海の産声

長いようで短い1週間。

今週の平日はもうおしまいのようです。

午前は雲がかかっていたにも関わらず

今では雲なんてめっきり見えなくなりました。

からからな日差しが降り注ぎ、

さらさらな風が肌を撫でます。

通学中も授業時間中も

雲の動きを目で追っていましたが、

眺めているうちに他のことを考えてしまい

気づけば追っていた

雲が居なくなっているのです。

そんなことを繰り返して数十回。

漸く放課後が訪れたのでした。


今日は、待ちに待った

愛咲を探しに行く日でした。

とはいえ、全ては麗香ちゃんに

任せているために、

そもそも愛咲は見つかるのかという

疑問は勿論のこと、

目的地すら知らぬまま。

麗香ちゃんは一体どこに

行こうとしているのでしょうか。

ひとつ安心したのは、

愛咲のところに行くというのは

自殺する的な意味では

なかったということです。

ほっと胸を撫で下ろした時、

じんわりと血が循環していくことが

羽澄自身分かったのです。


羽澄の財布の中には、

ここ数年で貯めていたお金が入っています。

先日麗香ちゃんに、

1万円くらい持って学校に来てと、

電車で移動するからと言われたのです。

普段こんな大金を持って

出歩くことがないため、

ずっとそわそわしたままに

放課後まで過ごしました。

今日は延々と晴れ空が続き、

炎炎と陽は照り続けました。

梅雨が終わり真夏が来るのも

そう遠くはないことでしょう。

蒸し暑いのも苦い気持ちがしますが、

からからと干からびるような

天候になるのもうんざりです。

気温の上昇や下降を実感するにあたり、

きっと多くの人が日本は合わないだなんて

口にするのです。

そうして、日本に住み着いて

不満のあるものや

上昇志向のあるものは

海外へと足を伸ばす。

それ以外は、勇気がないのか、

将又日本が好きなのか、

そもそも必要性がないのか。


羽澄「…何考えてるんでしたっけ。」


靴箱で麗香ちゃんを待つにあたり、

時間を贅沢に使いすることといえば

意味もなく悩むことでした。

思えば、愛咲との出会いはどんなだったか、

麗香ちゃんとはどうだったかと

過去を巡るものになるにつれ、

やはり思い出せないものは多くなります。

靴箱を眺めていると

何故だか夏だなと思います。

特に田舎びているとか

そういうわけではないのですが、

斜光の差し込む様を見ていると

どうにも夏が過るのです。





°°°°°





愛咲「ん?ああ、同じクラスの!」


羽澄「へ?」


愛咲「えっと、えーっと…名前なんだっけ?」


羽澄「まずあなたは誰なんですか?」


愛咲「はっ…先に名乗れってやつだな!うち、長束愛咲。よろしくな!」


羽澄「長束さんですね。」


愛咲「ちょちょちょ、愛咲って呼んでくれよぅ。」


羽澄「はぁ…なら…愛咲…。」


愛咲「うんうん、それでいよぉーし。んでんで、こちらのお名前は?」


羽澄「羽澄は関場羽澄です。」


愛咲「そーだ、羽澄だ!綺麗な名前だなーって思ってたんだよ。」





°°°°°





羽澄「羽澄って名前、嫌い。」


「何で?」


羽澄「だって、誰がつけたかもわからない名前だもん。」


「…そっかぁ。」


羽澄「だから嫌い。」


「なら、その名前が好きになる魔法をかければいいんだよ。」


羽澄「魔法?」


「うん。私が羽澄って名前で呼ぶ。」


羽澄「そんな魔法効かないよ。」


「うーん…そしたら、自分でも呼んでみたら?」


羽澄「自分で?」


「そう。羽澄って、言うの。」


羽澄「…羽澄。」


「好きになれそう?」


羽澄「全く。」


「そっかぁ。」


羽澄「私がやるんだったらーーーもやってよ。」


「え?私も?」


羽澄「うん。そしたらその魔法信じてあげる。」





°°°°°





麗香「先輩。」


羽澄「…!」


はっとすると、目の前には

俯いたままの麗香ちゃんの姿。

足元だけでなく

姿全体が陰って見えます。

それはきっと羽澄と同じでしょう。


麗香「待たせてしまってごめんなさい。」


羽澄「全然いいんですよ!じゃあ行きましょうか。」


麗香「はい。」


麗香ちゃんの声には

全く感情が乗っておらず、

無関心ともとれますが

ひとつ覚悟を決めているようにもとれます。

正解なんて分からないまま

彼女の背を追って学校を後にします。

1歩踏み出してみれば

傾きかけ眠りにつきたがっている

太陽がそこにありました。

羽澄は手で目元を覆うように隠して

日差しを防ごうとするのですが、

隙間から漏れ出てしまって

結局目を細めるだけ。

次第に明順応していき、

普通に目を開けれるようになるのです。


麗香ちゃんの隣を歩こうとしましたが、

オーラやら雰囲気やら

見えない何かに気圧されてしまい、

結局背中を見て

歩くことしかできませんでした。

側から見れば蟻のように歩く2人なので

変に見えることでしょう。

小学生あたりまで変である自覚は

時折あったのですが、

明確に実感したのは中学生の時でした。

それから今日まで

気にしすぎる時もありましたが

出来る限り周りの声は

聞かないようにして生きています。

聞き入れてしまったが最後、

羽澄が羽澄でなくなる気がしたのです。

羽澄でなくなってしまったら、

この魔法は解けてしまう。

変だと言われ続けることがひとつ

羽澄を羽澄たらしめていると信じて。


ですが、この何とも言えない奇妙さに対して

変だと言われてしまうと、

今の羽澄では聞きいた上に心の中で

言い返せそうにありません。

やはり、麗香ちゃんに対して

負い目を感じている部分が大きいのです。

麗香ちゃんの大切な人を、

羽澄の大切な人を守れなかった。

守ると、大切な人を

守れるようになると心に誓った

都会の夜を忘れてしまったのかと

自分を奮い立たせます。

…。

奮い立たせるだけ、

体力の無駄…でしょうか。

そんなことはないと信じたい。

ですが、それは…。

その葛藤の繰り返しです。

羽澄が心の中でそんなことをしていると

知る由もないまま

麗香ちゃんは振り返ることなく

歩き続けるのでした。


羽澄「…。」


麗香「…。」


羽澄「麗香ちゃん。」


麗香「…。」


羽澄「目的地までどのくらいかかりますか?もし長そうなら少しつまめるものとか買っていきませんか?」


麗香「…。」


羽澄「…麗香ちゃん…。」


麗香「…。」


麗香ちゃんの耳には届いていないのでしょう。

振り返ることなく、また、

歩幅を縮めることもなく

只管に歩き続けるのでした。

その姿は、まるで何かに

取り憑かれてしまった人のような。

…行き先を忘れて彷徨う亡霊のような。

空っぽなような。

羽澄が手を伸ばしても

既に届かない所にいるのではないかと

勘違いしてしまうほどには

心的距離は離れているでしょう。


麗香ちゃんについていくと、

4月当初に麗香ちゃん、

愛咲、花奏ちゃん、羽澄の

4人で宝探しに赴いた

コンビニがありました。


学校から歩いて数分。

通学路ではないものの

最寄駅の方向へと歩けば見えてくる

このコンビニ。

生徒の姿は全く見当たらず、

地域の住民が数人いるくらいでした。

閑静な住宅街とは

まさにこのことでしょう。


不意に止まった麗香ちゃんの背中。

羽澄はそれに釣られるように止まり、

ただコンビニを眺めていました。

私服の女性が1人

コンビニへと入っていきます。


麗香ちゃんは愛咲の傍に立っていたのは

随分と記憶に確と残っています。

何故でしょう。

麗香ちゃんは愛咲に対して

冷たい対応をする割には

べったりとしているなと言う

印象でも抱いたのだと思います。

あれだけ突き放すような言動を

繰り返していたのですから、

愛咲のことは苦手か嫌いだと思っていました。

けれど、実際には違ったのです。

信頼からするものだったのです。

それに気づけなかった羽澄は

まだまだ人を信頼すると言うことを

学べていないのでしょう。


このコンビニの隣には

建設中の建物があり、

車1台しか通れないような

細い道を挟んだ向こうに駐車場があります。

当時は確か更地だった場所には

現在建物が建とうとしています。

誰かの家になるのでしょうか。





°°°°°





愛咲「ほうら、邪魔になるから寄った寄った。」


麗香「そういうところはちゃんとしてるの意外。」


愛咲「まあな。だぁーからみくびってもらっちゃ困るっての!」


花奏「ありがとな愛咲さん。」


愛咲「まっかせろーうぃ!」


羽澄「よし、探しますよ!」


愛咲「そうだな!マップ的にはコンビニの中そうか?」


羽澄「それが全体的に光ってる感じで特定までは難しいですよ。」


愛咲「おおお、流石にチュートリアルよりちょびーっとむずくなってるっぽいな。」


花奏「店員さんや通行人とかには迷惑かけんように探さなな。」


羽澄「そうですね。」





°°°°°




あの時の会話が不覚にも

ぷかりと浮かび上がってきました。

その事実に驚きながらも噛み締めていると

ふと麗香ちゃんがこちらを向いたのです。

あまりに突然のことにぎょっとして

言葉を失ってしまうも、

じっと待っていると麗香ちゃんが

口を開いたのです。


麗香「何か買っていきますか?」


羽澄「へ…。」


麗香「1時間から2時間くらいかかりますよ。」


羽澄「あ…ありがとうございます。…でも、お金に余裕がなくなってしまうかもしれないので我慢しますよ。」


麗香「往復だと結構かかりますけど。」


羽澄「大丈夫ですよ。羽澄が案じてたのは麗香ちゃんがお腹空かないかなってことだったので。麗香ちゃんさえよければ電車に乗りませんか?」


麗香「…はい。」


すると、またもや羽澄の声が

届きづらい体勢になり、

そのまま突き進んでいくのです。


麗香ちゃんは無視しているわけでは

ないらしいと言うことは分かりました。

羽澄の話を耳にして、

元々通る予定だった道から外れたのか

予定通りの道に偶々コンビニが

あっただけなのかまでは分かりませんが、

麗香ちゃんの優しさがあっての

行動だったことは伝わります。

きっと麗香ちゃんも

愛咲がいない期間が長かったあまりに

辛さに押しつぶされかけてるんです。

その結果、声を出す気にさえならない場面が

あるのだと思います。

口から漏れるだけの息、

音の乗らない声。

羽澄にも経験はあります。

麗香ちゃんのその気持ちを

分かった気でいてあげられると思ったのです。

過信に過ぎませんが、

それでもなにもりかいしないよりは

絶対にいいと判断していたのでした。


駅のホームには多くの学生と

その他一般の方々がいました。

これからどこか出かけるであろう

髪を綺麗に巻いている人、

スポーツして帰るのであろう

ジャージ姿の人、

早帰りなのだろうスーツを着た人。

様々かつ羽澄とは関わりのない

赤の他人がそこにはいました。

麗香ちゃんも元はそうだったのです。

半年くらい前でしたっけ。

あの日、愛咲の紹介伝てで出会うまでは

羽澄達も赤の他人でした。

今でも他人ではあるのですが、

全く関わりがないわけではありません。

時間は羽澄達の繋がりを

脆く、けれど強固にしたのです。


ぶぉぉーー…。


そんな音が遠くから聞こえてきます。

旅の始まりなら

どれほどワクワクしたことでしょう。

不意に、数年前の…

もしかしたら十数年前の出来事が過ぎります。





°°°°°





いい子だったはずの羽澄は、

いつからか悪い子になっていたんです。

その子を連れて2人で

その施設を逃げ出しました。


一緒に長時間かけ施設を離れ、

人の多いところへと向かいました。

人の多いところ。

そこについた時、世界は広かったのだと

とても感動したのを覚えています。

ずっと移動していたために

お手洗いに行きたくて、

その子に待っててもらい

羽澄は1人お手洗いに向かう。

そして戻ってきた時、

その子はもう居ませんでした。

離れ離れになったのです。





°°°°°





あの時の長時間移動は

確か電車だったはずです。

誰もいない車両で2人、

長い長い時間を経たのです。

2人だけしか知らない時間を過ごしたのです。

冬の寒い日だったのを覚えています。

夏とは真反対ですが、

それでも電車、2人旅という点のみで

想起されてしまうのです。


とんとん。

肩を小突かれてはっと我に帰ると、

羽澄より少しばかり身長の低い麗香ちゃんが

虚な瞳でこちらを見ていることに

気がつきました。

こんな暑い日であるのにも関わらず

パーカーに埋もれた手は

そうっと羽澄から離れていきました。


麗香「これです。乗りましょう。」


羽澄「はい、了解であります!」


あえて、でしょう。

明るくなるように声を上げても

どうにもなりませんでした。

麗香ちゃんが笑うことは勿論なく、

愛咲が不意に出てきて

笑ってくれるだなんてこともありません。

そう。

人生は簡単になんて出来ていないのです。

都合のいいようになっていないのです。

もし、全てが願い通りになるのであれば

羽澄は根本からやり直したい。

愛咲と出会うずっと前から

やり直したいことがあるのです。


それは、あの都会の夜、

大切な友達とはぐれてしまった時のことでした。


そのまま電車に乗り込むと、

麗香ちゃんはそそくさとスマホを取り出して

何やら操作をしているようです。

そういえば、羽澄は未だに

目的地を知らないままだったことを

思い出したのです。

麗香ちゃんは周りの迷惑を考えたのか

それとも無意識だったのでしょうか。

羽澄の隣に平然と

座ってくれたのです。

一瞬どきっとしましたが、

それは猫のような仕草だと思えば

自然と恐怖心も溶けていくのでした。


電車内は午後4時付近だからか

利用している人はまだ疎で、

あと数人は腰をかけれるほどでした。

聞き慣れた駅員さんの声を目印に

電車は泳ぐようにすいっと

前進したのです。

反動でぐらりと羽澄の身体が揺れるのですが、

麗香ちゃんは体幹が強いのか

あまりふらふらすることなく

しっかりと腰を据えていました。

麗香ちゃんが部活動を

しているという話は

愛咲からも聞いたことはなかったので、

強い体感はきっと

生まれ持ったものなのでしょうと

その場は流したのでした。


羽澄「麗香ちゃん。」


麗香「…。」


羽澄「目的地ってどこなんですか。」


麗香「…。」


羽澄「…。」


麗香「…根府川駅。」


羽澄「ねぶ…?」


麗香「根府川駅というところです。」


羽澄「それって何処にあるんですか?」


麗香「神奈川県内ではあったはずです。」


羽澄「へえ…県内にそんなところがあったんですね。」


麗香「…。」


羽澄「羽澄も知らないところばかりです。」


麗香「…。」


羽澄「…どうして、そこに愛咲がいるって思ったんですか?」


麗香「…。」


羽澄「あ、嫌だったら勿論答えなくていいですよ。」


麗香「…。」


羽澄「…。」


ぴたり、と一瞬止まった指。

麗香ちゃんの親指が

スマホの画面とくっついたまま

動かないかと思えば、

数秒後いつも通りに動き出しました。

そして、最後の問いに対して

答えが返ってくることはありませんでした。

ふわり。

換気のために微々ながら

開かれている窓から

生ぬるい風が吹き込んできました。


何かしら麗香ちゃんの中で

答えが出たからこそ

根府川駅という場所に行くという

決心がついたのでしょうけれど、

それが何だか分からないままなのは

ヒントすらないなぞなぞのようで

もやっとしたのは嘘ではありませんでした。

調べてみれば、1度乗り換えをした後は

暫く電車に乗り続けるようです。

そして最後にもう1度乗り換え

数駅進んで到着の様子。

この中間である

長い時間乗る時に

少しばかり仮眠するのも

いいかもしれませんね。


それからは麗香ちゃんに話しかけても

まずひと言目は大抵返事が返ってこず、

少し待っていると時に

返事が返ってくる。

そんなやりとりを数回繰り返すと

あっという間に1度目の

乗り換え駅まで来たのです。

すると、その時ばかりは

何かに突き動かされているように

彼女はすっと立ち上がり

滑らかに電車を降りていくのです。

羽澄が後からついてきていることを

信じているのか、

執拗に振り返ることはしませんでした。

時折、ほんの1、2回

横目で見るのみなのです。


ふと、その視線の冷たさに

違和感を感じました。

羽澄を信じているから

稀にしか振り返らないのではない、

と気づいてしまったのです。

信じているからなどという

そんな甘く綺麗事のようなものではなく、

ただ、羽澄に興味がないからでした。

そういうと妙にしっくりくるのです。

興味がないから、

どうだっていいから。

だから視線は冷たく片時も笑わず

一瞥だけをくれるのです。


ですが、羽澄からすると

多少の寂しさはあったのですが、

寧ろ冷たくされている方が

楽ではあったのです。

過保護にされる方が、

愛情をたっぷり手向けられる方が

羽澄はどうしたらいいのか

分からなかったのです。

これは環境上故にそうなったのか

元々の羽澄の素質だったのかまでは

判別はつきません。

普通は母親の愛を感じて

子は育つと言います。

しかし、羽澄は一概にそうであったとは

言えませんでした。

施設内で育っていくと

職員の皆が機械のように見える時があるのです。

皆、真心を持って

接しようとしてくれるのはわかります。

ですが、時々やはり

そう見えてしまうのです。


それは学校でもそうでした。

人と仲良くしなければならないと

半強制的に思っているのか

人々はグループを作りたがるのです。

その中で1人の人を見かけると

どういうことか人間に見えたのでした。

だからといって羽澄は

1人でいることを選びませんでした。

三門さんのように全てを

突っぱねることは出来ませんでした。

折角与えてくれているものを

どうにかして返さなければと

どこか隅で感じていたのでしょう。

芯では空っぽのままに

表面では満たされ返しているように

振る舞っている。

それが羽澄でした。


ただ、ひとつ言えるのは

羽澄は人に対して信頼を持って

接するということが

あまり理解できていなかったのです。

愛情の返し方が分からないのでした。

冷たくされるのであれば、

温かいものを感じて

返さなければという焦りを

感じることもないのです。

それが楽だったのです。

麗香ちゃんとの関係は

まさにそれだったのでした。


麗香「…。」


羽澄「…。」


麗香ちゃんに何か話しかけなければ。

愛咲のように、何かしら

話題を見つけなければ。

そう考えていたのですが、

それすら必要ないことに気づいたのです。

現代社会から見てこれは

きっと退化と呼べるものなのでしょうが、

羽澄からしてみれば楽になったのです。

彼女に必要なのは

当たり前ですが愛咲の代わりではない。

愛咲自身が必要なのでした。

そのことに気づかず、

否、気づいているふりをしたまま

今の今までいたのです。


羽澄は、麗香ちゃんといる時だけ

羽澄という人を

着飾らなくていいのでした。

大切な人を探す者同士が

こんな冷たい関係だなんて

愛咲はどう思うのでしょう。

…だなんて、人の目を

気にしすぎなんでしょうね。

今だけは羽澄でいることにしましょう。

施設内でも見せることのない、

ただただ何もない関場羽澄でいる。

この気楽さに少々

溺れておくことにしましょう。


羽澄「…ふぅ。」


乗り換えた先の電車では

はじめ座ることができなかったのですが、

停車駅の階段付近の車両だったのか

多くの人が降りていきました。

早々に座ることができたのですが、

その時も当たり前のように

隣に座る麗香ちゃんがいたのです。

そして変わらずスマホを弄りはじめては

ひと言も話すことはありません。


電車に揺られながら

スマホを一瞥すると、

見慣れたホーム画面と対面しました。

特に用事もないので

そのまま画面を真っ暗にします。

すると、下を向いた羽澄が映って。

生気のない顔をしているなと思いました。


そしてそっと瞳を閉じるのです。

流石の麗香ちゃんでも

乗り換える時は起こしてくれるはず。

麗香ちゃんのことを信頼していると

言えてしまうのでしょうね。

彼女に常識があることを信じて

眠りにつくことのみを

考えたのでした。





***





見渡す限りの青空。

そう。

世界の多くは青色で作られています。

神様が青色が好きだったのか、

それとも地球が青を愛していたのか。

1面の青空。

そこに寝転がるのです。


羽澄「…。」


大の字で空に寝転がるのは

とても気持ちのいいことでした。

ぐっと背を伸ばすと

そのまま飛べてしまうのでは

ないかと思うほど。


羽澄はゆっくりと目を閉じました。

溶けていけそうな気がしたのです。

これまでの心の中に沈む澱を

全て洗い流せるような気がしたのです。

あの時の後悔を、

あの場所での後悔を…。

振り返ると振り返るほど

雪崩れてくる後悔を

全てなかったことにできる。

そう思ったのです。


目を閉じたままに手を伸ばしました。

寝転がったまま垂直に、

空に寝転がっているのにも関わらず

空へと届くように願って

手を伸ばしたのです。

変な話です。

今あるものに目が向かず、

ないものばかり強請るのでした。

すると、不意に頬にぽつりと

何かが降ってきました。

それはじんわりと溶けては

感覚がなくなっていきます。


羽澄「……あぁ…。」


ゆっくり目を開けると、

青空だったはずの空間は

いつのまにか灰空になっており、

光の差さない空間になっていました。


ほつり。

ほつり。


…。

懐かしい、ですね。


羽澄「雪…。」


羽澄と大切な友達と

2人で逃げ出したのは

寒い寒い冬のことでした。

2月には雪がたんまりと

積もっていたのを覚えています。


あのちかちかとした夜、

1人で突っ立っている時の

あの風の冷たさだけは

今でもずっと覚えていました。

手の冷える夜、

羽澄は大人に囲まれて寂しかったのです。

裏切られた気持ちになったのです。

けれど、きっとはじめに裏切ったのは、

その友達を邪険に扱った

羽澄の方に違いないのです。


全て全て、羽澄自身の思い違い、

自意識過剰なだけなのです。


羽澄「…。」


どこかから声が聞こえます。

雪を掴もうと手を伸ばしたまま、

羽澄はここに、この空間に縋りたいと、

泣き出してしまいたいと

思ってしまうのでした。


「羽澄。」


「…羽澄。」


「……はーー」


今じゃ連絡も取れない、

生きているかすら知らないあの子が

羽澄を呼んでいるような気がしたのです。





°°°°°





麗香「先輩。」


羽澄「…ぁ…。」


麗香「先輩、次の駅です。」


羽澄「はっ…すみません、眠ってしまいました。」


麗香「大丈夫です。」


そうひと言いうと、

素気なくスマホへと

視線を落とすのでした。

何をそんなに見つめているのか

理由は依然としてはっきりしないですし、

だからといって勝手に覗くのは

気が引けます。

今更彼女のことを気になったって

どうしようもないのかもしれません。

そう思えばやはり気が楽になり、

羽澄も自分のスマホをつけたのでした。


少しだけでもこの先

着くであろう駅に着いて

調べていた方がいいのではないかと

突然思いついたのです。

次で着くと言われたのにも関わらず

飛び起きたかと思えば

スマホを弄る羽澄の姿は

現代の女子高生らしいとも

言えたのかもしれませんね。


ただ、次の駅に着くまで

5分以上もあったからか、

比較的ゆっくりと調べている気がしました。


根府川駅。

調べてみれば、

神奈川県の小田原にあると言います。

ふと電子看板を見てみれば、

次は小田原という文字が

泳ぐように流れていきました。

さらに見てみれば

海の見える駅だとか、

無人駅だとかいう情報がありました。

写真を見るに、新しい建物ではなく、

どうやら時代を感じることができる

風貌のようです。

ホームにはほとんど屋根がなく、

4月になると駅周辺は桜でいっぱい。

Wikipediaを覗くと

文字ばかりで読む気が起きなかったのですが、

それとなく事故があったというのは

目にしました。

海に当時沈んだ駅のホームが

沈んだままになっているのだとか。


そこで、小田原駅に間も無く

到着するというアナウンスが

流れ出したのでした。

聞いたことのない音楽、

聞いたことのない車掌の声。

ただひとつ、馴染みのあるものがあったのです。


麗香「…降りましょうか。」


羽澄「そうですね。」


ただひとつ。

麗香ちゃんの存在だけが

羽澄にとって安心する要素だったのでした。


乗り換えてからはたったの

2駅で着くらしく、

あまり猶予はないなと感じたのです。

なので眠るわけにもいかず、

だからといってスマホをつけるも

特に観たいものなんてなく、

一応ツイートをしてみるものの

すぐに画面を消したのでした。


ぼんやり外を眺めていると

確かに駅が近いような気がします。

人気のない電車でのんびりと座り

眺む車窓ほど

風情のあるものはないでしょう。


羽澄「…。」


麗香ちゃんは変わらず

羽澄の隣に座ったのです。

羽澄達のいる車両には

羽澄達以外に人1人もおらず、

独占状態になっていました。

この雰囲気のある景色も

羽澄達2人のものなのです。

他の誰でもない、羽澄達の。

誰の目にも映っていない、

羽澄達だけに映っている景色なのです。





°°°°°





「羽澄。」


羽澄「ん、なあに?」


「歌、歌ってほしい。」


羽澄「歌…?」


「うん。」


羽澄「何で?」


「だって…羽澄のクラスの合唱コンクール、すごかったから。」


羽澄「そんなふうに思ってくれてたの?」


「うん。」


羽澄「えっへへ…。」


「聞きたーい。」


羽澄「もー、仕方ないなぁ。」





°°°°°





羽澄「…。」


誰もいない車両、

太陽の登る水平線、

降り積もったままの雪。

羽澄は確か、合唱コンクールで

発表した歌を歌ったのです。

しかし、何が課題曲だったのか

すっぽり抜け落ちています。

忘れるとはこのことなのだと、

もどかしいままに

忘れたことすら忘れてしまうのだと

悟ってしまったのでした。


陽は傾き、そろそろ夜へと

突入する頃でしょう。

斜光は痛いほどに

羽澄達の足元を突き刺しては

流れていきまた突き刺します。

それを飽きることなく繰り返したかと思えば

不意に何かしらの遮蔽物が横切り

一瞬のみ影に塗れました。


麗香ちゃんはそれを一切気にすることなく

ただ下を向き続けています。


羽澄はそれに反するように

ぱっと上を向いたのです。

ゆらりゆらりと波のような網が

揺らめいているようでした。

錯覚でしょうか。

それとも近くにある海のせいでしょうか。


羽澄は手を伸ばしかけて、

隣に麗香ちゃんがいることを思い出し

ついつい辞めたのでした。

いくら羽澄を着飾らなくてはいいと言っても

変な行動だと思われるのは

周知の事実であるからです。

羽澄自身、変だと言われることには

目を瞑ってきました。

それでも、出来る限りは

目を背けていたいのも事実。

けれど、変だと完全に

言われなくなってしまったら

羽澄は羽澄でなくなってしまう。

そのちょうどいい塩梅を

今も探っているのです。


ぼうっと天井を眺めている時でした。

ふと電子看板を見ると、

根府川駅だと表示されています。


羽澄「…?」


ふと、違和感に気付きます。

確か2駅で着くはずなのですが、

どうやらひとつ前の駅には

停車していない様子です。

ぼうっとはしていたものの

流石にアナウンスがあれば気がつくはずです。

それとも、気づかないほど

物思いに耽けていたのでしょうか。


いや、そんなはずはない。

ぶんと頭をひと振り、

隣にいる麗香ちゃんの肩を

優しく叩いたのでした。

すると、のっそりと

こちらを見つめる彼女の目。

獰猛なはずなのに

大切なものを奪われて

何もする気が起きない猛獣を思わせる吊り目。

羽澄は、その瞳の真っ黒さに

心底ぞっとしてしまったのです。

ですが、ここで屈してはどうにもならない。

今更ながらのことなのです。

ここまで着いてきて尚、

怯えてばかりではいられません。

それに、人間です。

同じ人間のです。


力を振り絞り、

麗香ちゃんにひと言声をかけました。


羽澄「何か変じゃないですか?」


麗香「変…?」


羽澄「はい。根府川駅のひとつ前の駅って着きましたっけ。」


麗香「まだだと思います。」


羽澄「ですよね…。」


麗香「それが何か?」


羽澄「見てください、あれ。」


麗香「…?」


羽澄「ほら、次は根府川駅ってあるんですよ。」


麗香「そうですね。」


羽澄「おかしくないですか?」


麗香「あの掲示板の方が間違ってるんじゃないですか。」


羽澄「そんなことあるんですかね。」


麗香「何事も例外はありますよ。」


羽澄「例外…。」


麗香ちゃんは大して気にならないのでしょう、

またスマホに戻ってしまいます。

ですが、どうにも落ち着かないのです。

この車両には人がいない。

それは乗り込んだ時からそうでした。

しかし、それだけならよかったのです。

どうにも、説明できないような

気味悪さが羽澄を襲うのです。

この車両だけでなく、

この電車自体に人1人すら乗っていないような。

今更になって唐突に

異常風景のように感じてしまうのです。


羽澄達は今、根府川駅へと向かっています。

それは変わりません。

しかし、駅に導かれているような気が

してしまうのです。

意図的に羽澄達を誘き寄せているような、

そんな感覚がしてしまうのでした。

羽澄の考え過ぎなのかもしれません。

それでも、この違和感はどうにも説明できず、

そして拭うことができないのです。


羽澄「麗香ちゃん、降りましょうよ。」


麗香「何で。」


羽澄「だって、おかしいですよこの電車。」


麗香「…。」


羽澄「気味が悪いんです。人がいないじゃないですか。」


麗香「それくらい、田舎になればよくあることだと思います。」


羽澄「でも」


麗香「先輩。」


…っ。

一瞬息を呑んでしまったのですが、

すぐに反論しようとしたその時でした。

麗香ちゃんの目が初めて

羽澄のことを捉えたのです。

それはなんとも鋭く、

人を寄せ付けないものでした。


麗香「先輩は、長束先輩のことなんてどうでもいいっていうんですか?」


羽澄「…っ!違います、ただ」


麗香「言ってることは同じです。」


羽澄「…。」


麗香「それに、次は根府川駅なんですよね?」


羽澄「…きっと。」


麗香「ならもう手遅れじゃないですか。」


羽澄「緊急停止ボタンを押せば間に合います。」


麗香「はーあ…。」


ため息。

それはこの息苦しい電車を満たすのには

十分すぎるものでした。


ぞくり。

あぁ。

なんだか嫌な予感ばかりするのです。

本能的なセンサーが

何かを受け取っているのです。

そうとしか考えられません。

脂汗が滲み出ているのが

自分でもわかります。

気持ち悪いままに

彼女の言葉を待つことしかできません。


そしてひと言。


麗香「見損ないました。」


刹那。

ぐらり、と大きく車体は揺れ、

瞬時に視界はどうなっているのだか

判別することができなくなりました。

ぐるりと1回転しているのか、

それとも頭をぶつけてしまって

目が機能しなくなってしまったのか。

物凄い轟音と共に

ふわりと体が宙に浮く感覚。

高いところから落ちた時特有の

あの心臓が飛び出る感覚です。


事故。

その文字が過ぎりました。


羽澄「っ…!麗香ちゃ」


その言葉は虚しく、

どこに届くこともなく

また轟音に呑まれてゆくのです。

あぁ。

また大切な人を守れないのかと

落胆する羽澄がいました。

麗香ちゃんのことを

大切と思っているかはさておき、

近くにいた人さえ守れない羽澄は

一体どんな存在意義があるのでしょうか。


さざ。

…さざぁ…。


ざざ。

…。


遠く、遠くで海の音がしました。

換気で窓が開いていたんでしたっけ。

それは前の車両でしたっけ?


一瞬、ぴとりと雨のような

水に触れたような気がしました。

咄嗟に息を止めては

今度吸うことを忘れてしまって。


…。

…。

…。


夢に見た青い世界が

どこまでも広がっているような

気がしたのでした。





***





羽澄「ゔ…。」


もくりもくり。

ぐおぐお。

形容し難い音で塗れている真っ暗な場所。

目を開いていないからでしょうか。

きっとそうですね。


体が重たい気がします。

それを感じさせないような速度で

はっとしてぱちりと目を見開きます。

すると、鋭く何かが入ってきて、

一瞬光を享受したのですが

防衛本能によって咄嗟に

瞳を閉じたのでした。

一瞬のみ見えた世界は

まだ覚めきっていない羽澄の頭では

処理することができません。

見たことがあるのかすら

ぱっと思い浮かびませんでした。


少しばかり、時間を置くことにしました。

すると、見えてくるものもあるでしょうし、

落ち着くことだって出来るはずです。

羽澄は家で眠っていたんでしたっけ。

それとも学校な授業中に

うたた寝でもしてしまったんでしたっけ?

何も覚えがないままに

今度こそと思いゆっくり、

ゆっくりと目を開いていきます。

やはり、目に刺激がいき、

しばしばするのですが、

現状を知りたいがためだけに

勇気を振り絞り目を見開きます。


そこは。


羽澄「…っ!?」


そこは。


麗香「……先輩、起きたんですね。」


羽澄「…ここ………。」


麗香「…私も知りたいです。」


そこは、空から微かながらに光の届く

仄暗い街がありました。

宙には魚が飛んでおり、

近くを通るたびに

頬にむるむるとした水らしい感触が

波のように伝っていきます。

遥か上空には何やら大きなものがあるらしく、

それが一部影を生んでいるようで。


街があったのです。

一概に街と言い表せるでしょう。

住宅街なのか、角の削れた

元は四角であっただろう建物が

いくつもいくつも建立しています。

遠くを見れば1本細い何かが

突き刺さっているように見えました。


ふわりと手を動かしてみれば、

重たい空気なのか全く軽やかに

動かせません。

まるで水泳の授業のようなー。


羽澄「………。」


起きてすぐ、ここまで時間を経て

思考を巡らせて漸くふと思ったのです。

知らない街、見覚えのない光、

初めましての感覚。


あぁ、そうかと

妙に冷静に納得している羽澄がいたのです。


羽澄達は、海に沈んだのです。

海に沈む街に辿り着いてしまったのです。


そう、空想にまで飛んでしまうほうが

楽だったのかもしれません。

足元には、崩れたホームらしき残骸が

残っていました。

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