記憶の底、海の空
怪奇的な現象に立ち会ってから
なんと1日が経ちました。
というのも、電車が大きく揺れたと思えば
意識はなくなってしまい、
次に目覚めた時は
どうやら海のような底に
いるということでした。
空気とは明らかに異なった抵抗の強さ、
そして肌を包む若干ながらの湿っぽさ。
これらから思うに水であるのだとは
ぱっと想像つくのです。
しかし、もし本当に海の底であるのであれば
そもそもとして羽澄達が
呼吸できている意味がわかりません。
しっかりと呼吸をしているのですが、
時折鼻がつうんとするあたり
やはり水なのだろうと過るのです。
そして、海底なのであれば
水圧で圧死していないことが
信じられないのです。
ここが水深何メートルの位置になるのかも
起因してくるのですが、
人体としてはありえない状態で
この場に立っていることは変わりません。
先日、羽澄と麗香ちゃんは
真横にあった角の削れた
民家らしき箱の中に入り、
床だと思われる場所に
無造作に寝転がりました。
麗香ちゃんは愛咲のことを
探しに行きたそうでしたが、
夜だったこともあるのか
あたりは時折仄暗い何かが光って、
その近くのみが照らされる程度のみ。
もし、羽澄達の暮らす現実の世界であれば
その暗さでもある程度
歩くことは可能だと思います。
しかし、見知らぬ場所。
尚且つ不可解な出来事に
また巻き込まれているという事実。
これらから目を背けることはできずに
麗香ちゃんが納得するよう
只管に声をかけ続けたのでした。
数分に渡って口論した結果、
麗香ちゃんは最終的に折れてはくれました。
しかし、不満だと言わんばかりのオーラを
ぷんぷんと匂わせており、
羽澄とは随分と距離を置いて
横になっていたのを容易に思い出せます。
横になると、当たり前ですが
世界は横転します。
すると、何故だかここは異国ではなく、
ただ自分の部屋で寝転がっているような
奇妙な感覚に陥っていくのです。
奇妙なのは実際その目に映る
景色自体なのですけれど。
床は硬く、コンクリートかと思うほど。
民家だとは形容しましたが、
ぱっと見ではキッチンだとか
食卓だとかという家具の類さえ
見当たらないのです。
水流によってどこかへ
流されていったと思えば
それで終わりなのでしょう。
冷たい床と肌を密着させ
眠る夜は久々のような気がしました。
それも、きっとあの冬の日。
あの日を思い出すのです。
ですが、頭を振ることもなく
脳内であー、と叫んだのち、
小さく縮こまって目を閉じました。
すると、比にならないほどの暗闇が
羽澄を襲ってくるのです。
電車では隣に座っていた麗香ちゃんも
今では近くにいません。
数メートル置いてころりと
まるで死体のように
転がっていることでしょう。
もしここが本当に海の底なのであれば。
…。
羽澄達は、もう死んでしまったのでしょうか。
あの電車の唐突で衝撃的な揺れは
未だに体に刻み込まれています。
事故、だったのでしょう。
中途、スマホで調べていた
根府川駅で起こったという事故が
自然と想起されます。
もっとしっかり調べておけばよかったと
内心後悔しているのでした。
眠って起きればきっと
元の世界に戻っていると
信じて止まなかったのです。
それは麗香ちゃんもそうだったと思います。
これまで虚だった彼女の目は
いつからか…いや、この場所に降り立ってから
目をかっと開いたままで
いたのを覚えています。
根府川駅に何かあると確信し、
その上で実際に何かが起こってしまっている。
そこまで信じられる根拠となったのは
一体何だったのでしょうか。
またもや聞きそびれた、と
後悔が積もっていくのです。
聞かなかったことは理由があるのでしょう。
聞いても答えてくれないと、
これまた確信めいたものがあったのです。
根拠はありませんけれど。
…。
麗香ちゃんも同じだったのではないか。
麗香ちゃんも、愛咲がここにいるだなんて
確信しているにも関わらず
根拠はなかったのではないでしょうか。
そう思った方が受け入れられたのです。
羽澄の持つ考えだからこそ、
普段馴染んでいる考えだからこそ
抵抗なくすうっと入っていく。
そんな気がしたのです。
脳内では仮説と後悔が
巡り巡っている中、
羽澄はいつの間にか深く
眠りについてしまったようです。
通常通り6時間目まで
学校があったものですから、
疲れていたのもあるのでしょう。
真っ暗な世界に沈む中、
羽澄は何か素敵な夢を、
それこそあの青に沈むような…
空に溶けるような夢を渇望して
眠りにつくのでした。
制服は皺くちゃになるでしょうけれど、
だからといって脱ごうという気も起きません。
それよりも、ひとまず何かで
身を包んでいたい、
安心していたいという気持ちの方が
十二分にあるのです。
温かな…。
…。
°°°°°
愛咲「はぁーずみぃー!」
羽澄「わわっ!」
愛咲「えっへへ、びっくりしたかー?」
羽澄「そりゃあ急に抱きつかれたら誰だってびっくりしますよ!」
愛咲「はっはっは、愛咲さんは敵なしなのだー!」
羽澄「そういう意味ではありませんが…。」
愛咲「んだよんだよぅ、うちだと力劣らずか?」
羽澄「えっと…」
愛咲「そんなたじたじされちゃあ、うちももじもじしちまうってー。」
羽澄「愛咲!」
愛咲「うわっ!急に大声出してなんだよぅ。」
羽澄「愛咲と同じことをしただけですよ。」
愛咲「はっ…!うちもまだまだってことだな…やるな、羽澄!」
羽澄「別に張られても嬉しくないのは何ででしょうか…。」
愛咲「うちら…ライバルにも満たねぇのかよ…っ。」
羽澄「はぁ。」
愛咲「ちょ、急に冷めないでくれよーぅ。」
羽澄「と、言われましても。」
愛咲「あ、でもでもだっけーど!」
羽澄「今度は何ですか。」
愛咲「愛咲って呼んでくれたのはすんげー嬉しかったぜい!」
羽澄「…なら、よかったです。」
°°°°°
羽澄「…。」
ふと目を覚めると
まずここはどこだかという
認識を始めるところから始まります。
人は、まず思い出すところから
始まると耳にしたことがあります。
それらを思い出すことができなければ
生命活動を始めることができません。
例えば、起きてまず何をする、
今日はどんな予定がある、
明日はどうだ…といったものです。
そして根本は、自分は誰なのかということ。
羽澄は羽澄です。
それを思い出せた時点で
今日は始まったのです。
始まってしまっているのです。
自然と時計やらスマホを探そうと
手を伸ばしたのですが、
あるのはざりざりとした
硬い地面だけでした。
爪がかつりと音を立てたと思います。
ささやかな刺激が伝うのです。
一体どこで眠っていたのでしたっけ。
ふと頭を上げようとしましたが、
気だるさゆえか低血圧ゆえなのか
軽々しく起き上がることは出来ません。
綺麗に仰向けで眠っていたようで、
不思議と手を天井があるはずであろう
方向へと伸ばしたくなります。
小さい頃、空に手を伸ばして
雪を掴もうと頑張っていただなんて記憶が
あるからでしょうか。
目がしばしばしますが、
ゆっくりと瞳を開き続ける脳意識して
うつ伏せになり状態を起こします。
すると、髪は酷く乱れているようで、
どこの髪だか分からないものが
時間をかけて頬を伝って
やがて宙へと解き放たれることなく
頬に張り付きました。
羽澄「………ぁ…そっ……か…。」
ぽつり。
雪かと思うほど音がなく、
その呟きはこのむるむるとした感触に
溶けていったのでした。
寝起きだからかと思いましたが、
時間が経ても一向に
若干ながらの歪みが改善されません。
プールやお風呂で潜った時のように
波打つような感覚が
視覚、触覚から感じられるのです。
数メートルを離れた先、
麗香ちゃんらしき影が見えました。
まだ彼女は眠っているようで、
横向きになったままに
肩が小さく上下していることが
見て取れたのです。
羽澄「…。」
おはようございますだなんて
呑気なことも言えそうにない羽澄は、
ひとまず括りっぱなしだった髪の毛を
解す作業を始めました。
眠る直前に解いておけばよかったものを、
忘れてそのまま眠ってしまったのです。
疲れを理由にして、
暗闇に背を預けてしまったのでした。
ですから、今更解いたところで
髪のうねりがなくなることはなく、
肩甲骨の下付近まで伸びた長い長い髪は、
巻いてもいないのにくるりと
上手に跳ね遊んでいます。
鏡がないので何とも言えませんが、
毛先を見るにそうだと
それとなく感じることができるのです。
羽澄「…ぼさぼさ……。」
口を開くと、少量水っぽいものが
含まれるような気がするのですが、
それ以上に空気らしきものが
体内に入っていくのを感じるのです。
まるで呼吸のできるプールのような。
それこそ夢だと言って
済ませたほうがいいようなものです。
明晰夢、でしたっけ。
夢だと気づいていながらも
夢を見ている現象…。
今、羽澄はその状態に
いるのではないでしょうか。
そしたら、何故麗香ちゃんと
一緒にいたままなのかという話にも
なるとは思いますが。
もしかしたら、今視界に入っている
麗香ちゃんは昨日共に
電車に乗っていた麗香ちゃんだと
勘違いしているだけなのでしょうか。
羽澄から、麗香ちゃんが麗香ちゃんだと、
本物だと見分ける術はありません。
それこそ、テセウスの船と一緒です。
あなたを模るものが違っても
それはあなたと言えるのか…。
…。
考えすぎですよね。
夢の話からここまで飛躍してしまう
羽澄の頭はどうやら
願った通り変であるようです。
いつもと同じ髪型に、
お団子にしようと思ったのですが、
鏡がないこともあり
結局下の方で結ぶだけにしました。
家以外で髪を下ろすことはなく、
下の方で結ぶことすら
中々ないことだったので、
どこかパーソナルスペースが
侵されているような気がしてなりません。
とはいえ、ここには
お互いに干渉しようとさえしない2人のみです。
そう思う度に心が軽くなるのでした。
やはり、羽澄は卑怯なのです。
寝ぼけ眼だったのですが、
次第にそうではなくなっていき
視界が明瞭になってきました。
昨日ここにきた段階よりも
随分と明るいようです。
この世界にも朝と夜くらいの
分別はあるようでした。
見渡してみれば、
家具はこれっぽっちもないものの
家と呼ばれる程度の区切りがあります。
しかし、そのどこにも扉はなく、
凹凸のみで区切られていました。
それでも部屋、家だと認識できるのです。
階段があるようで、
やはり家なのだとは想像がつきます。
ただ、誰の家なのでしょうか。
そう考えるとぞっとします。
もし、この家に今も誰か
住んでいるのだとしたら。
未知の生物と遭遇してしまったら。
羽澄達は…帰れるのでしょうか。
そもそも生きているのでしょうか。
あぁ。
よくない癖ですね。
1度疑問が湧いてしまったら
それに関連したものが芋づる式に
次々と出てくるのですから。
変とは一種、
想像力豊かとも
言えるのかもしれませんね。
羽澄「…誰かいますかー…。」
麗香ちゃんが眠っているということもあり、
出来る限りの小さな声で
家に語りかけてみます。
すると、家が返事をする
…ということもなければ、
上から声がするだなんて
恐怖たっぷりなことだって
起こりはしませんでした。
羽澄「…。」
恐怖心でいっぱいなのですが、
2階、階段のその先を見なければ
心は静まらないと思ったのです。
もやもやしたまま麗香ちゃんと
この家を後にして
忘れるのを待つだけ。
そんなのは嫌だと思ったのでした。
羽澄「……夢…。」
さっき、どんな夢を見ていましたっけ。
何か懐かしいものだったような
気もするのですが。
こうして忘れたことに対して
もやもやしてしまうのです。
そうなる前に、と
羽澄は1歩を踏み出しました。
少しばかり手を平泳のように
体の前で掻きました。
すると、思っているほど重くなく
すいっと進むのです。
水のようではあるのですが、
空気のようなものの分量も
多いと取ればよさそうです。
どれだけ不可解なことについて
理解しようとしても
所詮理解なんてできないのです。
羽澄がそう言われてきたように。
そのまま泳ぐように
階段を登っていきました。
1段踏む毎に、
スニーカーの裏には
冷たいであろう感触がします。
ひと、ひと。
そんな音が聞こえてきそうです。
羽澄「…っ。」
こくり。
息をも呑む音すら聞こえてきそうです。
誰かがいるかもしれない。
そう思いながら重い足を
1歩、また1歩と伸ばしていきます。
すると、いつだか
最上段に着くのです。
最後の段を登り終えて2階に着くと、
それ以上上に伸びる階段はなさそうで、
一戸建てと呼ばれるほどの大きさでした。
ぐるりと見渡してもやはり扉はなく、
どの部屋に入っても同じ風貌です。
家具が何もなく、
そして全ての角がないのでした。
子供が怪我しない為に
特化していった部屋のようです。
湾曲しているようにも見え始めてしまい、
若干ながら酔ったところで
階段を降りていきました。
この家だけ何もなかったのかもしれませんし、
他の家だって同じなのかもしれません。
羽澄達と同じように
人の子が迷い込んでいて
別の家を拠点にしていて…。
…それは流石にありませんか。
自分の脳内で描いたものは
即座に羽澄によって
びりびりに破かれました。
気をつけながら今度は
階段を降ります。
すると、不意に気づいてしまうのです。
陽の光が差していました。
近くに窓があったのです。
それは窓というには
劣っているのかもしれません。
ただ穴が空いているだけだったからです。
ちらと覗く外の世界は
隣の同じような建物によって
遮蔽されているのでした。
これじゃあ意味がないとは思ったものの、
どの角度からか光を享受しているので
完全に無駄というわけではないようです。
そして、羽澄は麗香ちゃんを起こすことなく
ただじっと彼女が起きるのを待ちました。
今更気づいたのですが、
ここには時計もなければ
羽澄達が持っていた通学鞄すらありません。
荷物の全てが無いのです。
あるのこの身のみ。
全てはどこにいってしまったのでしょうか。
そして、キッチンや家具がないあたり
ご飯がない、ということなのでしょう。
この家を散策しても
それらしきものはなかったのです。
それこそ、外を泳いでいた魚を…。
…ということになるのでしょうか。
…。
…。
頭の中を空にすることも
もしかしたら今の羽澄には
必要なことかもしれません。
そう思って、何も考えないようにと
念じながら体操座りをし、
壁に背を預けて伏せました。
人といるのは時間があるからこそ
いろいろなことを考えてしまいます。
なら、そうならない程
予定を詰めればいい。
そんな考えがあった時期も
ありましたっけ。
羽澄のことです。
頭を使うよりも体を使ってる方が
すっきりすることが多いのでした。
…。
…。
…。
幾分も時間が経ったでしょう。
距離を置いた場所から
のっそりと何かしらが
擦れる音が聞こえたのです。
それに釣られるように
ゆっくり顔を上げると、
そこには上体を起こして
ぺたんと座っている麗香ちゃんがいました。
羽澄はというと、他に見るものもなく
麗香ちゃんの姿をじっと眺めていました。
先程の羽澄同様、
髪の毛は若干ながらほつりとしており
どことなく跳ねているようです。
彼女は髪を結んでいないこともあって
変な癖こそついてはいませんでした。
麗香「…。」
羽澄「おはようございます。」
麗香「……おはよう…ございます…。」
明らかに寝起きだとわかるほど
掠れた声でそう言いました。
施設の子供や職員さん以外の人の
寝起きを見るのは、
修学旅行の時以外なかったので
新鮮に映ったのは事実です。
それから彼女は眠たげに目を擦り、
猫のように伸びをした後
何もなかったかのように
すっと立ったのでした。
寝起きとは思えないくらい
そこまでの流れが完璧だったのです。
麗香「…ここって……。」
羽澄「…?何ですか?」
麗香「ここ、ご飯ってあるんですか?」
羽澄「それがなさそうなんです。」
麗香「先輩が隠し持ってるとかないですよね。」
羽澄「持ってないですよ。制服のポケット見てみますか?」
麗香「…いえ、結構です。」
羽澄「そうですか…。どうします、一旦外に出てみますか。」
麗香「はい。」
羽澄「了解であります!」
着飾らなくてもいいとは
頭で理解していても、
それを体現することは
まだまだ難しいようでした。
外に出てみると、
そこは大層澄んでいる街でした。
朝の斜光が前回を照らしすことで、
この街の全体も見えてきます。
まず、羽澄達が降り立った場所に向かうと、
やはり駅のホームらしいものが
地面に半分埋まりながらも
そこにあったのです。
結構な大きさがあるもので、
掘り出せそうなものではないことが
容易に理解できました。
澄んだ青で満たされた空間に
ひとつ時代を間違えて
ここで眠っている。
崩壊具合からそんなことを感じます。
そして街です。
やはり、角のない家家が乱立しています。
道は細く、まさにここは住宅街なのでしょう。
もしここが日本であれば、
道に水を撒く高齢の男性がいて、
学校に通う中学生がいて、
布団を干す中年の女性がいる。
そのような風景を浮かべることができました。
麗香「…。」
羽澄「全部丸い家ですね。」
麗香「…ですね。」
羽澄「なんだか酔ってる気分です。」
麗香「…。」
羽澄「足、疲れてないですか?」
麗香「大丈夫です。…それより早く先輩を見つけましょう。」
羽澄「……そう、ですね。」
深く深く沈んでいて、
深い深い森に迷っている。
そんな彼女の目はいつだって
愛咲のことしか捉えていなかったのです。
もちろん、この海この森から
彼女を救い出せるのは
間違いなく愛咲だけでした。
信頼を超えた何か宗教めいているとさえ
捉えることができるもので
自信を突き動かしているのでしょう。
羽澄「少し歩いてみますか。」
麗香「少しじゃないです。」
羽澄「…あはは、そうですよね。」
麗香「見つけるまでです。」
羽澄「…。」
麗香「行きましょう。」
羽澄「…はい。」
麗香ちゃんのなんもと言い表せない圧に
押し負けてしまい、
彼女の背中を見ながら
羽澄は追うことしか出来ません。
内心項垂れながら
ついていくのです。
そして時折後ろを振り返れば、
ぼろぼろになった駅のホームの残骸が
淋しく小さくなっていきました。
どう頑張っても、
羽澄はその風景を生きたものとして、
映像として残せるよう
ただ眺むことしかできません。
麗香ちゃんは下校時と何ら変わらず
目標に向かって歩みを進めるのみでした。
それについていく羽澄だって
下校時とは何も変わらなかったのです。
歩いていくと、次第に閉鎖的な
住宅街から大通りの方へと
街並みは変わっていきました。
右から左へと視線を動かしていけば、
やはり角の取れた建元ばかり。
しかし、住宅街とは違い
そこには高低差があったのです。
都会の建物のように
高層ビルめいたものもあれば、
あまり背が高くなく
アパートのようなものもあります。
そのどれもが人がいたかのような
出立ちなのですが、
中身は空っぽなのかもしれません。
そう思うに、これらの建物は
どうやら羽澄のようでもあると言えますね。
中に何もないのです。
外には角は立てません。
そう言ったものを
表現しているのではないかと
思ってしまうほど。
やはりそこで思うのが、
どうしてこんな奇形な街が
根府川駅にあると知っていたか、
ということです。
そこで、これまで麗香ちゃんに
何故なのかを問うていなかったことを
思い出したのです。
ひとつの後悔を払拭する
いい機会だなんて思ってしまったのです。
麗香「…。」
羽澄「麗香ちゃん。」
麗香「…。」
羽澄「麗香ちゃんはどうして、根府川駅に何かがあるって分かったんですか。」
麗香「…宝探し…。」
羽澄「…?」
麗香「お宝の中に、あったんです。」
羽澄「ありましたっけ…?」
麗香「…『溺れる1番線』…覚えてないですか?」
羽澄「ごめんなさい、羽澄は覚えてないです。」
麗香「そうですか。」
羽澄「それと根府川駅に何の関係があるんですか?」
麗香「昔、関東大震災で土砂が流れ込んできて、列車が海に沈んだそうです。駅のプラットホームも確か崩れて海の底へ。」
羽澄「…!」
°°°°°
根府川駅。
調べてみれば、
神奈川県の小田原にあると言います。
ふと電子看板を見てみれば、
次は小田原という文字が
泳ぐように流れていきました。
さらに見てみれば
海の見える駅だとか、
無人駅だとかいう情報がありました。
写真を見るに、新しい建物ではなく、
どうやら時代を感じることができる
風貌のようです。
ホームにはほとんど屋根がなく、
4月になると駅周辺は桜でいっぱい。
Wikipediaを覗くと
文字ばかりで読む気が起きなかったのですが、
それとなく事故があったというのは
目にしました。
海に当時沈んだ駅のホームが
沈んだままになっているのだとか。
°°°°°
麗香「今も根府川駅には1番線はありません。」
羽澄「…でも…でも、おかしくないですか。」
麗香「何がですか?」
羽澄「だって羽澄達は、ただ普通に電車に乗っていただけで…こんなところに来るなんて…」
麗香「呼ばれたんですよ。」
羽澄「呼ばれ…。」
麗香「終わってないんです、全部。」
羽澄「…。」
何故か麗香ちゃんは
にんまりと笑った気がしました。
嬉しい、のでしょうか。
…。
そりゃあ、嬉しいですよね。
宝探しをして愛咲が居なくなって、
それで終わりじゃあ納得がいきませんもんね。
続いているのであれば、
愛咲だって見つけられるかもしれない。
同時に、自分すらいなくなってしまうかも。
続いていることに対して
喜びを感じていなければ、
もうやってられなかったのでしょう。
正気を保つことなんて
出来なかったのだと思います。
きっと、羽澄も
その1人だったのです。
自分では気づかないようにと
目を逸らし続けているのです。
気づかないふりをし続けているのです。
羽澄もきっと、
喜んでしまっているのでした。
唐突にきゅるる、と
羽澄のお腹が鳴りました。
今更恥ずかしいだなんて思うことも
さらさらないのですが、
ただ、食べ物がないことに対しての
ストレスがかかっているとは感じます。
それは麗香ちゃんも同じだろうと思います。
昨日の昼以来何も口に
していないはずですから。
それに、羽澄達の荷物は何ひとつとしてない。
麗香ちゃんはそのことすら
気にしていないのか、
将又知っていたように
ただ愛咲を探すと言って歩くのです。
朝の時点でお腹が空いているであろう言葉を
口にしていたので、
負荷ばかりかかっていると思います。
それに加えて今、彼女は
客観視ということをまるでしていません。
自分がどんな状態にあるのか
明瞭ではないのです。
ここは羽澄がしっかりしなければ。
気を引き締めるために
腕の出た夏服の上から
二の腕を軽くつねります。
それだけで目が覚めるのでした。
***
延々と歩き続けて数時間は
経ったのではないでしょうか。
何度か休憩を促しましたが、
それでも聞く耳を持ってくれず、
まだ歩くというのでした。
そしてその度に
蔑むような視線を羽澄にくれてやるのです。
いくじなし、と。
本当に探そうと思っているのか、と。
そう言っているようでした。
目は口ほどに物を言うとは
まさに今目の前のことだろうと
何度実感したことでしょう。
麗香「…。」
羽澄「…。」
何度か休憩を促した以降は
羽澄も流石に根負けしてしまい、
足の裏が痛かろうが何だろうが
黙って歩き続けていました。
これまでの人生、
羽澄は流されるままに
生きてきたと再認識させられているようで
胸の奥がぎゅっとなったのです。
ですが、それを口に出したって
やはり無駄だと言えることで。
角のない無個性な建物を見るのも飽き、
あるのか分からない橋を目指して
歩くだけになっていました。
すると、やがて大都会へと変化して
過ぎればまた住宅街になりました。
昨日ちらと見えた塔が
やけに近くなったなとは感じたのですが、
麗香ちゃんはそんなものに目もくれず
そのまま突き進むのみでした。
羽澄も、何も言いませんでした。
探すというよりかは
何か目的を持って
この道しか歩いていないようにも見えます。
曲がることは一切せず、
大通りに出てからは
直前にしか進んでいません。
建物が少なくなったなと
感じたその時でした。
その出来事は唐突に起こったのです。
だん。
そんな大きめの音が
なったかと思えば、
目の前にいた麗香ちゃんが
一瞬体を仰け反らせた後
頭を抱えるように
縮こまったのです。
唐突且つ一瞬のことだったので
何が起きたのか分からず
数秒の間、羽澄は何も出来ませんでした。
これまで何も変化という変化がなく
頭を空にして歩いてきたため、
変化に追いつくことができなかったのです。
落ち着くにつれ、
やがて何が起こったのか
理解をし始めました。
羽澄「だ、大丈夫ですか!?」
麗香「…つぅ…。」
羽澄「どうしたんですか。」
麗香「…壁…。」
羽澄「壁?」
麗香「…が、あるんです。」
羽澄「え?」
麗香ちゃんは確と
「壁がある」と口にしました。
しかし、羽澄からすると
まだ奥にも街並みの続きはあり、
先が見えないほどに
続いているのでした。
魚だってこちら側と同じように
泳いでいますし、
何が違うかといえば
羽澄達がいることと、
あと鯨が泳いでいることでしょうか。
そこで、俄に信じられなかったので
そうっと手を伸ばしてみました。
先程、麗香ちゃんがぶつかったとされる
壁を目指して。
ですが、羽澄にはやはり見えないことから
壁なんてないのではないか、
と思いました。
…しかし。
かつん。
と、音が鳴ったのです。
爪の伸びた指先は
見えない何かに触れています。
それから手のひら全体で
触れてみるのですが、
温度を感じることはなく
ただただクリアな壁があるようです。
羽澄「何ですか…これ。」
麗香「…知らない。」
羽澄「…先にはいけないみたいですね。」
麗香「進む。」
羽澄「…。」
麗香「行かなきゃ、長束先輩は」
羽澄「麗香ちゃん、聞いてください。」
麗香「………何、ですか。」
羽澄「一旦、この街全体を見てみませんか。」
麗香「全体?」
羽澄「そうです。今、視野が狭まっているのかもしれませんよ。」
麗香「…どういうことですか。」
羽澄「麗香ちゃんはずっと真っ直ぐにしか進んでないんです。探してるというなら色々な場所を見ていく方がいいと思いませんか。」
麗香「この先にいます。」
羽澄「…どうしてそんなに言い切れるんですか。」
麗香「だって、根府川駅に行けば本当に先輩に近づけた。私が思ったから来れた。」
羽澄「…。」
麗香「私がこの先にいるって思えば…先輩は、長束先輩は答えてくれるはずなんです。」
羽澄「……麗香ちゃ」
麗香「だから、その先に進む方法を調べます。1周回ってでも絶対。」
羽澄「…。」
闘志、とも取れるでしょう。
ぎらぎらと今にも噛み付いてきそうな視線で
羽澄のことを見つめるのです。
捕食者のようでした。
今、麗香ちゃんはとんでもなく
思考が偏っているのです。
きっと元はそんな人では
なかったはずなのです。
きっと。
…。
元よりそうだったのか否か、
羽澄は判別つきません。
わかるのは愛咲と、
家族を含めた他の周りの人です。
羽澄には分かりません。
けれど、愛咲が仲良くなった人なんです。
愛咲は普段あんなに
抜けた発言をするけれど、
軸がしっかりしていますし
真面目なんです。
だから、危ないだとか
変わりすぎている人との付き合いは
あまり持っていないはずです。
羽澄が見ている限りそうなんです。
だから、麗香ちゃんはきっと
元よりこんな視野の狭い人ではないと
信じる他ないのです。
愛咲を、麗香ちゃん自身を
苦手である信じるということを
しなければならないのです。
不意に、日が傾き始めている頃であろう
照度になってきているのを感じました。
どうして今まで気づかなかったのでしょう。
ゆっくりと慣れさせながら
変化することで
すぐに気づくことが
出来なかったのだと思います。
羽澄「…麗香ちゃん。一旦、あの塔の方に行ってみませんか。」
麗香「嫌です。」
羽澄「このまま暗くなる方が危険です。」
麗香「危険でも何でもいいから先輩を見つけるんです。」
羽澄「…。」
麗香「だから」
羽澄「…っ。」
届かない。
このままじゃ届かない。
そう、思ったのです。
羽澄も羽澄ですが、
麗香ちゃんも麗香ちゃんで
愛咲のことしか見えていないのです。
まるで恋しているように
愛咲のことだけを
見続けているのでした。
ふと気づけば、
勢いよく麗香ちゃんの
両腕を掴んでいました。
麗香「ぃた…っ。」
羽澄「愛咲を見つけたい気持ちはわかります。」
麗香「分かってない。」
羽澄「わかります。羽澄もそうだからです。」
麗香「嘘つき。」
羽澄「嘘じゃないです。見つけるためには、もっと広く見た方がいいと思うんです。」
麗香「先輩だって、長束先輩のことしか見てないじゃないですか!」
羽澄「…っ!…そう、かもしれないですけど、でも」
麗香「私たち、同じように先輩のことしか見てないのに、どうして意見が食い違うんですか?」
羽澄「…羽澄は、この訳の分からない壁の先には行けないと思ってます。」
麗香「穴があるかもしれない。」
羽澄「それは勿論、完全には否定できませんよ。」
麗香「だったら」
羽澄「麗香ちゃんがここに来れたのは、宝探しの時のヒントがあったからですよね。」
麗香「…?そう、ですけど。」
羽澄「そしたら、愛咲を見つけるのにもヒントがあるんじゃないでしょうか。」
麗香「ないかもしれないです。」
羽澄「否定はできませんね。」
麗香「なら」
羽澄「だからって、無闇矢鱈に動いていても体力を消費するだけです。」
麗香「体力なんてどうでもいい。」
羽澄「そんなことありません。」
麗香「見つけられればそれでいい。」
羽澄「もしこの先ご飯がなくて餓死してしまうとしたら。それでもそんなことが言えるんですか。」
麗香「言える。」
羽澄「…。」
麗香「私は…先輩がいない、つまんない人生捨ててやりたい。」
羽澄「…っ!」
麗香「でも、希望があるなら探してたいじゃないですか。」
羽澄「…。」
本当に、彼女は
愛咲のことが大切なのだなと
心から思いました。
そっと腕から手を離すと、
麗香ちゃんはその手を後ろに
隠してしまいました。
…。
…。
麗香ちゃんの手からは
確実に体温が伝っていたのです。
それは今でも羽澄の手に
じんわりと残っています。
麗香「あぁ、もう。…どうしてこんな思いをしなきゃいけないの。何で長束先輩が居なくなって、こんなに辛い思いをしなきゃいけないの。」
羽澄「そう思ってるのは麗香ちゃんだけじゃないです。」
麗香「…。」
羽澄「やっぱり、一旦上から眺めてみませんか?あの塔に登れたら、ですけど。」
麗香「どうしてそこまでいうんですか。」
羽澄「麗香ちゃんのことが心配だからです。」
麗香「嘘ばっかり。」
羽澄「そんなことはありません。確かに、羽澄も愛咲しか見えていないことが多いです。」
麗香「ほら。」
羽澄「でも、愛咲が大切にしたいって思った麗香ちゃんなんです。無視できません。」
麗香「…。」
羽澄「それに、本当に穴があるにしても、下にあるとは限りませんし、上の方に行けば魚も取れるかもしれませんよ。」
麗香「……そんなの、可能性の話ですよね。」
羽澄「全部そうですよ。」
麗香「……。」
羽澄「何かをみつかることができるかもしれません。」
麗香「…。」
羽澄「どうですか?」
麗香「そこまでいうなら。」
羽澄「本当ですか!」
麗香「ただし、ひとつ約束です。」
羽澄「何でしょうか。」
麗香「先輩を見つけるまで、逃げ出さないでくださいね。」
そう言う麗香ちゃんの目は
全く光を取り入れておらず、
脅しとも取れる言葉を吐いたのでした。
それは、愛咲を見つけたいが故のもの。
羽澄のことを測るもの。
麗香ちゃんは試したいだけなのでしょう。
羽澄なこの言葉に対して
返事をすることはしませんでした。
保険をかけたかっただけなのです。
逃げ道を確保しておきたかったのです。
まだ羽澄達は帰ることができると
信じていたかったのです。
今更、帰り道がないことに
視線を向ける気にはなれませんでした。
向けてもどうにもならず、
不安にしかなれないのです。
麗香ちゃんは愛咲を見つけるまで
ここにいると言ってるようなもの。
なら、目を向ける必要だって
きっとないのでしょう。
ただひとつ。
宝物はいくつもあって、
溺れる1番線はその
ひとつだったにすぎません。
愛咲がいるかもしれない場所は
他にだって多々あるのです。
期待しすぎるだけ損なのかもしれません。
期待はいつだって裏切られるんです。
いっそ、逃げ道は確保するだけでなく
実用も考えていかなければ
ならないのかもとすら
思ってしまうのでした。
非情ですよね。
それから、麗香ちゃんと
塔の方へ向かって歩き出しました。
高さがどのくらいあるのかまでは
目測ですらわからないのですが、
ここらの高層ビルなどよりも
はるかに抜き出ているのは見て取れます。
東京タワーのようなものでしょうか。
何かを象徴しているのだと思います。
無言ながらについていくと、
何時間経ったのかもう暗がりの中
塔の麓にたどり着くことが出来ました。
今日1日歩いたせいで
運動部である羽澄でさえ
足はぱんぱんになっています。
麗香ちゃんこそ表に全く出さないのですが、
大変疲労が溜まっていることでしょう。
羽澄は剣道をしているので
足の裏の皮が硬くなり
マメは出来づらくなっているのですが、
普通の人がこんなに歩けば
マメの1つや2つはできるもの。
麗香ちゃんも限界がきているのか、
麓に着いた途端
ぺたりと座り込んでしまいました。
それを見て、羽澄も今は
休んでいいのだと思い座り込みます。
床は相変わらず愛想のない顔をしており、
ひんやりと臀部を冷やしてくるのでした。
羽澄「…今日はこの辺りで休憩しませんか。」
麗香「…まだ…」
羽澄「足、痛いんじゃないんですか。」
麗香「…っ。」
羽澄「こんだけ歩いたんです。羽澄も痛くて。」
麗香「見つけるまで…」
羽澄「分かってます。見つけるまでここにいるんでしょう?」
麗香「……当たり前です。」
羽澄「なら、時間は十分にあるじゃないですか。」
麗香「…。」
羽澄「見つけるまで帰らないのであれば、焦る必要もないですよ。」
麗香「…。」
羽澄「あ、そうだ。いっそのこと、泳いでみませんか。」
麗香「嫌です。」
羽澄「そんなふうに言わなくても。泳いで上まで行けるようであれば塔の頂上にも」
麗香「絶対泳ぎません。」
羽澄「そう、ですか…。」
地につけた手を
ぎゅっと握りしめる姿は
なんとも痛々しく見えてしまって、
それ以降泳ごうだなんて
口にすることはありませんでした。
何か過去に引っかかることがあるのか、
ただただ泳ぐのが苦手で
今はそれどころではないほど疲れているのに、
と怒りを漏らしたか。
苛々する気持ちは羽澄にも分かります。
お腹は空いている、
訳の分からない場所で迷っている。
愛咲は見つからない。
出口も分からない。
安全に帰れるかも分からない。
そんな時こそ落ち着かなければと思うのです。
麗香ちゃんは疲れてしまったのか
ぺたりと座ったまま
動かなくなってしまいました。
動けなくなってしまったのです。
羽澄も座ったままに、
出来るだけ気楽に声をかけます。
羽澄「…麗香ちゃん、大丈夫ですか。」
麗香「…。」
羽澄「…どこか家の中にまで入る元気ってありますか?」
麗香「………ぃ…。」
羽澄「…。」
麗香「…………ない……。」
羽澄「…わかりました。」
麗香「…。」
羽澄「じゃあいっそのこと大の字になって寝ちゃいましょうよ。」
麗香「…。」
ぱたり。
羽澄は豪快に後ろへと倒れてみました。
すると、空は青々としていたのです。
空と言えるのかは不明瞭ですが、
まるで、まるでいつだか見た
景色に似ています。
°°°°°
見渡す限りの青空。
そう。
世界の多くは青色で作られています。
神様が青色が好きだったのか、
それとも地球が青を愛していたのか。
1面の青空。
そこに寝転がるのです。
羽澄「…。」
大の字で空に寝転がるのは
とても気持ちのいいことでした。
ぐっと背を伸ばすと
そのまま飛べてしまうのでは
ないかと思うほど。
羽澄はゆっくりと目を閉じました。
溶けていけそうな気がしたのです。
これまでの心の中に沈む澱を
全て洗い流せるような気がしたのです。
あの時の後悔を、
あの場所での後悔を…。
振り返ると振り返るほど
雪崩れてくる後悔を
全てなかったことにできる。
そう思ったのです。
目を閉じたままに手を伸ばしました。
寝転がったまま垂直に、
空に寝転がっているのにも関わらず
空へと届くように願って
手を伸ばしたのです。
変な話です。
今あるものに目が向かず、
ないものばかり強請るのでした。
すると、不意に頬にぽつりと
何かが降ってきました。
それはじんわりと溶けては
感覚がなくなっていきます。
°°°°°
気づけば、その時と同じように
手を伸ばしているのでした。
不意に指の隙間を通る魚。
小さすぎてすいすいと身を動かし、
仲間であろう軍団の元へと
戻っていきました。
羽澄「綺麗ですよ、空。」
麗香「…。」
羽澄「下ばかり向いてちゃ見えないことも沢山あると思うんです。」
麗香「…。」
羽澄「…そういえば、ここの魚って食べられるんですかね。」
麗香「…さぁ。」
羽澄「美味しそうじゃないですか?」
麗香「魚好きじゃない。」
羽澄「そうでしたか。そしたら美味しそうとは思いにくいですよね。」
麗香「…。」
彼女はやはり何かを言うことなく
座って下を向き続けていました。
どうにも、上を向く癖が
ついていないようにも思えたんです。
上を向くきっかけは
いつだって愛咲だったのだと
ここからも感じ取れてしまうのでした。
だからといって
羽澄が代わりになるのも違うし、
代わりになろうだなんて思いません。
今、羽澄に出来ることは何かと考えていると、
どうにも変なことばかり浮かんでしまいます。
羽澄「ねぇ、麗香ちゃん。」
麗香「…。」
羽澄「羽澄の昔話でも聞いてくれませんか。」
麗香「…なんで急に。」
羽澄「うーん…体力が戻るまでの暇つぶしです。」
麗香「面白いですか。」
羽澄「聞いてて気持ちのいい話ではありませんよ。」
麗香「…。」
羽澄「それでもいいのであれば、暇つぶしにと思って。」
麗香「…勝手にしてください。」
羽澄「はい。じゃあ勝手に話しますね。」
麗香「…。」
羽澄は、愛咲にさえも
自分のことを話すことは
殆どありませんでした。
なのに、麗香ちゃんには
話してもいいやと思ったのは
気を許しているからでしょうか。
…。
…。
…いいえ、違いますね。
似ている境遇だと
勝手ながらに感じたからでした。
°°°°°
羽澄の記憶は、
狭い部屋から始まります。
狭い部屋の中で長い長い時間
放置されるのです。
何がいけなかったのか
まるで覚えていませんが、
叩かれたり蹴られたり
していた覚えがあります。
ただ、その記憶はほんの欠片だけしか
残っていません。
羽澄の大変小さい時のことだからです。
なので、今になって叩かれても
トラウマ的に怯えることもないのでした。
地続きになり出した頃、主な記憶は
とある児童養護施設から始まります。
物心ついた時から親の代わりに
施設の職員さんがいました。
そして、様々な年齢の子供と
一緒に暮らすのです。
時には喧嘩をして、
時にはあそび大はしゃぎして、
そして時にはしっかり勉強する。
住んでいるところ以外は
普通の小学生だったのです。
暑い夏、寒すぎる冬。
2月には雪がたんまりと
積もっていたのを覚えています。
確か、北の方に位置する
施設だったのではないかと思います。
四季の中で、幼い羽澄は
職員さんの言うことを
ちゃんと聞いてやることはやる
ただの優等生っぽい子供でした。
羽澄がその前の施設に入って数年の間に
多くの子が出入りしていきました。
職員さんも移り変わっていきました。
男性の職員さんも時に入ってきて、
その度に子供達はお兄ちゃんだと
喜んで飛びつくのですが、
やはり厳しい仕事のようで
数年でいなくなっていきます。
そしてある年のこと。
羽澄は小学生1年生くらいだったと思います。
物心も程々にある頃です。
「…。」
髪の短い女の子が
施設に入ってきました。
とても幼く、羽澄よりも
幾分も小さな女の子。
羽澄は何故か1番に仲良くなりたいと
直感的にそう思ったのです。
その子は羽澄よりも3つほど
年が離れていたと思います。
そして身長が小さかったこともあり、
まるで割れ物のように感じたのです。
羽澄「よろしくね。」
「…。」
そう言って手を差し出す。
けれどその子は手をとってくれることは
ありませんでした。
何か返事をすることも
ありませんでした。
まだ喋れないような年齢では
ないはずです。
ただただ、羽澄のことを
じっと見つめてくるだけ。
羽澄は気味悪くなって手を戻し、
それ以降はその子を
邪険に扱うようになりました。
子供特有の無知ながらの罪です。
職員さんからは怒られました。
「羽澄ちゃんはいい子だから
仲良くすることもできるよね?」と。
しかし、小年生であるにも関わらず
その子供扱いに納得が出来なくて、
結局は無視していたのです。
今思えば、あの時の羽澄は
職員さんを悩ませる
種のひとつだったと思います。
小学生になったくらいで
大人になったと思い込んでるだなんて
滑稽だなと今では思います。
とある事件が起きるまでは
羽澄はその子と仲良くなれないままでした。
ある日のこと。
羽澄は5年生になった頃だったと思います。
羽澄は消灯時間後に
どうしても何か食べたくなってしまい
こっそりと部屋を出たのです。
すると、何やら音が
聞こえてくるではありませんか。
子供ながらの好奇心。
そして、もしかしたら他の子も
この時間にお菓子あたり
貪り食べているのかもしれない。
狡い。
そう思ったんでしょう。ま
何故か職員さんで
あるかもしれないだなんてことは
一切浮かばないままに、
その音の方へと進むのです。
それは、明らかにキッチンのある方向から
していたのを覚えています。
真っ暗な廊下の中、
一筋、光が差しているのです。
ここだ。やっぱり。
そう考えた羽澄自身のことを
愚かしく思います。
…いや、寧ろそれで
よかったのかもしれません。
「なんとか言えよ。」
「…。」
「ずっと黙って人形さんみたいだよな。」
「…。」
「みんな君の事嫌ってるじゃん?なら何したって誰も心配しないよな。」
ちらと聞こえたのは、
男性の職員さんの声でした。
最近入ったばかりだったその人は
どうやら誰かに対して
話しかけているようです。
話しかけているだなんて
優しいものではありませんでした。
精神的に追い詰めるような言葉を
ひたすらに羅列していたのを覚えています。
そして、時折打撲音のような
鈍い音と短く小さい呻き声が上がるのです。
羽澄は、この職員はいけない人だ。
大人は信用できない…
…そう、思ったんです。
大人はみんな責任を負うのが嫌いで、
仕事がきつくなったら
羽澄達の生活なんてそっちのけで
自分達が楽になる方を選ぶ。
羽澄達は、羽澄は
誰にも愛情をもらうことは出来ませんでした。
大人から、たった数人の
家族と言う存在から。
苦しみとも形容できる世の中から
安全に匿ってもらうために
この施設に移ったというのに、
ここでと酷い仕打ちを受けるのは違う。
そう思った羽澄は
せめて誰がこの仕打ちを受けているのかを
確認したのです。
すると。
「…。」
羽澄「…!」
すると、羽澄が邪険に扱っていた
あの子だったのです。
確かに、その子はこの施設に来てから
数年は経ていたのですが、
話しかけても返事がなかったり
頷くだけだったりしました。
高校生の人はその子に対して
何度か話しかけて
可愛がっている様子も
時折みて取れたのですが、
その子から心を開いている様子は
まるでありませんでした。
高校生の人も、年齢的な責任故に
話しかけているようにも
見えたのを覚えています。
親しい人、固有のグループというのは
なかったのでしょう。
だから、職員さんのいうことは
妙に分かるのです。
ですが、だからといって
許される行為ではない。
羽澄はその場をそっと離れました。
そしてその夜。
同じ部屋の人を起こさないように
ランドセルではない鞄に
物を詰め始めました。
リュックの中には、交換し合った手紙や
好きな学校の先生のお便りなど
軽いものだけを詰めました。
そして翌日。
誰よりも早起きをして着替えてから
例のキッチンに行くと、
誰もいなかったのです。
職員さんも誰1人として
起きていないようでした。
そこで、水筒を2本手に取り、
適当なくらいまで水道水を注ぎます。
リュックに入れ、
そしてお菓子の戸棚から
クッキーを数枚拝借。
タオルもあった方が
よかったのでしょうけれど、
そこまでは気が回りませんでした。
リュックを出来るだけ鳴らさぬよう、
誰も起こすことのないよう
廊下を歩いていき、
その子がいるはずの部屋まで行きました。
ノックをすることなく
扉を開いてみると。
羽澄「…!」
「…。」
その子は眠っていないのか
早く起きてしまったのか、
パジャマ姿のまま布団の上で
座っていたのです。
相変わらず何を考えているのだから
読み取れないとは思ったのですが、
何かしら気に病んでいるのは
その姿から伝わりました。
本来であれば朝起きても
部屋にいるのが決まりが故、
ここにくることなんてないはずの羽澄。
その子は目を見開いていたのを覚えています。
人形みたいにくりくりな瞳で
羽澄のことを見つめるのです。
その部屋の他の子達は眠っていて、
枕に足が飛んでいる
寝相の素敵な子もいましたっけ。
「…規則破り…。」
羽澄「着替えて。」
「え…?」
羽澄「着替えて、それからリュックを持って!」
小さい声ながらに指示を飛ばします。
するとその子はどぎまぎしながらも
羽澄の言った通りにしたのです。
普段、どれだけ何かを言っても
大概無視していたあの子が、です。
それから2人で施設を飛び出したのです。
いい子だったはずの羽澄は、
いつからか悪い子になっていました。
その子を連れて2人で
その施設を逃げ出しました。
寒い寒い冬の日で、
雪が堆く積もっていたのを
覚えています。
「本当に良かったのかな。」
1番初めに乗る電車を待っている時、
珍しいことに人間らしい感情を持って
そう呟いたのです。
羽澄「いいの。だってあの職員さん最低じゃん。」
「…え、知ってるの?」
羽澄「うん。私、みてたもん。」
「…そうなんだ。」
羽澄「やっぱり大人って最低。」
「でも、いい人もいたよ。」
羽澄「でも、悪い人がいたよ。」
「そうだけど…。」
羽澄「旅行だよ、旅行。」
「旅行?」
羽澄「そう。遠くに行こう。」
「どこ行くの?」
羽澄「私、東京行きたい。人がたくさんいて、こんなど田舎じゃなくて、光がぴかぴかして綺麗なの。」
「ここもいいところだよ。」
羽澄「それよりもっといいところなの。」
「詳しいんだね。」
羽澄「テレビでやってたよ。」
「見てないからわからない。」
羽澄「あーあ、もったいない。」
そんな会話をしていたと思います。
旅行がと言い聞かせて、
なけなしのお金を持って
電車に乗ったのでした。
そこは無人駅だったのか
人が1人すらいなかったのです。
早朝だったということもあるでしょう。
それから、2人きりの旅が始まったのです。
一緒に長時間かけ施設を離れ、
人の多いところへと向かいました。
初め、降りる駅から
お金が足りなかったのですが、
無人だったのをいいことに
通り抜けをして。
それから度々都会の駅があり
乗り換えていくのですが、
その時は人の多さに紛れて
改札を潜るのです。
立派な犯罪ですよ。
その後、施設の人が
お金を払ってくれたとは聞きましたが。
こんなことが青春に思えてしまうのは
何故なのでしょうか。
駅から降りて乗り換える度、
近くにいた駅員ではない大人に
東京へはどうやったら
行けるのかと尋ねました。
多くの人はスマホを持ち歩いていたので
すぐさま調べてくれる人もいましたっけ。
知識のある人はぱっと
何とか線を指差して
あっちだと言ってくれることもありました。
そして、東京に着くまでは
田舎と都会を繰り返すのです。
田舎は、羽澄達が
住んでいた場所だけではないと
初めて知ったのでした。
世界は広いと思った瞬間です。
その子とは多くの話をしました。
これまでために貯めていた話を
そこが尽きるまでしたのです。
過去の話から学校の話、
将又施設に来た理由だとか。
その子に関しては
来た理由も何らわかっていないそうでした。
その話題のひとつが名前の話だったのです。
羽澄「羽澄って名前、嫌い。」
「何で?」
羽澄「だって、誰がつけたかもわからない名前だもん。」
「…そっかぁ。」
羽澄「だから嫌い。」
「なら、その名前が好きになる魔法をかければいいんだよ。」
羽澄「魔法?」
「うん。私が羽澄って名前で呼ぶ。」
羽澄「そんな魔法効かないよ。」
「うーん…そしたら、自分でも呼んでみたら?」
羽澄「自分で?」
「そう。羽澄って、言うの。」
羽澄「…羽澄。」
「好きになれそう?」
羽澄「全く。」
「そっかぁ。」
羽澄「私がやるんだったらーーーもやってよ。」
「え?私も?」
羽澄「うん。そしたらその魔法信じてあげる。」
それから羽澄は
自分のことを羽澄と言うようになったのです。
自分の名前を好きになれるかもしれない。
そう、可能性を信じて。
名前を呼び合って、
さらにいろいろな話をしたのです。
いつの間にか打ち解けていて、
午後も終わりへと
向かう頃には仲良くなっていました。
話が尽きなかったのです。
都会に近づき人は多くなっていましたが、
偶々田舎を通ったのでしょう、
羽澄達のいる車両には
誰1人いませんでした。
「羽澄。」
羽澄「ん、なあに?」
「歌、歌ってほしい。」
羽澄「歌…?」
「うん。」
羽澄「何で?」
「だって…羽澄のクラスの合唱コンクール、すごかったから。」
羽澄「そんなふうに思ってくれてたの?」
「うん。」
羽澄「えっへへ…。」
「聞きたーい。」
羽澄「もー、仕方ないなぁ。」
そうして歌ったのです。
何の歌だったかまでは覚えていませんが、
合唱コンクールの曲だ、
と言うことのみ覚えています。
そして、ついに。
「…!」
羽澄「わぁっ!」
都会についたのです。
東京に、ついたのでした。
どの駅かまでは記憶していないのですが、
人は明らかに多く
手を繋いでいないと
もみくちゃにされるほどでした。
その後の手を握ったのを覚えています。
羽澄よりもふにふにで小さかったんです。
ずっと移動していたために
お手洗いに行きたくて、
その子に待っててもらい
羽澄は1人お手洗いに向かいました。
旅の疲れもあって
うつらうつらと
しかけていたような気がします。
ですが気を引き締めようと
頬をぱちんと鳴らして。
そして戻ってきた時、
その子はもう居ませんでした。
離れ離れになったのです。
羽澄のことが嫌いだったのかもしれない。
恨んでいたのかもしれない。
そう思われていたって仕方がない。
その子からすれば生活を全て
奪われたのですから。
だから、いなくなって当然かもしれません。
けれど、当時の羽澄には
そんなことは当たり前ながら浮かばず、
誰かに攫われてしまったのだとばかり
考えていました。
現に、そうかもしれません。
その後の行方は知ることもなく
今に至っていました。
今じゃ連絡も取れません。
生きているかすら知りません。
あのちかちかとした夜、
1人で突っ立っている時の
あの風の冷たさだけは
今でもずっと覚えていました。
そしてその後、羽澄は警察に
取り押さえられました。
ですが、羽澄は駄々をこね
戻りたくない、後もう1人いるだの
やんややんや騒ぎましたが、
警察はまともに取り合ってくれなさそうでした。
冷たい印象を受けたのです。
ああ、やっぱり大人は…と思いました。
ですが、あろうことか
羽澄が戻りたくないと言ったが故か、
羽澄は神奈川県の児童養護施設へと
移り住むことになりました。
もしかしたら、職員さんの間では
羽澄は厄介だと
思われていたのかもしれませんね。
いなくなって清々したなんて人も
いたのかもしれません。
そして羽澄は今いる施設に
入ったのでした。
それから数年の間、
新しい学校、新しい環境に触れながら
様々なことが起こりました。
世間的に見れば
きっと一般的なことでしょうけれど。
羽澄からしたら大きな変化です。
その中で、貯められているプールの水に
勝手に入ってヤゴを見つけようとしたり、
遊ぶ時に裸足になって走ったりなど、
羽澄の思う田舎暮らし特有の
遊びをしていたら
変だと言われたのです。
「羽澄ちゃん、他の人と違うことばっかりする。」
「変。」
「おかしいよ。」
都会は肌に合わないなと
肩身の狭い思いをしたのですが、
後にそれが若干ながら苦痛になり、
一時期は優等生になろうとしました。
何が変なのだろう。
何がずれているんだろう。
それを自分の中で分析して
ひとつひとつ埋めていったのです。
みんなと同じであるために。
それが中学の間ずっと続き、
羽澄はつまらない毎日を送っていたのです。
そして高校生。
初日から衝撃的なことがありました。
そう。
愛咲と出会ったのでした。
それは帰宅前の靴箱でのこと。
顔を覗かれて何かと思えば、
まだ髪の短い癖っ毛が見えたのです。
愛咲「ん?ああ、同じクラスの!」
羽澄「へ?」
愛咲「えっと、えーっと…名前なんだっけ?」
羽澄「まずあなたは誰なんですか?」
愛咲「はっ…先に名乗れってやつだな!うち、長束愛咲。よろしくな!」
羽澄「長束さんですね。」
愛咲「ちょちょちょ、愛咲って呼んでくれよぅ。」
羽澄「はぁ…なら…愛咲…。」
愛咲「うんうん、それでいよぉーし。んでんで、こちらのお名前は?」
羽澄「羽澄は関場羽澄です。」
愛咲「そーだ、羽澄だ!綺麗な名前だなーって思ってたんだよ。」
きらきらの瞳でそういい、
健気ににこって笑ったのです。
その頃は都会の普通とやらに
染まろうと頑張った後の羽澄だったので、
不思議な人もいるものだと
感じたのでした。
関わることはそんなにないだろう。
そうとさえ思っていたのです。
しかし翌日。
愛咲「はぁーずみぃー!」
羽澄「わわっ!」
愛咲「えっへへ、びっくりしたかー?」
羽澄「そりゃあ急に抱きつかれたら誰だってびっくりしますよ!」
愛咲「はっはっは、愛咲さんは敵なしなのだー!」
羽澄「そういう意味ではありませんが…。」
愛咲「んだよんだよぅ、うちだと力劣らずか?」
羽澄「えっと…」
愛咲「そんなたじたじされちゃあ、うちももじもじしちまうってー。」
羽澄「愛咲!」
愛咲「うわっ!急に大声出してなんだよぅ。」
羽澄「愛咲と同じことをしただけですよ。」
愛咲「はっ…!うちもまだまだってことだな…やるな、羽澄!」
羽澄「別に張られても嬉しくないのは何ででしょうか…。」
愛咲「うちら…ライバルにも満たねぇのかよ…っ。」
羽澄「はぁ。」
愛咲「ちょ、急に冷めないでくれよーぅ。」
羽澄「と、言われましても。」
愛咲「あ、でもでもだっけーど!」
羽澄「今度は何ですか。」
愛咲「愛咲って呼んでくれたのはすんげー嬉しかったぜい!」
羽澄「…なら、よかったです。」
愛咲は羽澄の態度を
全くと言っていいほど気にすることなく
くっついてきて笑ってくれました。
それからはなんだかんだで
毎日のように話すようになり、
いつの間にか仲良しと
呼ばれるものになっていました。
中学では固有の仲の良い人というのは
いなかったも同然なので、
そのような仲の人が出来て
嬉しく思ったのを覚えています。
楽しくなってしまって、
昔の羽澄が出てきたようでした。
愛咲を見ていると
迷惑にならないくらいの
無駄なことばかりしているもので、
そのおかしさに羽澄は
惹かれていったのでした。
それから、羽澄も昔は
あのようなことをしていたっけと
思い返すようになったのです。
羽澄の場合、
迷惑のかかることだったんですけれど。
けど、今後は迷惑のかからない程度に
羽澄の好きなように
変なことをしようと思ったのです。
それで思いついたのが
教卓を意味もなく折り紙のハートで
敷き詰めるというものでした。
早朝に1人で学校に入りセッティング。
それからみんなが登校してくるまで
高校のトイレで本でも読んで待つのです。
暫くして教室に行けば、
数人教卓を囲んでいるのです。
その騒めきはクラスでは留まらず
学年や先生の間でも
話題になったと言います。
愛咲もはしゃいでいましたっけ。
それから定期的に黒板や教卓、
時にはクラスメイトの机にまで
何かを仕掛けました。
そのどれもが片づけやすいこと、
そして不快にならないものと
予めルールを作った上で
実行していたのです。
ある程度好きなことができる。
また楽しさを思い出させてくれたのは
愛咲だったのです。
愛咲の、蝉の抜け殻を集めて
どれだけ服にくっつけられるかだとか、
1Lの水一気飲みは
どっちが早くできるかだとか、
口笛を長く吹けるかだとか、
どうでも良さそうな
ギネスを超えることはできるのかだとか。
につ
時に2人で、時にみんなで燥ぐ。
それがとても楽しかったんです。
羽澄の日々は愛咲が変えてくれたんです。
施設育ちだとか関係なく、
今が楽しいと言えるのは…
…言えたのは、愛咲のおかげでした。
°°°°°
羽澄「って…長々とつまらないですよね。」
ふと気がつけば真っ暗もいいところ。
何かが光源になっているのか
仄かに足元にゆらめきが見えます。
麗香ちゃんはいつしか
体操座りをしていました。
羽澄はというと変わらず
大の字で寝転がっているのでした。
麗香「…つまらなくはなかった。」
羽澄「ほんとですか?」
麗香「はい。」
羽澄「ならよかったです。」
麗香「…。」
羽澄「だから、羽澄も愛咲を探したい気持ちは十二分にあるんですよ。」
麗香「……見つかるといいですね。」
羽澄「急に他人事ですか?」
麗香「長束先輩のことじゃなくて、逸れた友達の方です。」
羽澄「あぁ…。」
麗香「…。」
羽澄「そうですね。いつかその子も見つけます。ですが、先に愛咲です。」
麗香「…分かってる。」
ぐっと、また力が入っているのを
見逃すことはできませんでした。
大の字になったままに
久しくしっかりと空を見上げる。
すると、大きな影が
近づいてくるのが見えました。
見えてはいるのですが、
それごと頭から抜け落ちるのです。
どうでもいいやと
リソースを割かなかったからでしょう。
麗香「先輩って、1年生の頃から変わらないんですね。」
羽澄「何にも変わらないです。」
麗香「なんか、予想通りって感じ。」
羽澄「変わりようがないんだと思います。」
麗香「ははっ……そうかもしれないですね。」
羽澄「麗香ちゃんは愛咲とどうやって出会ったんですか?差し支えなかったら聞いてみたいです。」
麗香「あぁ…私は」
すう、と息を吸って
麗香ちゃんが話し始めようとした時でした。
ぐご、おおお。
唐突にそんな音がしたのです。
地響きがする中、
何が起こったのかととりあえず上体を
起こしはするのですが、
揺れが酷く立ち上がることが出来ません。
しゃがみ込むように膝を突き、
揺れに耐える。
その中で縮こまらずきょろきょろとする
麗香ちゃんの姿が見えました。
それから怖かったのか
伏せて頭を手で守っていました。
ぐおお。
鳴き声のようなものも聞こえます。
刹那。
影が羽澄達のことを覆ったのです。
何かと思い、勢いよく上を見上げれば
鯨が通っていました。
ですが、初めてみた時よりも高度がなく、
腹のしましまがより大きく見えました。
その鯨が、塔へと突っ込んでしまい
激突しているようで。
その破片があろうことが
羽澄達を目掛けて
降ってくるではありませんか。
どうしよう。
どうすれば。
頭はこれまでにないほど急速に回り、
意図せずたんと地を蹴り出していました。
このままでは羽澄も麗香ちゃんも
命の危険がある。
そう、咄嗟に思ったのでしょう。
大切な人を守る。
それが羽澄の決めたことでした。
大切な人は、
はぐれてしまったその子と愛咲。
その2人だけ。
そう思っていました。
だから、麗香ちゃんは大切な人の大切な人。
ですが、他人。
所詮、どうでもいい分類に入る
赤の他人のはずでした。
それなら何故、
こうも必死になって
麗香ちゃんのことを抱えているのでしょうか。
それはきっと。
…きっと。
麗香ちゃんも大切な人だと
思ったのでしょう。
影が迫るのを感じ
麗香ちゃんを投げ捨てて数秒。
ぱ、っと。
何故でしょうか。
羽澄の視界は
真っ暗になったのでした。
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