△8
そうして、やっと瞼が開かれた。
目の前に広がるは見慣れた光景。
むくりと半身を起こし、痛む首筋を手で擦りながら無理やり捻じ曲げると、小高い丘になっている風景が見える。
あな懐かしきは我が故郷。
なんとか両の足で立ち上がる。
視界が広がれば見えてくるものがある。
丘の下には、子供一人分の身長ほどの幅しかない小川が流れていた。
今も昔も変わらず、川はただそこに在る。
そしてそこに、若い女の姿があった。
女は、セゴナの城に従事する使用人の服を着ている。まだ冷たいであろう小川へ、人目がないことをいいことに、スカートをべろんと捲って素足を水に晒している。
しかし水を蹴ったりして遊んでいるのではなく、脚を綺麗にするためだけに、一心にごしごしと洗っている。
どうしてか女は脚を綺麗にしたがる。男には分からない感覚だが、できるなら常に清潔な状態を保ちたいのだと。それが女の身だしなみ。
子供の頃は気にしなかったくせに、ちゃんと、大人の女となっていたのか。
数か月前、この二つの眼で間近で見た時は信じられなかったというのに……今の自分はその事実を、驚くべきほどに素直に信じられる。
「本当、綺麗な女になったものだな」
――さて、いつも通りなら、ここでお約束が来るものなのだが。
女はビクンと肩を震わせて、それまで脛に集中していた眼球は見えない糸でおそるおそる上へ釣られていき……ばったりと、視線が重なり合う。
「きゃ、ゃあャああああ!」
甲高い絶叫。それはどう聞いても子供の照れ隠しではなく、大人の羞恥。
「も、もう! 起きてたのイサちゃん!?」
「あ、ああ……」
あの城で再開した時、恭しい態度で自分に従事したあれは一体何だったのか。
夢だったのではないかと疑いたくなるぐらいにこのジュは、昔のジュがそのまま成長した姿。
「変態! 女の子の水浴びを見るなんて!!」
確かにジュは、あの城で見たような禁欲的な恰好など微塵もなく、むしろニムの制服を着たまま肌を晒しているのは、下手な裸よりも艶めかしい。
ジュは濡れた身体を申し訳程度にタオルで隠しながら、ずんずんとこちらへ向かってくる。
その迫力、生半可な軍隊よりも激しい。そうだというのに、ちらりと覗く脛が、なんともシャの劣情を煽るからまた困る。
「ヤミ……どうしてこんなに変わってないんだ」
「そりゃそうだよ! ニムはあくまでお仕事、私は変わるわけないじゃん! ずっと私はそう言ってたのに、イサちゃんは信じてくれなかったんだね!?」
「いや、だって、普通あれは、……」
普通、なんだというのだろう。我ながら言葉が後に続かない。
「もう! 私はずっとイサちゃんだけを考えて十年間過ごしてきたのに! イサちゃん以外のものは、何一つだっていらない!」
真っ直ぐに。
ただ只管、真っ直ぐに。
ジュは思いのたけをシャにぶつける。
どれほど直接、心を打ち砕いてくるのか、この幼馴染は。
「……少し、整理させてくれ」
ナビゼキは、燃やされていなかった。当たり前だ。ミナヤにとって、ニヅだけが目標であったのだから。どうして村まで焼く必要がある。
おそらく、自分が見た焼夷された村は、ジェク=クァムが革命を起こした直後に行った、ミイ家狩りともいうべきものの残滓なのだろう。ミイ家を匿い、そのせいで滅ぼされた村の一つ。
世間知らずのシャには、それでも十分誤魔化すことが可能だった。
すべてはジェク=クァムの嘘だった。
それを見抜けない自らの愚かさ。
この罪、どうやって償えるのか。
少なくとも死傷者は出ていない。今頃兵士たちのほとんどが鎮守府に安置されているはずだ。
ミナヤは約束を破らない。そうでなければ、千年もの長きに渡り、仁徳で一つの国を存続させることなどできない。
だが、自分がセゴナに喧嘩を売った事実は消えない。
戦争に勝つために、この自分に付き従ってくれた部下たちへ、どんな顔を合わせればいい。
「気にしなくていいと思うよ。どんなことも。どうせ、モヴィ・マクカ・ウィは解体されたんだから。戦争が終わってからかなり動きがあってね」
「――――」
俄かに受け止められることではない。
曲がりなりにも、十年間は世話になっている国。
利用し、利用された国だとは分かっていても。
「やっぱり急造の政権では無理があるのだと思った、元モヴィ・マクカ・ウィの国民たちは、再び舞台に登場したミイ家の血筋を持つ者に期待をし始めたの。まあミイ家とは言っても思想はセゴナのそれに近い人が握ったから、イサちゃんが失くしたものぐらいなら、生涯を掛けて取り返してくれる。約束する」
「……ミイの血筋に、生き残りがいたのか?}
「うん。ずっとセゴナで力と知識を蓄え続け、ついには復権を果たしちゃった。まさか、本当にそれだけの大志があっただなんて、思ってなかったんだけどなあ……」
口ぶりからすれば、ジュの知り合いなのだろうが……一体、ジュはこの十年間、どれだけの経験をしてきたのだろう。知りたいようであって、知りたくもないようであって。
「ってことで、これからわたしたちが出来るのは、未来を切り開くことぐらいになっちゃった。モヴィ・マクカ・ウィ人として、新しい王を喜ばなきゃ、ね。理想な国が、単なる人間でも創造できますようにって、行く末を案じなきゃ」
「俺は、自分の行く末すら知らない愚か者だぞ」
「何言ってるの。イサちゃんは、わたしのお嫁さんになるのが行く末だよ」
十年間。それだけの歳月を経たというのに、
どうしてかくも、全てが変わったようでいて……必要な部分だけ、昔のままなのだろう。
「おっと、俺はもう、シャ=イサじゃないんだろう?」
「あ、そうそう。ミナヤ様がイサからインに改名してくれれば、罪を全てチャラにしてくれる……って……話を誤魔化さないで! イサちゃんは私のお嫁さんになるの!」
全く、変わらない。一度怒りだしたら、こうしてこちらがいくら反論しようとも聞く耳すら持たない。
「シャ=イン……それが俺の新しい命、か」
ペラペラと怒った言葉を吐きだし続けるジュをしり目に、シャはそう呟いた。
「ちがうよ。ナビゼキ最高権力者、ジュの名字を貰うんだから。だからイサちゃん。当然、私と結婚してくれるよね? 断ったりなんかしたら――」
ああ、そういえば、これほど粘着する女だったか。
いやはや、これが伴侶とは。
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