…!」
「後30…20切ったよ!」
コーチの声が響く中、
あては音の届きにくい世界で
延々と手足を動かし続けている。
あと少し。
あと少しだけでもいいから頑張れば
ゴールが見える、
ゴールにたどり着ける。
それは、あてがまだ小学生の頃。
毎日のように水泳のスクールに通っては
泳ぎ続ける日々だった。
へとへとになろうが
気分じゃなかろうが
あてには泳ぐことしか才がなかった。
それに、母親が誉めてくれたというのもある。
あての家は片親だった。
いつからだか正確な時期は
残念ながら記憶していないが、
あてが高学年になる頃には
離婚していたのは確実だった。
母親はいつも頑張っているのは知っていた。
それと同時に、重い期待を
持っていたのも知っていた。
だからあては、それに応えるためだけに
泳ぎ続けていたのだ。
当初はそうだった。
幼稚園の頃ぐらいだっただろうか。
始めたばかりの頃は
それこそ周りのレベルについていけなくて
挫けて辞めたくなった。
でも、その度に母親は言った。
「あなたは神様の子供なんだから、できるわよ。」
と。
今思えばどれほど邪教じみたことを
口にしているのかというのが
理解できるのだが、
小さい頃となると
そうではないパターンもある。
それがあてだった。
きっと生まれた時点から
言い続けていたんだろう。
あなたは神様の子供、って。
だから、それが日常化していたのだ。
それを言われるたび、
母親から信頼されていると知って
頑張らなければならないと躍起になった。
出来れば勿論誉めてくれる。
だから嬉しい。
だから頑張る。
それはあったのだが、
反面できなかったら
神様の子供なのにそんなこともできないの、
お母さんの期待を裏切るの、と
酷くパニックに
陥ってしまうことも度々あった。
それが日常の一部になっているあてと
世間一般の家庭では
大きな違いがあるということを知ったのは
今となっては幼馴染である
西園寺いろはと出会ってからだった。
家族ぐるみでの付き合いは
いろはの家が初めてで、
何度も遊んだし彼女の家にも遊びに行った。
その時に知った。
母親というのは本来笑顔を振り撒き、
叱る時は半狂乱にならず、
なんならうちの子がごめんなさいと
ひと言添えてくれるほど。
あての知っている母親の像とは
大きくかけ離れていた。
あての場合、誉めてはくれるけれど
笑っているのは見たことがないし、
酔って帰ってきたときは
顔をくしゃくしゃにして
笑っている時はあるけれど
すぐに憤慨し出すことも多々。
あてが水泳思ったような成績を
出すことができなければ
怒鳴り散らかして、
一緒に買い物に出掛けて
店員さんに話しかけられようものなら、
あてを引き剥がして
うちの子に汚い手で触らないでと
言い散らかす始末。
いつからか、そんな異常である母親のことが
嫌いになっていった。
水泳ばかりを頑張っていれば
勉強での成績に関して
あまりつっこまれなかったのは
不幸中の幸いだった。
水泳を頑張る程賞を取れるようになっていき、
家にはメダルが数個
並ぶようになっていたっけ。
中学生になっても結果を残したので、
学校内ではちょっとした有名人になっていた。
だから、見知らぬ人に名が知れていても
別に不思議ではなかったのだ。
地域の新聞に名前が小さく小さく載ったことは
なんとか頭の隅に残っていた。
優勝賞金とかはあったのか覚えていないが、
あったとしたならば全て
母親が使い切っただろう。
お小遣いが増えただなんて記憶は
一切なかったから。
ある日のこと。
中学生に上がった頃。
いろはと遊びに行こうという話に
なったんだと思う。
あてが受験期じゃなかったということは
彼女はまだ小学生だったということ。
お金も余裕があるわけではなく、
公民館で集まって
遊んでいた時だったか。
いろは「あー、もう、上手く書けない。」
麗香「うまいじゃん。」
いろは「下手ー!」
麗香「そうなの?」
いろは「うん、そうなの。」
いろはは家から持ってきていた紙に
絵を描いていたのだと思う。
ある程度紙を埋め切って、
そこそこに上手いレベルの絵が
沢山描かれてあったのに、
くしゃくしゃにしてしまった。
勿体ない。
素直にそう思った。
でも、いろはは納得がいかないらしく
足をどんと1回鳴らした。
子供だなと思って
その様子を眺めていたのだ。
いろは「納得できない。」
麗香「ふうん。」
いろは「はあーあ。」
麗香「他のことしたら?」
いろは「ない。」
麗香「ん?」
いろは「したいことがない。」
麗香「嘘つけ。絶対あるよ。」
いろは「絵が上手くなりたい。」
麗香「他に。絵を描く以外で。」
いろは「絵を上手く描けるだけでいい。」
麗香「へー。」
いろは「麗香ちゃんもそのタイプでしょ?」
麗香「私?」
いろは「そう。」
麗香「あー、水泳?」
いろは「うん。泳ぎさえできてればいいって思ってるんじゃないの?」
麗香「…今では楽しいよ、水泳。」
いろは「楽しいんだ。」
麗香「うん。」
当時、いろははなんで私がここまでして
水泳を続けてきたかは
知らなかったと思う。
はじめこそ使命感で続けていたが、
賞を取れるようになって以降は
楽しくなってきたのは事実だった。
だからその通りに口に出したのだが、
いろはは何かを汲み取ったのか
にこりとすることなくまた
手元のくしゃくしゃになった紙を
見つめ出したのだ。
いろは「私も楽しいこと見つけたい。」
麗香「いろはもね、いつか目も当てられない程ぼろぼろになりながら出来るような事、見つけられるよ。」
いろは「…いつかかぁ。」
麗香「うん。いつか。」
あてからすれば
その大切なことは既に
手元にあるような気がしたけれど、
あえてそれは言わないでおいた。
それは、いろはが気づかなきゃ
いけないことだから。
いろは「そういえば、最近家で遊ばなくなったね。」
麗香「確かにね。」
いろは「会うのも時々だし。」
麗香「うん。」
いろは「中学校大変?」
麗香「テストは難しいよ。」
いろは「対して勉強してないじゃん。」
麗香「そうだけど…。あと、授業も大変。」
いろは「難しい?」
麗香「難しい。」
いろは「そっかぁ。大人になりたくないなぁ。」
麗香「高校生になりたくない?」
いろは「高校生は大人だよ。」
麗香「いろはからしたらね?」
いろは「そんなもんなのかぁ。」
麗香「多分。」
いろは「でも、なかなか会えない1番はやっぱり水泳でしょ?」
麗香「うん。」
いろは「今度大会見にいこうかな!」
麗香「来てくれるの?」
いろは「麗香ちゃんの泳いでるところ、思ったら1回も見た事ない。」
麗香「そうだよね。」
いろは「今度行くね!だから大会がある日は教えてね。」
麗香「分かった。」
すると、いろはの機嫌は既に
治っていたのか、
また別の紙を取り出して
絵を描き始めていた。
けろりとすぐ忘れるあたり
将来が不安になる。
いろははありえないほど
すぐに忘れるのだ。
それは病的なものではなく、
ただたんに性格上の問題だった。
驚くほど早いのだ。
今を生きているタイプとも言えるだろう。
麗香「あのさ。」
いろは「んー?」
いろははもう
顔を上げる事なく
話を聞くようになっていた。
熱中できることは
目の前にあるのになと
何度思ったことか。
麗香「私のお母さんといろはのお母さん、よく仲良くできるよね。」
いろは「どういうことー?」
麗香「ほら、私の親ってこう…変じゃん。」
いろは「変?」
麗香「神様がどうこうっていっつも言ってるの。」
いろは「あぁー、聞いたことはあるかも。」
麗香「でしょ?」
いろは「それはね、私のお母さんが宗教を知ってるからじゃないかな?」
麗香「宗教について?」
いろは「うん。お母さん、今は国語の先生なの知ってるよね。」
麗香「うん。」
いろは「大学生の時はね、何か宗教の授業受けてたんだって。」
麗香「えー、面白いの、それ。」
いろは「さぁ。」
麗香「さぁって…。」
いろは「私じゃないから分からない。」
麗香「そうだけど。」
いろは「こんな人もいるのかぁ、くらいに思ってるのかもよー。」
麗香「その程度で済む?」
いろは「済んでるんからこうやって私達のんびり遊べてるんじゃない?」
麗香「どういう…?」
いろは「もし親同士でばちばちしてたら、私達どれだけ何も考えずに遊びたくても親が止めちゃうよ。」
麗香「そっか。」
いろは「もしかしたらお互いのお母さんとも、私達が自由に遊べるようにって思って何も言ってないだけなのかな。」
麗香「そんな気遣い、私のお母さんじゃできないよ。」
いろは「でも、話したらいい人だったよ。」
麗香「外面だもん。」
いろは「みんなそんなもんだよー。」
麗香「なんか変なのー。」
話すと話すほど
分からなくなっていく話題だから、
早々に切り上げたくなって
その後はいろはの絵を褒めたんだっけ。
いろはは相変わらず
しっくりこないようで
描いては消してを繰り返していたけれど。
それも今となっては
懐かしい思い出だ。
今じゃ会うこともなくなった。
そう、とあることが起こってから。
それはまだ先の話。
その頃からだったろうか、
急に母親は勉強しろと言い出した。
そして例の如く神様の子供だから
それくらいできるだろう、できて当然だ。
というのだ。
多分だが、受験が迫っていたからだと思う。
どうしても頭のいい高校に
入学させたかった母親は
ある日突然塾に通わせるようになり、
そして水泳の頻度は減ってしまった。
それでも週に3回は
泳いでいたと思うけれど。
それでも、水泳をやっと
楽しいと思えるようになったいた
私からすると、
迷惑極まりなかった。
どうして。
これまでは水泳だけしていれば
いいと言ったのに。
そう反発したけれど、
お母さんの言うことが聞けないのと
これまでで1番荒れ狂ったのだ。
流石に手に負えず、
私は渋々言うことを
聞くしか無くなった。
暴力は振るわれなかったものの、
精神的な苦痛が大きかった。
それは、思春期である私には
相当重たいものとしてのしかかったのだ。
そして結局勉強漬けの日になっていき、
神様の子供だからと言う理由を除けば
あなたはできると言われているのだ。
その言葉を無理に信じて、
あてならできると、
やるしかない、と。
…勉強でいい成績を出せなかったら
きっとまた怒られてしまう。
それは嫌だ。
だからやるしかない。
勉強は最後まで好きになれなかったけれど、
なんとか親の志望校に入学することができた。
それが今通っている高校、
成山ヶ丘高校だった。
絶対頭のいい高校に
合格させたかったんだろうし、
何より公立高校で共学であると言う点が
大きかったのだろうなと思う。
生徒主体となって
行事や校則等の話し合いをするあたりも
神様の子供にはふさわしいと
思ったんだろうね。
ほんと、気持ち悪かった。
中学時代もそうだけど、
宗教の内容が挟まるたびに
吐き気がした。
嫌でも母親の姿が過ぎるから。
そして高校生になって
さらに勉強についていくのが
難しくなっていった。
何せ随分の背伸びをして
この高校に入ったのだ。
周りは頭のいい人だらけ。
それと同時に水泳も
再開しろだなんて無茶をいう。
塾に通い続けながら
水泳もほぼ毎日通う。
そんな日々が始まってすぐの頃。
麗香「…?」
なんだか、足に違和感があったのだ。
ただの捻挫か何かだろう。
それか筋肉痛だ。
水泳に本格的に身を入れ始めてから
たった数週間以内での出来事だったので
対して深く考えることなく
放置していたのだ。
水泳にのめり込むようになって
さらに経った頃。
あては高校1年の夏というものに
ぶつかろうとしていた。
その手前の出来事。
水泳のスクールに1人、
飛び級してあてと
同じクラスになった女の子がいたのだ。
あてでさえそのクラスでは
若い方だったのに、
あてよりも更に年下、
それこそいろはと同い年くらいの
子が入ってきたのだ。
はじめは何かの手違いだと思った。
身長は高くないし
どちらかといえば低い方。
あてよりも低かったから
150cmすらなかったんじゃないか。
それに筋肉がついてそうかと言われれば
そうでもない体つき。
華奢と言われる部類に入りそうなほど。
「ねぇねぇ。」
その子が入ったその日、
準備運動前だったか。
今でもよく覚えている。
その子は肩を指でつんと突き、
話しかけてくれたのだ。
「ここで待ってればいいの?」
麗香「え、うん。新しく入るの?」
「そうなの!コーチがね、先に行っててって言ってくれたんだけど、どこに居ればいいかわからなくって。」
麗香「そっか。でも急にこのクラスなんだ?」
「前ね、別のスイミング教室行ってたんだけど、変えたの!」
麗香「そうなんだ。ここ、プール広いしね。」
「ね!びっくりしちゃった。ねねね、名前なんて言うの?」
麗香「私、嶺麗香。」
七「そうなんだ!私はね、藍崎七だよ。七って呼んで!」
麗香「分かった。」
話初めの時は年齢も知らなかったので
敬語を使わないで話すあたり、
年上なのかもとは思った。
そしてその後コーチに言われて
年下だと知り驚いたのだ。
快活で可愛らしい感じだと思った。
あてとは違って愛嬌のある感じといえば
わかりやすいだろうか。
でも、可愛いだけで
そこまで水泳を得意としているようには
見えなかったのだ。
慣れ行きでここまできたんだろう、
前いたスクールで
何か嫌なことがあって
こっちのスクールに
逃げ込んできたんだろうって。
そう思ってた。
けれど、違った。
七の実力はそこそこにあった。
だが、まだあての方が
上だったと思う。
大会部張り合ったら
勝てるだろう、くらいの。
あて自身怠けていたわけではない。
断じて違う。
ただ、七の努力や感覚の才能を
見誤っていただけだ。
いつしか七は比べ物にならないくらい
体をうまく使って
水の中をすいすいと泳ぐようになっていた。
信じられなかった。
あてよりも歳が上で
泳ぎが早いのはわかる。
だって身長もあるし力もある。
経験だってあるじゃないか。
だから、わかる。
けれど、その逆は理解ができなかった。
あてだって小さい頃から泳いでいたのに、
簡単に抜かされるなんて
訳がわからなかった。
ふと。
水泳が楽しくないと感じたのだ。
つまらない、と思ったんだ。
それから夏の大会があった。
スクールの中でもあてのいたクラスの
人たちは殆ど出場していて。
体から塩素の匂いが抜けないままに
大会に向かったのだ。
特記することはひとつだけ。
私は大会に負けた。
七に負けたのだ。
地区大会での敗退は久しく、
この先に進めないのは
いつぶりの感覚だったろうか。
あぁ。
お母さんに怒られるんだろうなと。
漠然と思ったのだった。
七「やった!やった、麗ちゃん、私進めたよ。」
麗香「すごいね。」
七「ううん、麗ちゃんのおかげだよ。」
麗香「私?」
七「そうだよ。」
麗香「賞取れて浮かれてるんじゃない?嘘は大概に…」
七「だって、ここの教室にきてから麗ちゃんみたいになりたいって思ってずっと思ってたの。かっこよくて、人形さんみたいで!」
私は。
…私は、心が狭かった。
ずっとずっと狭かった。
受け入れようとする気がなかった。
だってこれまでは
母親が喜べばよかったのだから。
私が安全であればそれでよかったのだから。
それが、七のせいで脅かされた。
それに、これまで下にいたはずの存在が
いつの間にか上に立って、
それでもって私のおかげだとか
言ってくるのだ。
その時の私には受け入れるどころか
吐き気を催すようなもので。
にこにこ笑っているだけの七に対して
どうしようもなく腹が立った。
麗香「馬鹿にしたいだけなんでしょ。」
七「え。」
麗香「今まで目標にしてきた人が落ちぶれているのを見て、内心嘲笑ってるんでしょ。」
七「違」
麗香「違わない、さっさとどっか行ってよ。」
七「…麗ちゃん……。」
麗香「水泳なんてしなきゃよかった。」
あぁ。
子供なのはあての方だ。
いろはよりも七よりも
誰よりも子供だったのは
あての方だった。
家に帰ると、案の定だったっけ。
母親「麗香。」
麗香「…。」
母親「優勝できなかったのね。」
麗香「…そう。」
母親「どうして?」
麗香「…どうしてって、七が」
母親「あなたは神様の子供なのよ!できないはずがないでしょう!」
麗香「…ちっ。」
母親「何よ、舌打ち?」
麗香「そうだよ、舌打ちだよ。」
母親「お母さん、そんなことしなさいって言ったかしら。」
麗香「お母さん、おかしいよ。いっつも神様の子供だのああだの言って恥ずかしくないの?」
母親「……そうね、そうよね。」
麗香「…もう付き合ってられないんだけど。」
母親「分かったわ。」
麗香「…。」
母親「お母さん、分かったことがあるのよ。麗香、あなたには何か悪いものがついてるんだわ。」
麗香「何言ってるの。」
母親「今からお母さんがその悪い悪いものを追い出してあげるからね。」
ついに宗教心もここまでこれば病気だ。
ため息をまたひとつ漏らし、
自分の部屋に帰ろうとした時だった。
母親はふらりふらりとした足取りで
キッチンに向かって
シンク下の扉を開いた。
その日はやけに曇っていて
既に夜が見え始めている。
まだ夕方だったはずなのに、
全く陽が刺さず
陰湿な雰囲気が漂っていて。
カビ臭そうな台所が
より鬱蒼とした森のように映った。
からり、からん。
あては取り出されたものに対して
流石に自分の目を疑った。
取り出されたのは刃物だったから。
手頃な狂気でお馴染みの包丁だ。
そんなことを遠くで思っているあたり
どうにも自分のこととして
捉えることが出来ていなかった。
麗香「…っ!」
母親「教祖様はね、仰ってたのよ。鋭利なもので手の甲をちくっとしてあげれば悪いものは出ていくからね。」
麗香「やめて、来ないで。」
母親「こら、暴れないの。」
麗香「やだ、嫌だっ!」
それでも全く聞く耳を持ってもらえず、
あてもあてで暴れた結果
右手の親指の付け根に
傷を負ったのだ。
母親はおかしかった。
ずっと前からおかしかった。
いろはの家族と付き合いを持つようになって
少しは人間らしくなったんじゃないかと
淡い期待を持っていたが
そうではなかった。
化け物はいつまで経っても
所詮化け物なのだ。
当時切られた傷は今でも
跡として残っている。
白っぽい線になっていて、
誰かが見ても気づくことは
早々ないだろう。
それこと、手を握られて隅から隅まで
舐めるように見たら分かる程度。
そんなごたごたとしたこともあり、
あては水泳を辞めたのだ。
辞める際、母親から
何か言われるかと思ったが、
悪い憑き物は落としたが
大会で負けたのは事実。
水泳はやっても無駄だろうと踏んだのか
寧ろもう行くなと言った。
そればかりは好都合だったが、
一層勉強にのめり込まなければ
ならなくなってしまったのだ。
バイトもするな、
頭の悪い人とは付き合うな。
ただしいろはは昔からの付き合いもあって
除外されていたけれど。
全ては自分のために使え。
自分の才能のために使え。
そして母親の装飾品となれ。
人生を通して遠回しに
言い続けられてきたのは
実際そう言うことだろう。
あては、親のいい人形になっていく他
道はなかったのだと思った。
夏も終わる頃の話。
1度、いろはが遊びに行こうと言い、
懐かしいことに公民館に
集まったのだった。
いろはは片手間に絵を描くこともなく、
結露しているお茶のペットボトルを側に
あてと対面しているのだ。
当時、彼女は中学1年生。
それらしからぬ出立ちに
あてばかり取り残されたと思った。
あてはずっと進めないのだ。
人形止まり。
人間になれないの。
麗香「…。」
いろは「麗香ちゃん。」
麗香「…。」
いろは「麗香ちゃーん。」
麗香「…何。」
いろは「大会、誘ってくれてありがとう。」
麗香「…。」
いろは「かっこよかったよ、麗香ちゃんの泳いでる姿。」
麗香「…。」
いろは「久しぶりに思い出しちゃったんだよね。私が水苦手でさ、プールに入れなかった時、麗香ちゃんが手をとってくれたこと。」
麗香「…あったっけ。」
いろは「あったよー。」
麗香「あはは…いろはでも覚えてることとかあるんだ。」
いろは「ちゃんと大切なことは覚えてるよ。」
そのいろはの目つきを見るに、
なんだか楽しいことを
思い浮かべているのだろうなとは感じた。
ただ、この状況を楽しんでいるようにも
捉えられてしまった。
水泳もやめて、得意ではない勉強に浸けられ
あては人形でしかないと
追い詰められていた時のことだったからだろう、
とんでもないほどに
捻じ曲げて捉えてしまった。
あての幼さ故の過ちだ。
いくら身長が伸びて
大人っぽくなろうと、
中身は変わらないまま。
かっとなってしまった時に
周りが見えなくなる性格とは
一生付き合っていくしか
ないのだろうな。
変わりようがないのだ。
だって人形なのだから。
いろは「麗香ちゃんなら大丈夫。見つけられるよ。目も当てられない程ぼろぼろになりながら出来るような事。」
あてをしっかりと見て、
笑顔で口にしたのだ。
あては知っていた。
あては今でも覚えていた。
彼女は、いろはは喜んでいたことを。
あてが水泳一筋だということを
知っている上で喜んだのだ。
あてが挫折して水泳を辞めることを
喜んでいたのだ。
友達として、幼馴染として疑った。
そこは続けてほしいというものではないのか。
曲がりなりにも水泳は
好きなことだったのだ。
なのに…。
…。
あてはそのあとどうしたんだか、
気づけば家に帰っていた。
母親はおらず、
がらんとしていたのを記憶している。
…。
ふと。
…。
あぁ、今日だと思ったのだ。
いなくなるなら今だと
直感が告げたのだ。
好きだったはずの水泳を辞め、
好きでもない勉強をし、
母親の言いなりになり続けて、
人形のように生き続けて。
…。
それは一体、何の意味がある?
あんな母親と居れば
そりゃあ頭だっておかしくなってしまう。
精神的に狂ってしまう。
まともに取り合うなんて
馬鹿のやることなんだ。
あぁ。
…あーあ。
もっと好きに生きられたら
どれだけ楽しかったろう。
いろはみたいに自分で好きなことを見つけて
好きなように生き続けていられたら。
七みたいに目標を見つけて頑張って、
神様の子供だからとかいう理由ではなく、
正当な努力を誉めてもらえるのであれば。
学校のにいる人たちみたいに
特に何か秀でているものなく
普通というものに浸って
生きていられたなら。
家をひと通り漁っても
縄らしきものは見当たらなかった。
縄跳びもだいぶ昔に
捨ててしまったのだろう。
まだ何メートルも残っている
ガムテープだけを手にして
家を飛び出た。
麗香「…あっつい。」
外は、その日は青々としていた。
まるで溺れているようだ。
そう。
人類は空に、地球に
ずっと溺れて生きている。
誰が空は上にあると言った。
海は下にあると言った。
逆でもいいじゃないか。
どうして普通や常識に
縛られなければならないのか。
…そう、今のいろはなら
言いそうだと思ったんだっけ。
不意に遠くで
猫が横切るのを見つけた。
あぁ、そうだ。
あて、猫が好きなんだった。
どうして猫が好きになったんだっけ。
どうやって猫を撫でていたっけ。
いつから忘れていたっけ。
いろはは忘れっぽいだなんて豪語したけれど、
本当に大切なものを忘れていたのは
あてだったのかもしれない。
あては大切なものばかり
忘れて生きてきたんだろう。
人間らしく生きる方法から
猫が好きだったっていう
身近なことまで全部。
…どうやって生きていたっけ。
吸い込まれそうなほど
残念にも青に染められた空に
思わず笑みが溢れた。
…。
母親が笑っていなかったと同時に、
あてだって笑ってなかったんだ。
全部がどうでもよくなって
全部を放り出してみたら、
なんだか体が軽くって。
よかった。
この選択をしてよかった。
正解なんだ。
だからこんなに嬉しいのか。
あてもあてでおかしくなっていた。
ずっと前からおかしかった。
なんだ。
もっと早く自由になればよかった。
…。
…。
……。
麗香「もっと沢山、道はあったんだろうなぁ。」
見えてなかっただけで。
そう、心の中で付け足した。
窮地に追いやられていくと
どんどんと逃げ道が見えなくなっていって
目の前にあるのは途切れそうな細道だけ。
1歩でも踏み外してしまったら
真っ逆さまへと落ちてゆく。
それ以外選択肢がないんだと
自分で言い聞かせるように
なってしまったらもう終わり。
あては、もう戻れないところまで
きてしまったんだと言い聞かせた。
だって、そっちの方が楽だから。
そっちの方が、
これから終わりを迎えるにあたって
正当な理由っぽいじゃんか。
そう。
不幸に見せる理由が
明確に欲しかったのかもしれないな。
それからあては私服ながらに
1度登校してみたのだ。
もうすぐ学校が始まる。
2学期が始まる。
高校1年生の秋が。
…。
そこに、あてはいないのだ。
いい気味だ。
生徒の数人にだけは
そのニュースが胸に刺さって
一瞬だけ苦しくなるだろう。
けど、忘れ去るのだ。
そんな人もいたよね、くらいになるのだ。
そして多くの人々は
あてのことなんて思い出さずに生きるのだ。
それならそれでいい。
あての存在はその程度。
誰にも愛されることがなかっただけだ。
七はどんな顔をするだろう。
1番見てみたいかもしれない。
悔しい顔でもするのだろうか。
賞を取れなかったあてのような
険しい顔でもするのだろうか。
いろははどうだろう。
めそめそ泣くんだろうか。
それとも、あての死を経て
より一層創作に打ち込むのだろうか。
いろはの創作の血肉へと
貢献することくらいできるかな。
母親はどうだ。
狂って自らをも追って自殺しそうだな。
それとも教祖様とやらに縋りついて
あてを生き返らせるようにと
泣き喚きそうだな。
それか、新たな人形を従えるとか。
…そもそも人形如き興味なくって
宙ぶらりんに生きるかな。
あては、あてがいなくなることで
多くの人の人生にがたを産むことができる。
それは憎いものか、
美しいものか、空虚なものか。
あては楽しくなっていた。
心が、とんでもなく軽かった。
そして、いつもとは違う道を通ろうと
ふらりふらり歩いた。
トマトとアサガオを夏場に育ててる家を左、
神社の前を通って、
古びている家をまた左。
それからも少しだけ紆余曲折した頃、
寂れているものの整備は施されている
公園が見えてきていた。
周りは住宅街だったが、
子供が遊んでるということもなく。
滑り台とブランコくらいの
定番な遊具が少量あるのに加えて
ベンチがいくつかある程度。
ここがいい。
初めてきたけれど、
ここが最後でいいや。
そう感じたのだ。
麗香「はーあ。」
ベンチに座ってぼうっと空を眺める。
こんなにゆったりした時間を持てるのも
久しぶりなことだった。
水泳と勉強、そして母親。
いろいろなことに時間を使っていたら
いつの間にかあての人生からは
自分の時間がなくなっていたのだ。
麗香「あはは。」
そりゃあ、追い詰められるわけだ。
逃げ道がないわけだ。
妙に納得がいって爽快感を感じたのだ。
そこで夜遅くになるまで
じっと待っていた。
幸いなことに公園には時計があったので、
時折時刻を確認した。
夜9時半を回ったあたり。
人もめっきりいなくなり、
あて以外見当たらない。
近くの家の窓も開いていない。
道ゆく人すらいないようで。
夜に1人、心地いい風を受けながら
ガムテープを滑り台の天辺の棒を
ぐるぐると大きく巻いていった。
何重にも重ねたあと、
首や髪にぺたぺたくっつくのは嫌だったので
くしゃくしゃにして形を作る。
それをもうなんべんか繰り返して、
そして強固な輪っかができた。
しっかりと足の浮く高さで、
土台も何もないものだから
どうやって首をかけようかと
悩み始めた時だった。
誰も来ないだろうと
慢心していたのがよくなかった。
「…何してんだ?」
麗香「…!」
見つかった。
邪魔された。
ぞくり。
途端に変な冷や汗が噴き出た。
そこにはあてより身長の高い、
髪の毛をポニーテールのようにして
まとめていた女性。
後毛がくるりとしていて、
そこに街灯の光なのか
反射しているのが見て取れた。
どうしよう。
どうしよう。
何も。
何もいい言い訳が浮かばない。
浮かばない。
どうしよう。
あてが次の言葉に詰まっていると、
訝しげに眉を顰めた彼女は
ひと言、遠慮なく放ったのだ。
「死ぬつもりなのか?」
麗香「…っ!」
「…。」
麗香「……そうですけど。」
「…そうかぁ。」
麗香「さっさとどっか行ってくださいよ。」
「何でだ?」
麗香「は…?」
「何でどっかに行かなきゃならねーんだよ。」
麗香「邪魔だからです。」
「邪魔してるつもりはねーけどよぅ。」
麗香「いるだけで邪魔です。」
「そんなこと言わなくなっていいじゃあねぇか。」
麗香「…。」
その人も笑いこそしなかったけど、
声のトーンは高く、
それとなく七のような雰囲気を
感じ取ることができた。
…。
そうか。
いてもいなくても一緒か。
ただいるだけ。
そう。
観客が増えたくらいなんだ。
これからあてがすることを
無理に止めそうもないとよんだのか、
その輪へと手を伸ばそうとしたその瞬間。
目の前にかさり、という音と共に
何かが飛び込んでくる。
「ほらよ。」
麗香「…?」
「カントリーマアム。」
麗香「は?今このタイミングで?」
「うちからのプレゼントなー。」
麗香「今から死のうと思ってるんですけど。」
「おうよ。」
麗香「それ、分かってるんですか。」
「分かってるぜぃ。死ぬ前にひと休憩しよーぜ。うちもするからさ。」
麗香「…何それ。」
「なあなあ、聞いてくれよー。今日な、ファミレスのバイトでよ、ちっちゃい男の子を連れた家族がきたんだ。」
麗香「…勝手に」
「結構よごしてたんだよ、席。親御さんも怒っちゃっててさ。」
麗香「…。」
「あー片付けるの大変になるなーとかみんなと話してて。んでもなぁ、その子、帰り際にこう言ったんだぜ?」
すると突然無理矢理手をとって
掌を上に向けた。
かと思えば、その上には
例の如くカントリーマアムが。
赤色だからチョコ味だろうか。
あれ。
ココア味だっけ。
「お姉ちゃんご馳走様でした、美味しかったですって。」
麗香「…それが何。」
「だっはは。いやぁ、子供って可愛くね?って話。」
麗香「今関係ないじゃんか…。」
「ん?あっははー、そうともいうな。」
麗香「…どうでもいい。」
その人は、豪快に笑って
後頭部をぽりぽりと掻いた。
コミカルな動きをするもんだな。
楽しそうに笑うもんだな。
関係ない話だった。
ほんと、どうでもいい話だった。
今持ってるカントリーマアムに
関係する話でもないし、
今目の前にいるこの人について
何かを知れるわけでもない
不毛な会話だった。
無駄な話だった。
無駄な時間だった。
意味のない時間だった。
なんだよ、この時間。
…。
ほんと。
ほんとにしょうもない。
どうでもいい。
どうでもいい。
そう、どうでもよかったんだ。
親に縛られるとか
全部責任転嫁してる
だけだったんじゃないのか。
どうでもいいって投げ捨てて
好きに生きることだって
できたじゃないか。
麗香「どうでも…いいじゃんか…っ。」
どうでもよかったんだよ。
生き方なんて。
楽しければ、それで。
あぁもう。
もう、死ぬとか生きるとか
どうでもいいや。
不意に涙が溢れてきた。
通学中でも学校でも家でも
流れてこなかった涙が
自然と流れて止まらなかった。
頑張ってたんだ。
そっか。
頑張ってたんだ。
もっととか考えなくてよかった。
期待に応えるとか、
期待以上の結果が出るように頑張るとか、
そこまでしなくてよかった。
あての出来る部分まででよかった。
考えすぎなくてよかった。
家庭のことが解決したわけではないのに、
先ほどとはまた違って
心が軽くなっていく。
「ここでしっかり泣いて帰るんだぞー?」
麗香「…ぐずっ…しっかりって…」
「溜め込んだもん吐き出してからの方が、そのカントリーマアム美味しくなるからよ。」
麗香「あはは…何それ、ぇ…っ。」
「うちがさっき魔法かけたんだぜ?きらきらーってな!」
あぁ。
こんなふうに生きられたら。
…。
きっと、楽しいんだろうな。
だからこんなに笑顔が
咲いているんだろうな。
あても、こんなふうに生きたいな。
「あそーだ。名前なんて言うんだ?」
麗香「ぇぅっ…え…今…っ?」
「今がいーなー。」
麗香「……嶺、れ、いか…っ。」
愛咲「麗香な!うち、長束愛咲ってゆーんだ。」
長束さんか。
初めて出会った苗字だな。
…。
それくらいの軽い感想を抱いた。
これくらいでいいんだよ。
これくらい、意味のない感想で。
愛咲「あっははー、そーんな強く握っちまったら、せっかくの形が崩れちゃうだろー?」
麗香「…ぇぐっ…だ、ってぇ…。」
愛咲「麗香。」
麗香「ん…ずっ…。」
愛咲「うちが…これから一緒にいてやるから!」
だから、沢山話そーぜい。
そう言ってくれたんだ。
それが長束先輩との出会いだった。
何度も思い出したこの言葉。
あの温もり。
あの息遣い。
あの夜景。
全て全て記憶の宝箱の中に。
°°°°°
いろは「怖い。」
麗香「怖くないって。ほら、全然大丈夫でしょ?おいで、勢いよくさ。」
いろは「でも」
麗香「何も考えなくていいんだよ。何か起こったらその時考えればいいんだから。」
いろは「うぅ…。」
麗香「知らない世界、見に行こうよ!」
いろは「…!」
麗香「手、握って。」
いろは「…うん。」
麗香「一気にいくよ、せーの!」
°°°°°
緩やかな波紋は遊びに来ていた
小学生達によって打ち消され、
反対に荒く若い波が
あての背中に届いた。
露の滴る手は
水の中に長いこといたはずなのに
自然な暖かさを纏っていて。
そんな記憶がふと
脳裏を掠めてはすぐに消えていった。
長束先輩はあての涙が枯れるまで
延々と背を撫で続けてくれたっけ。
その後、どうでもよくなったあては
ぱぱっとガムテープを回収し
さっさと家に帰ったのだ。
相変わらず母親からは叱られたけれど、
それらは右から左へと通り抜けていく。
その日食べたカントリーマアムは
とんでもなく美味しかった。
1度だけのことだが
深くまで関わってくれた気がした。
本人としてはどうだったんだろう。
こんなおふざけモードしか普段見せない中で
垣間見えてしまったあの先輩さえ
表面上なのだろうか。
あてはそうとは思いたくなかった。
初めて会った時が
1番深くまで踏み込んでくれて、
それ以来早々重い話をすることもなく
今に至っている。
それからあて達は時々
その公園で待ち合わせることもなく
自然と会うようになった。
何回か顔を合わせる中で
長束先輩が同じ学校の先輩だってことも
陸上部だってことも
馬鹿だってことも知っていった。
ただただ、楽しかった。
そんな日々の中のこと。
あれは冬が近づいている頃だったか。
いつものように先輩と
過ごしている時だった。
あては先輩と出会った時
確かに考え方は変わったのだが、
それでもまた積もるものはあった。
再度限界が近づいていた頃だと思う。
気候の変化もあり
心身共に疲弊していたのだ。
先輩は変わりなさそうだったけれど。
愛咲「なぁーにかあったかー。」
麗香「…まぁ。」
愛咲「ま、んだよなぁ。」
麗香「先輩。」
愛咲「ん?」
麗香「何か楽に生きる方法ない?」
愛咲「んー、楽しむことじゃねえか?」
麗香「それが難しい場合。」
愛咲「えー、それが難しいんだよぅ。」
麗香「いいなぁ。」
愛咲「そーだろー!」
麗香「いや、本当に。」
愛咲「心の持ちよう次第ってやつだな!」
麗香「持ちよう、ねぇ。」
愛咲「そうだぜぃ?苦手なもんでも美味しいと思えば意外と食べれるもんよ。」
麗香「演じる的な?」
愛咲「あー、見方変えりゃあーそうかもな!」
麗香「ハードル高い。」
愛咲「そんなら、いっそ飛び抜けたもんになりきりゃあいいんじゃね?」
麗香「飛び抜けた?猫とか?」
愛咲「いーじゃんよぅ。語尾ににゃとかつけちゃったり?」
麗香「え、流石にキモいって。」
愛咲「そうかぁ?」
麗香「何とも思わないのは先輩だけ。」
愛咲「んじゃ、うちの前だけで演じてみりゃあいいじゃねーか!」
麗香「どうしてそうなる。」
愛咲「だって、うちは気にしねーし、麗香が楽しくなるんだったら喜んでのるぜい?」
麗香「絶対楽しんでるだけじゃん。」
愛咲「そそそ、そんなことあーるわけねーだろ!」
麗香「でも、流石ににゃは嫌だなー。」
愛咲「しぃとか?」
麗香「…しい?」
愛咲「今日のうち、イカしてるしぃー?」
麗香「く…ぷははっ。」
愛咲「なな、何、うちは真面目だぞ!?」
麗香「ただのギャルじゃん。あはは。」
愛咲「見た目はそうだけど、中身まではちげーよ!」
麗香「今、完全に全部ギャルだったしー。」
愛咲「ほうら、今麗香だってしぃーって使ったじゃねーかよっ。」
麗香「いやいや、今のは普通に話してるだけだからノーカン。」
愛咲「んだとぅ。ちゃんと語尾ってわかるもんがいいよな。」
麗香「うん。ほら、先輩早く考えて。」
愛咲「ちょちょちょーい。麗香も考えろーうぃ?」
麗香「語尾なんて、やんすとかしか浮かばないから先輩に任せたい。」
愛咲「くっはは、だっははーっ!いいじゃねーかそれで!」
麗香「嫌々、にゃーより嫌。」
愛咲「えー、うちは好きなんだけどなぁー。」
麗香「絶対やんない。」
愛咲「じゃあ、けぇとかどうだー?」
麗香「けぇ?」
愛咲「そ、けぇなら語尾っぽさあるだろ、な?」
麗香「ダサくない?」
愛咲「どんだけぇー。」
麗香「あはは、あははっ。」
そんな会話があったんだ。
結局くだらない内容でしかないけど、
長束先輩のどんだけが
やけに刺さったことで
これに決まったんだと思う。
それから、役というのは
決まっていないものの、
キャラをつけようという話になって
一人称もあてになったんだっけ。
冬手前、あてがあてになるために、
あてを守るために、
生きるために大きく変わったのだ。
それが理由だったんだ。
大切なことを思い出せた気がする。
これまで、ずっと忘れていた気がする。
長束先輩以外では
普通に話しているものだから、
最近では語尾だなんて可笑しいものを
つけることも無くなりつつあった。
あてを守るためのものではあるけれど、
ひとつ長束先輩とあてを
繋ぐものであって、
そして、何より先輩が
笑ってつけてくれた語尾だって思い出せた。
やっぱりあては
長束先輩ともう1度会って、
そして元の場所へみんなで帰りたい。
°°°°°
空はきっと今が
1番明るいのだろう。
魚も健気に泳いでいる。
だからといって夏のように
寝転がるだけで汗をかくということもない。
背中に根が張っているようで、
起きることさえひと苦労だった。
ゆっくりと上体をおこして
思いっきり伸びをする。
すると、すうっと新鮮なものが
体内を貫いていく。
心地いい。
焦っていたはずなのに、
ゆっくりとして余裕を持って。
お腹は空いているし
限界はきっと近いのだろうけれど、
それでも昨日よりは
幾分も調子がいい。
麗香「…関場先輩。」
羽澄「…。」
麗香「そろそろ起きるけぇ。もう昼近いし。」
羽澄「…。」
麗香「それとももう起きてて、目を開くタイミングを逃してるけぇ?」
羽澄「…っ。」
麗香「それなら今、目を開けるけぇ。」
ぴくりと反応しあたり
とてもわかりやすいな
なんて思ってしまった。
聞かれていたのなら
今更語尾だとか一人称だとかを
隠す必要もないだろう。
寧ろ、長束先輩を探す者同士
人生の多くを晒したのだ。
もう、隠せるものもないのだ。
羽澄「……ぅ…。」
麗香「あはは、酷い声。」
羽澄「だって喉が起きてない…ですから。」
麗香「いつから聞いてたけぇ?」
羽澄「えっと…愛咲と会って少ししたくらい…でしょうか。演じるだとかのあたり…。」
麗香「なぁーんだ、結構最後の方けぇ。」
羽澄「そうなんですか。」
麗香「うん。」
羽澄「何か…いいですね。」
麗香「どういうことけぇ。」
羽澄「そっちの方が、羽澄は好きですよ。素の麗香ちゃんって感じがします。」
麗香「そうけぇ。」
羽澄「はい!」
関場先輩は喉が起きてないだなんて
さっき行っていたのに、
返事だけはよくって。
関場先輩もあても
ほんと、全然違って結構似てるんだ。
麗香「なら、長束先輩に感謝しなきゃ。」
羽澄「そうですね。羽澄達、愛咲に助けてもらってばかりだったんです。」
麗香「うんうん。」
羽澄「次は羽澄達が助けに行きましょうか。」
麗香「にしし、当たり前けぇ。」
羽澄「さて、また歩きますか。」
麗香「そうけぇ。早く探すけぇ。」
探す、とは言えど
目的地もなければ
気になるものもないというのが
現状であって。
結局塔に登ることもできなかったし、
あまり見舞わせていないというのが
事実としてここにあった。
羽澄「そうですね。まずは気になるものを見つけた方が良さそうですよね。」
麗香「うん。そこそこに高い建物とか探すけぇ?」
羽澄「それでもいいですね。ここからって何か見えますか?」
麗香「あー、そういえば何も見てないけぇ。来た時真っ暗だったし…。」
あ。
そうだ、と不意に思い出す。
何故真っ暗の中ここに来たんだっけと
思い返している最中だった。
麗香「そういえば先輩、怪我はないけぇ?」
羽澄「え?あ、あぁ。無問題ですよ!」
麗香「怪我ひとつもない?」
羽澄「はい!頭は若干じんとするような気もしますが、体は歩きすぎて痛い以外何もありません!」
麗香「頭がじんとするって…よくないんじゃ。」
羽澄「うーん、でも爪楊枝で突かれてるくらいなんですよね。」
麗香「ふうん…?」
羽澄「まあ、何か異常事態になれば麗香ちゃんを頼ります!」
麗香「はーい、分かったけぇ。」
見る限り、先輩は本当に元気そうで、
すいすいと歩いてあての横を通り過ぎ
外を眺めたのだ。
ここら一帯は建物が多く、
今あて達のいるところは
低い方にあたる。
多くの高層ビルが邪魔をして
中々先を見ることは出来なかった。
さっさと近くの高い建物に移動して
1度見下ろしてみるかと
先輩に背を向けた時だった。
羽澄「…?」
麗香「…さ、早く行くけぇ。」
羽澄「ま、待ってください。」
麗香「…ん?」
羽澄「あそこ、見えますか?」
麗香「…ん、どこけぇ。」
羽澄「あそこです、あの建物とこの建物の間の、ほんの隙間なんですけど。」
関場先輩は何かを見つけたのか
あてのことを呼び戻すものだから、
気にせざるを得なくなって
少しばかり駆け足で
先輩の隣へと駆け寄った。
一昨年あたり、遠くで眠っただなんて
信じられないだろうな。
長束先輩はどう思うだろう。
あてと関場先輩が仲良くなってたら
やっぱり嬉しいもんなのかな。
それとも意外と妬いちゃうとか。
それはなさそうだけど、どうだろうか。
こんな一瞬にも先輩へと思いを馳せた後、
関場先輩の言う先を眺めたのだ。
だが、めぼしいものは見当たらず、
狭い狭いビルの隙間が
時折あるくらいで。
こんなの、東京や神奈川と
なんら変わりがないだろう。
そう言いかけた時だった、
麗香「…?」
何か。
何か、青々しい何かが見えた。
その空間的に全体として
青々しくはあるのだが、
明らかに彩度の高い何かがある。
動いていれば魚なのだろうが、
どうやら地面にくっついているのか
動きはあまり見えない。
遠くにあるためあまり正確に
視認することはできないのだが、
建物か何かだろうか。
ここらのビル群をはじめ住宅街でも
無彩色のものばかりだった。
黒こそないけれど、
白から灰色まで様々な明度を
身に纏っている。
だからこそ、遠くにちらつく
青々しい何かは異端なのだ。
…。
あて達みたいに、周りから少し
外れて存在しているのだ。
羽澄「行ってみませんか。」
麗香「うん。でも…。」
羽澄「…?どうかしたんですか?」
麗香「いや、何にもない。」
何故だろう。
それとなく、懐かしいような、
将又これまでと全く違い
違和感しかないような。
言葉にしようとするとするほど
矛盾した言葉のみが並ぶのだ。
一概に簡単な言葉で言ってしまえば、
嫌な予感がするというやつだった。
***
思っている以上に距離はあったようで
再度足にできたマメの皮が
剥がれるかと思ったところだった。
道中、高い位置には魚が、
足元には貝だとかわかめのような
海藻がいく種類か。
鯨は見えなくなっており、
あて達に影を落とすこともなかった。
1度くらい正面から見て
なんなら頭突きを食らわせてやりたいくらい
鬱憤は溜まっていたけれど、
いなくなってしまったのなら仕方がない。
情景に目を向け、
周りと異なるものがないかを見つつ
関場先輩と話しながら進む。
こんな異空間にも
徐々に慣れてきてしまっている
あてがいたのだ。
重力の感覚だとか、
水面が底に映るこの景色だとか。
早く終われと思うと同時に、
ここにいたまま野垂れ死ぬのも
ひとつだろうなと、
朝に呟いたことが舞い降りていた。
だが、野垂れ死ぬにしても
先輩を見つけてからがいいけれど。
そんなことを内心ぐるぐると
綺麗ともいえない軌道で
巡り巡っているうちに、
足裏の痛みは程々に
辿り着きはしたのだ。
辿り着きは。
羽澄「…なんですか、これ。」
ぽつりと呟いていたのは
先輩の方だった。
あてはあっけに取られてしまい
何かを口にすることもできずに。
すいっと真横を
小魚が通り抜けていった。
そこには青い花がいくつも咲き誇っている
公園のような広さの場所があったのだ。
公園とは言えど遊具はなく、
あてと長束先輩が一緒に
過ごしたものではなくて
ひとつ安心が滲む。
足の踏みどころがないほど
花がぎゅうぎゅう詰めに咲いている。
そのどれもが波によって
ゆらりゆらりと一斉に
揺れ出しているのだ。
そこには魚も数匹いるようで、
住処になっているのか
時折出入りしている様子が窺える。
それだけならただ
海底にある花畑で済む。
しかし、異常がひとつあったのだ。
それは、青い大きな蕾だった。
あて達の身長をゆうに超えており、
2から3階相当の建物くらいは
あるのではないだろうか。
教室の端から端くらいまでは
確実にあるであろう
異常なまでに大きな蕾。
これが先程ビルの間から
覗いていたようで。
そして、近づく毎に
異常がもうひとつ。
麗香「…見て、先輩。」
あての指差す先に、
白く立つ棒があった。
青の中に白が紛れているものだから
容易に見つけられた。
すっと青から伸びている白は
ひらひらとしているようで、
生き物かどうかまでは怪しい。
羽澄「…近づいてみましょうか。」
麗香「……うん。」
どうしてだろう。
声があまり上手く出せなかった。
更に寄ると、全ての花は生きているようで
艶やかにも思えた。
いつもは好奇心が勝ると言うのに
こういうときに限っては
恐怖心が勝るもので。
そして、近づいて分かったことがある。
大きな蕾の前にいた白いひらひらは
どうやら人であるようだった。
ただ、ぼうっと突っ立っている。
羽澄「…っ。」
麗香「…。」
あて達は何も言えずに
花畑の前で立ち止まった。
蕾とその人までは
バスの端から端くらいまでの距離しか
ないのではなかろうか。
幾ら時が流れただろう。
思っているよりも短いのかもしれない。
不意に、先輩が息を吸う音が
あての耳に届いたのだ。
羽澄「あの、あなたは誰なんですか。」
「ボクが誰であろうと、君達には関係ないよ。」
麗香「…何あいつ。」
羽澄「そんな敵意を剥き出さなくても。」
麗香「原住民が何か?」
「違うよ。」
麗香「じゃあ何。」
「何であっても構わないよね。」
白いひらひらをよくよく見てみれば、
白いワンピースらしいものを
身につけているらしい。
随分と力のない声で、
ボブくらいの髪を結ぶことなく
波に漂わせている。
か弱そうな見た目だった。
ただ、性別は判別できない。
何故だろうか。
自然と浮かぶのは七の姿。
麗香「だからっ」
話が通じない。
意味を、意図を理解してもらえない。
早くもそのことに焦ったくなったのか
1歩踏み出そうとした時だった。
とくん、と。
大きな蕾が動いたような気がした。
蕾は思っているよりも
遠くに位置していたらしく、
遠近法によって小さく見えていて
このサイズなのかと言葉が出ない。
「…だから?」
麗香「…っ。」
何かを言おうとしていたのに、
刹那、その蕾に気を取られてしまって
足がすくんだ。
関場先輩も同じだ。
蕾の成る末を見守っているようで。
ごごごと本来であれば
音が鳴りそうなところを、
音もなく突如。
ふわっと。
鮮やかに開花したのだ。
それは思っている以上に一瞬のことで。
青々しい花は何枚もの花弁をつけ、
まるで図られたようにかっと開いた。
そこからは雄蕊や雌蕊らしい
細長いものが伸びており、
重さが故か、これまた予定通りか
花は中心がこちらに見えるように
ふらりと傾いたのだ。
そして。
その中心にはー。
麗香「…っ!?」
羽澄「…ぁ…愛咲っ!」
中心には、蕊に体を支えられている
長束先輩の姿があった。
その姿はくったりとしており、
力が入っていないことは一目瞭然。
まるで飾られた置物のように
脱力しているあたり、
気を失っているままなのだと直感した。
それと同時に、長束先輩の肌の色が
妙な変化をしていることが
遠くながら分かったのだ。
一部だろう、花の色素が映ったのか
鮮明な青が染みているようだった。
いなくなった当初、
走りに行くと言って出かけたためか
トレーナーに半ズボンだったようで、
主に足に青が移り住んでいる。
「ボクから聞きたいことがある。」
花が開いたのを他所に、
あて達から視線を外すことなく
語りかける人が1人。
自然と分かっていた。
その人が、長束先輩をここまで
連れてきたのだと。
黒幕なのだろう、と。
「自分のやるべきことを忘れていないよね?」
羽澄「…何を言ってるんですか。」
麗香「…っ?」
羽澄「………それは、誰に対して」
麗香「早く先輩を助けに行かないと。」
羽澄「待って、麗香ちゃん。」
ぱっと。
また先日のように先輩は手を取る。
けど、今度は痛くない。
腱鞘炎は治ったのか、それとも
そもそも力を入れていないのか。
いつだって関場先輩は
あてのことを止めてきた。
いつだって、視野を広く
保とうとする人なんだった。
けれど、あてはそんなことできない。
出来なかった。
大人と子供の差、なのだろう。
麗香「でも、でも…っ!」
羽澄「分かります。けれど、この人は何かを知ってるんです。」
麗香「もう聞いた、少しは聞いた。だから先輩を助けに行かせて。」
羽澄「…っ。」
麗香「お願い。」
もう語尾だとかなんだとか、
全てを忘れ去ってでも
あては今、先輩を助けに行きたかった。
今すぐ行かなければ、
花は閉じてしまうかもしれない、
あの青が何の意味を成すのか分からないが
もしかしたら悪いことなのかもしれない。
一刻も早く、先輩をあの場所から
救いあげなきゃいけない。
助けなきゃ。
見つけられたのだ。
やっと、やっと。
2か月を経て、漸く。
漸くなんだ。
だからー
もうひとこと、先輩に対して
強く放ってしまいそうになった時。
ふと。
触れていた体温は離れたのだ。
麗香「…!」
羽澄「……。」
関場先輩は何も言うことなく、
あてをちらと見やる。
そして少しの間柔らかく微笑んだ後、
その人と向かい合ったのだった。
…。
……。
…行ってこいって、
心の中で言ってくれたんだろう。
麗香「…っ。」
沢山のわがままを反対されたけれど、
ひとつ、許してくれたのか。
だっと足に力を込めて
先輩の元へ走った。
あては陸上部でも何でもないし、
陸だなんて程遠いものだったから
走るのは好きではない。
好きではないけれど、
大切な人のためであれば
がむしゃらにだって走れる。
青い花花を蹴散らして
魚がいようと気にせずに走った。
髪の毛がぐしゃぐしゃになったって、
制服が着崩れたってなんだっていい。
今はなんだっていい。
ひゅう、ひゅう。
息が上がる。
そんなに長く走っていないはずなのに、
動揺と、興奮とで
心拍数はどんどんと上がってゆく。
先輩。
…先輩。
長束先輩。
何回も呼んだその名前を
また先輩に向かって呼びたい。
そしたら返事をして。
そして笑って。
咲くような笑顔を向けて。
お願い。
花弁の先に辿り着き、
そこから大きな花弁を踏みつけ
一気に蕊の麓へと向かう。
が。
麗香「…いたっ…。」
くつを履いているのにも関わらず、
足裏から妙にちくりと痛みが差す。
とは言っても、小石が入った程度の
違和感にしかすぎずに。
きっと登る過程で
マメでも潰れてしまったのだ。
そんなことは気にしてられない。
もうすぐ先輩の元なのだから。
麗香「…はっ…はぁっ…先輩っ…!」
先輩の姿が近くなってゆく。
後ろでは関場先輩と白い人は
話しているのだろうか。
後ろを振り返る間も無く
漸くの思いで麓へと進んだ。
麗香「先輩…!」
やっとの思いで着いたそこ。
巨大な花は茎が存在していないのか、
花弁の付け根はほぼ平坦に重なっていた。
多少の凹凸はあるものの、
花特有のきゅっとした窪みがない。
そこから巨大な蕊が生えていた。
長束先輩はそのいくつかの蕊に
足や手をかけて支えられていた。
肌の出ている部分にほんのりと
青が滲んでいて、
特に足は鮮明に染まっており、
肌色の方が少なくなっていた。
穏やかとも苦しそうとも言えない顔で
目を閉じたまま
こちらに気づくことはなく。
麗香「先輩、先輩っ!」
もっと近づいて、頬に触れる。
大丈夫、体温はある。
冷えかかっているけれど、
ちゃんと生きている。
首元に手を当てても、
弱々しいが脈は取れる。
生きている。
生きている…。
生きていたんだ。
麗香「先輩、起きて、起きて帰ろう!」
頬を数回叩く。
それから、自分で何とかできないかと
先輩の背へと手を回し、
ぐっと引き上げようとしてみる。
しかし、思っている以上に
力の抜けた人を持ち上げるのは難しく、
あて自身の力も劣っていたからか、
それとも蕊に引っ掛かっていたのか
少しばかり背が浮くだけだった。
麗香「何で、先ぱ」
「ねえ。」
麗香「…っ!」
不意に、あの白い人の声がした。
関場先輩だったらよかったのに、
聞こえてきたのは望んでもない声。
背後から、雨のように
降ってきたのだ。
振り返りたくない。
それよりも先輩を早く、
早く…助けなきゃ。
そう思って試行錯誤していると、
痺れを切らしたのか肩に手をかけられ
ぐいっと反対側をむかされた。
一瞬のうちに息を止めてしまい、
次吸おうとしたところ、
口を抑えるようにがっと手を当てられたのだ。
何がしたいのか分からず、
恐怖のあまりじたばたと
手を動かした。
そして、手が離れるようにと
爪を食い込ませようとしたものの、
寧ろあての爪の方が
悲鳴をあげる始末。
麗香「…っ!」
「ボクは聞いてるんだよ。」
麗香「…ふー…ふー…!」
「自分のやるべきことを忘れていないよね、って。」
何を言っているんだ。
あてには全く理解出来なかった。
やるべきこと。
あるとするなれば、
長束先輩を助けることだ。
それだけだ。
すると、唐突に手を離され、
頬がじんわりと熱を帯び出す。
相当強く掴まれていたらしい。
華奢な見た目によらず
力が強いところだって
自然と彼女の影と重なる。
波が揺らめく中、
白色は異常なほど映えていた。
「嶺麗香。君は忘れてしまったの?」
麗香「…っ!…名前……何で。」
「ボクが聞いてるんだよ。」
麗香「知らない、何も知らないっ!」
「そっか。」
麗香「あて、は…あては、先輩を助けたいだけ。それだけ、やることはそれだけっ!」
「…。」
麗香「みんなで帰るの、生きて帰るのっ…!」
あぁ。
信じられないほど声が震えている。
関場先輩はどこ。
どうして来てくれないの。
長束先輩。
…先輩。
何故か、あてはここで死ぬと思った。
直感というものがあるだろう。
まさに、それのみで感じ取ったのだ。
恐怖のあまり声だけでなく、
胸元で握っている自分の手まで
かくかくと震えている。
せっかく先輩を見つけ出したのに。
なのに。
…。
……。
…。
ここで死んでしまってもいいかだなんて
さっきまでは思っていたけれど前言撤回。
あては、長束先輩と
関場先輩と3人で元の場所に帰りたい。
帰って、それからおやつでも
食べながらどうでもいいことを
話していたい。
あぁ。
あと、それから猫カフェだって行きたい。
まだ、まだまだしたいことが
沢山あるんだ。
…。
…生きてたい。
そう思った時だった。
何が起こっても仕方がない。
心構えをして待つ中。
「先生、完了したよ。」
麗香「……っ………ぇっ…っ?」
「2022-6、route2-e。」
あてに対して言ったのかと思って
いつの間にか閉じていた目を
開いてみれば、
もうこちらのことなんか見ていなくて
花園の一部へと視線をやっているよう。
よく見てみれば関場先輩がいる方でもなく、
ただただ花に対して声を飛ばしたんだ。
一見意味不明な行動。
訳の分からないままに
慌てて先輩の元へ行き、
何を思ったのか手を握った。
離さないように。
もう、もう2度と離さないように。
麗香「…何言ってー」
刹那。
何が起こったのだか分からないが、
視界がぐるりと回転したのだ。
水圧のかかる方向が一気に変化し、
大きな花だけがゆっくりと
靡いているようで。
麗香「せ、んぱ…ー」
その声は虚しくも届かず、
ただ体温は伝っていた。
さざ。
…さざぁ…。
ざざ。
…。
遠く、遠くで海の音がする。
あて達、海の底にいたんだろうか。
そんなの、夢物語にすぎないだろうか。
また咄嗟に息を止めては
今度吸うことを永遠に
忘れそうになった。
駄目だ。
生きなきゃ。
生きなきゃ、何も生まれない。
…。
…。
…。
現実に見た青い世界が
どんどんと遠ざかっていくような
気がしたのだった。
***
麗香「…。」
さざ。
…さざぁ…。
ざざ。
…。
さざ。
…さざ…ざぁ…。
ざざ。
…。
海の音がする。
日差しが眩しい。
目を開きたくない。
どこにいたんだっけ。
あては、何していたんだっけ。
働かない頭で精一杯
考えようとしたって、
浮かんでくるのは疑問ばかり。
一旦伸びをしてから
冷静になって
考えようと思った時だった。
上に伸ばそうとしたところ、
何かが手にはまっていて
動きそうにない。
何だろうか。
枷でも嵌められているのだろうか。
そんな突飛な想像に身を任せ
ゆっくりと現実を見るために
目を開いていったのだ。
日差しは刺すように
あてを照らしていた。
何時の陽だろう。
分からないけれど、
水平線から出ている
太陽がちらと視界の隅に見えるあたり
朝日か夕暮れのどちらかではあるだろう。
「おーい。」
麗香「…。」
「麗香、起きろー。」
麗香「……っ。」
頬にはさらさらとした
粒のような感触。
それ以上に、聴覚を刺激する
誰かさんの声があった。
さざ。
…さざぁ…。
ざざ。
…。
まだ波の音がしていると思えば、
すぐ近くまで波が押し寄せてきていた。
ふっと。
海とは真逆の方向を眺めた。
愛咲「お、やーっと起きたかよぅ。」
麗香「…っ………それはこっちのセリフけぇ。」
愛咲「そうともいうな!」
麗香「…相変わらず…っ。」
それ以上の言葉は出なかった。
涙がでかかったその時。
不意に腕に乗っていたらしい何かを
退けてくれる影があった。
長束先輩はただしゃがんで
あての前にいるだけだった。
それだけで嬉しいのだ。
羽澄「大丈夫ですか、麗香ちゃん。」
麗香「…うん…っ。」
羽澄「えへへ、よかったです。」
愛咲「怪我ねーか、2人とも?」
羽澄「はい!羽澄はこの通り元気ですよ!」
麗香「あても全然平気。」
愛咲「ほんとかぁ?ほら、さっき石の乗っかってた方の手でも見せてみろって。」
長束先輩は相変わらず
あてに有無を言わせることなく
勝手に手をとって調べ出した。
右手は温かく包まれていて、
左手にはぴちりと
波の破片が被弾した。
愛咲「あ、ほらこの傷、怪我じゃねーか!」
麗香「あぁ…それはただの傷跡けぇ。」
愛咲「なーんだ跡かぁ。それ以外大丈夫そうだな!綺麗な手だぜ!」
麗香「……っ…。」
愛咲「なぁに、泣くなよーぅ。」
麗香「だって…。」
羽澄「…そりゃあうるっときちゃいますよね。」
愛咲「2人とも、ありがとな。」
長束先輩はあての背に手を伸ばし
ゆっくりと座らせてくれようとしたのだが、
その動作が終わる前に
砂だらけの制服のままに
先輩に抱きついた。
普段はスキンシップは嫌いだけど、
今だけは何だっていい、
長束先輩を近くで感じていたかった。
更に優しく覆うように
関場先輩の手が伸びてくるのを感じた。
愛咲「だーもう、そんなにくっつかれると愛咲さん照れるぜー。」
さざ。
…さざぁ…。
ざざ。
…。
まだ、波の音は聞こえていた。
あて達の経験した風景は嘘ではない。
あて達が見たものは嘘ではない。
そのはずだ。
けど、今だけは全てが嘘だったとしても
構わないとさえ思えた。
だって、今ここに先輩がいるのだから。
3人でいるのだから。
波は、いつまで経っても
寄り添うように
あての足元まで押し寄せていたのだ。
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