53.戦い③――銀狼様、ピンチ?!――

 

 蜘蛛が大きな呪術を行使した?

 これまで見たことのない規模の薄ら黒い空気の歪みが、モワモワと空へと広がっている。


 エドやシドの具合が心配だけど……谷からの“圧迫感”も凄い。

 エド達と谷を交互に見遣り、どちらを優先すべきか迷った末、わたしはエド達に声だけ掛けて谷を覗きに銀狼様の隣に行く。


「二人は無理しないで! アン達のところへ下がって手当てを!」


 銀狼様の隣に着いて、右手の槍をつっかい棒、左手は彼女の白銀の毛を掴ませてもらって恐る恐る谷を覗き込む。


「銀狼様……今のは?」

「野郎の仕業だろうな」


 空気の歪みはだいぶ晴れていて、蜘蛛の姿も見つけられた。

 対岸まで距離のある広い谷なのに、そこを繋ぐ広大な網が張られていて、その巣に脚――腕――を失い腹を刺され頭部も深く傷ついた蜘蛛が仰向けに倒れていた。


 蜘蛛をよく見ると、その傷口が全てモコモコと泡立つように黒くうごめいている。


「な、なんですか……あれ」

「もしや、再生しようとしているのかもしれんな」


 再生……


「――オリヴィー! うしろぉー!」


 突然のエドの呼び声に、ビックリして振り返り彼を探す。

 エドは、まだシドらと森の端にいた。そして、今にも駆けてきそうなエドをシドと部下が必死に引き止めている。

 そのエドは、腕を大きく伸ばして一か所を強く指差している。

 何?

 釣られるようにわたしも目を移す。


「……エッ!?」


 そこには銀狼様が千切った蜘蛛の左前脚――左腕――が二本あったのだけど……

 動いている! 大柄な大人ほどもある大きな腕が……二本とも!

 手の指で地面に爪を立て、尺取り虫の如き動きで自らの前腕・肘・千切れた二の腕を引きずって……蜘蛛に操られているのか、腕自体に意志があるのか、谷に――蜘蛛の方に向かっている。

 背中に冷たいものが走り、呼吸が一気に浅くなった。銀狼様の毛を掴む手も震える。


「ぎ、銀狼様……あ、あれをっ……」


 とても銀狼様に届くような声量ではなかったけれど、わたしの恐怖心が伝わったのか、ちらりと視線を寄越した。


「チッ! 野郎のトコへ戻ろうとしてやがんのか」


 そしてすぐに蜘蛛に目を戻した銀狼様は、もう一度舌打ちをすると――


「オリヴィア。アタイは今から野郎を潰しに行くから、アンタはあの脚を浄化しろ。野郎に再生されるのも厄介だが、“脚”に戻られんのも厄介だからな」

「浄化! わたしが?」

「――ったり前だろ。時間が無え。頼んだぞ」


 そう言い残して銀狼様は、わたしの手を解いて蜘蛛の巣に飛び込んでいく。

 わたしは解かれた手で彼女に縋ろうとしたけど、既に彼女は谷に消えていた。


「どうしよう……」


 わたしが戸惑っている間にも、じりじりと谷に近づいている。


 ミシィッ!

 巣のしなる音。銀狼様が下に着いたんだ……


 わたしもやらなきゃ!

 腰に下げた革袋を手に取り、開いて、聖浄殻の粉末を片手で握れるだけ掴み取る。

 樹にはひと摘みで効いたけれど……樹なんかより断然不気味で禍々しいアレには、どれくらいで効くか分からないし、もし足りなくて浄化できなかったらあの手がそのままわたしに向かってくる可能性だってある……


 緩い向かい風がわたしを撫でていく。粉末を投げても風で戻されるわ……近付かなきゃ。

 怖い……怖いけど、行かなきゃ。

 自分を奮い立たせて、足を一歩一歩進める。


 “腕”は休むことなく地面を這い進み、もう二、三掻きで谷へ飛び出していきそう。

 行かせない!

 わたしは足に力を込め、地面を蹴って腕に駆けていく。


「このーっ! 大人しく浄化しなさい!」


 先行している腕の方に向かって、手に握り締めた粉を――ありったけの勢いをつけて上から投げつける。

 ブッチの遊びで散々毬を投げさせられているのが役に立ったわ……


 バサッ!


 粉は緩い塊を保ったまま、必死に動く“手の甲”に直撃。パッと弾け、腕に白く浄化の跡が走り、みるみる縮み、干からびた人間の腕に戻り、そしてサラサラと形を失い、消えた。


 よし! 効いた。もういっち――


 もう一丁投げつけようと革袋に手を移す間もなく、もう一つの腕がわたしに手を広げて迫ってくる!

 間に合わない! 槍を構える時間も無い! 捕まえられる!


 既に五本の指がわたしの左右も上も覆い、後は関節を曲げて閉じるだけでわたしは潰されて終わり……

 わたしは咄嗟に、粉末を握り締めていた手を突き出す。襲い来る掌にせめてもの抵抗をする!

 簡単には潰されないわよっ!


 わたしの小さな掌と、巨大な掌が触れた瞬間――

 相手の方が、あたかも熱い物に触れたかのように――反射的にのけ反るようにひじをたたんで手を引いた。


「――えっ?」


 何が起こったのか分からないけど……よく見ると、わたしが触れた部分が爛れていて、そこから靄が上がっている。

 わたしの汗ばんだ手に付着していた聖浄殻の粉が効いた?

 ――いや、なんでかなんて後でいいっ! 今はこの隙を逃さない! 腕全体に効いたわけじゃないんだから!


 わたしは槍を構え、思いっきり力を込めて前に突き出す。

 銀狼様の牙の槍は、わたしの“人間離れ”してしまった力で、風切り音と衝撃波を出しながら“腕”の無防備な前腕に突き刺さった。

 腕は肉を抉られたみたいに真っ直ぐな穴が開き、ぐにゃぐにゃ揺れながら後方に倒れていく。


 今しかないと、革袋から粉を握り出して、さっきのようにぶつける。

 こちらも同じようにサラサラと消えていった。


「な、なんとか……なった……」


 ここはなんとか出来た……後は銀狼様。

 心臓はバクバクしたまま。荒い息を深呼吸で整える間も無く、銀狼様の様子を見に行く。



「うそ……」


 蜘蛛が……ぜんぜん別物になってる!

 脚が生えてる! それに、生え揃ってる!


 蜘蛛が本来の、節がいくつかあってすらりと長い脚の姿になっている。

 そして――

 蜘蛛と銀狼様は“巣”の向こう岸側に寄っているけど……銀狼様が端に追い込まれている!


 どうして? 光と呪って、光が好相性って言ってなかった?

 ――っ! そうか! 相性が良くても、巣は蜘蛛の本拠地みたいなもの。銀狼様にとっては完全に蜘蛛有利の戦場なんだ……

 それに、当初の想定以上に回復、というか大きくなっていた相手。

 やりにくいんだわっ!


 たしかに、遠くに見える銀狼様の脚には、巣の糸が纏わり付いている……よく見れば身体にも。粘り気のある横糸を踏んだんだ……


 わたしから見て、巣の最奥にいる銀狼様に、蜘蛛が縦糸を器用に伝ってひたひたと迫っていく。

 見えにくいけれど、蜘蛛から牙のような鋏角をカチカチと噛み合わせている音が聞こえる。

 まるで舌舐めずりしているみたい……

 蜘蛛は牽制というよりも、逃げ場のない銀狼様をじわじわと削るように、呪術を放っている。

 銀狼様は都度打ち消している――いや、銀狼様からも仕掛けているけれど捌かれているみたい。


「銀狼様……」


 助けに行きたいけれど、巣は思ったよりも低い位置に張られていて、わたしでは飛び降りられない。


 とうとうお互いにひと呼吸で届く距離まで近づいた。銀狼様の後ろは崖になっていて、退く場所が無い……

 睨み合っている……

 見ているわたしにも緊迫感がひしひしと伝わってくる。


 ――動いたっ!


 銀狼様の方が一瞬早く、そして鋭く蜘蛛に突っ込んでいく!

 鋭い爪が、その光沢の残像で糸を引くように蜘蛛の顔面を引き裂かんとする。

 でも蜘蛛も負けずに、その八本の脚の内六本、それに口元の鋏角をも使って銀狼様に襲いかかった!


 ザシュッ!

「ギィイェエエエ!」

 ガギィン!


 僅かに早く銀狼様の爪が蜘蛛を裂いた。

 しかし、蜘蛛の悲鳴のようなものが漏れた直後、銀狼様の爪が鋏角に防がれ、今度は蜘蛛の六本脚が銀狼様を捕らえ、ぎりぎりと絞めつけ始める。


「ぐぅっ! この野郎ぉ~!」


 銀狼様が前脚や後ろ脚をジタバタ動かして、何とか抜け出そうともがく。

 でも、蜘蛛は銀狼様をきつく絞めつける六本の脚の内、真ん中の脚一対を敢えて開いて関節を畳み、その鋭い脚先を銀狼様の脇腹に向けて動き出す。


 刺す気だ!

 銀狼様が危ないっ!


「銀狼さ――フッ、フララぁーーー!」


 その瞬間、銀狼様が――銀狼様の身体が光となって蜘蛛の拘束から外れ、谷の尾根にいるわたし目掛けて飛んできた!

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