▼7

「久しぶりだね、おじいちゃん」

 一人で畑を耕している、齢七十は超えている老人に近づき、ジュは挨拶をする。

 その老人は最初、外から現れた異界の人物に驚き、それがニムの服をしていることに驚き、最後にそのニムがジュ=ヤミであることに驚いた。

「ヤミ、もしかして、ヤミ……なのか……!?」

「うん。わたしだよ。ヤミだよ」

 老人は感極まり、ジュを抱きしめる。顔の刻まれた皺の多さに似合わず、とても力強い抱擁だった。

「どうしたんじゃ……? こんな情勢に、いきなり帰ってくるなんて……」

「大切な話があるの。ナビゼキの今後に関わる、本当に重要なお話」

「そこは私の口から説明させてもらいますわ。ヤミ。先に、村の皆さんへ挨拶を済ませてきてください」

「そ、そなたは、」

 老人……長老こと、ジュの祖父は、ジュの小さな肩の向こうにいる女の姿を、改めて認める。

「…………。どうやら、ヤミの帰りを呑気に喜ぶことはできないようじゃな」

 ジュとミイの姿恰好を見た長老はそんな判断をした。

 ナビゼキでは、誰よりも長老が権力を持つ。

 小さな村なのでほとんどは話しあいで済ませることも多いのだが、ここぞという時の迅速な判断では、一人の人物による発言が求められる。

 そうであるからこそ、長老は代々、察しの良い人間で在り続けた。

「おじいちゃん。この時間、お父さんとお母さんはどこにいる? 会ってきたいよ」

「クミなら家、ヤニなら西の畑じゃ」

「ありがとう。おじいちゃんとももっと一杯話したいけど、皆とも会いたいの」

「ああ、行ってきなさい。ワシは……十年ぶりに、悩む暇なく急激に事態が進んでいるようじゃしな。久方ぶりに、長老として頑張らないといけないようじゃ」

 十年ぶり。

 ナビゼキが脅威に晒されるのは、十年ぶり。


 村の西にある畑へ行くと、何人もの屈強な男が稲穂を刈り取っている。

 ナビゼキの主食は米である。これを貯蔵しなければ、寒い冬を乗り越えることはできない。

 ジュはふと思いつき、全員に魔をかける。

 共創魔【軽体】。

 この魔にかけられた対象は、その名前通りに、身体がとても軽くなる……ように感じる。実際の質量までは変化しない。そのぐらい簡単なものであるので、今のナビゼキでも発動させることができる。

 いきなり身体が快調になり、戸惑う男たち。なにが起きたんだと顔を見合わせている。

「すうっ……みんなー! 久しぶりー!」

 少々高くなっているところから、両手を拡声器として、あらん限りの大声で叫ぶ。

 ジュを見た男たちの反応は一様にして、敵の襲来かと身構え、次にその声の主がジュであることに気が付く。長老よりは少し反応が速かった。

「ヤミ! どうして、お前!」

 村長たるジュの父が、誰よりも先にジュの下へ駆け寄る。そして仕事も放棄した十人ほどの男たちが、ぐるっと一周ジュを取り囲む。

 男たちの顔は、どれもこれも笑顔の花が咲かされていた。

「おいヤミかこれがよぉ! えらい別嬪になったな!」「その服はなんだ? やけにビチッとしてっけどよお」「馬鹿野郎、これはセゴナ城の使用人の服だ。あのセゴナで、百人にも満たない超少数精鋭だ……って、ヤミそんなのになりやがったのか!?」

 ニムとして修行を重ねても、十人に近い人数と一斉に話せるような修行を積んだわけでもないので、ジュは父だけに絞り、話をすすめることにした。

「えへへ。ちょっとわたしの計算違いがあって。先に帰ってきちゃったの」

「……そうか、イサは帰ってこれなかったか」

 そう言った人は、シャの父親であった。

「ううん、違うの。イサちゃんは、もうすぐ戻ってくる。ただ、ちょっと今は勘違いしてるから。その誤解を解かないかぎり、イサちゃんは帰ってこない」

「ん? どういう意味だヤミ」

 頭にはてなを浮かべるジュの父。顔こそ違えどその表情と仕草は、ジュととてもよく似ていた。

「その辺りはお母さんに説明するつもりだから、そっちで聴いて。二度手間したくないし」

 身内だから贔屓しようとしても、お世辞にも父は、頭がいいとは言えない。村長の家柄だからこそ村長をしているようなもので、実質、ジュの母親が取り仕切っている側面がある。

 まあそうでなくても母は、下手をすると長老を差し置いて実権を握るような人なので。

「だっはっは。ヤニも娘にこうされちゃたまったもんじゃねえな。ただでさえ、昔っからヤミは頭がよかったのによ」「違いねえ違いねえ」

 男たちは笑いだす。父は不機嫌な顔になった。

 ああ、それも昔と変わらない。

 心が懐かしさに温かくなる。

「それじゃ、今度はお母さんのとこに行ってくる」

「もう行っちゃうのか?」

「しばらく村に滞在するから大丈夫。皆もちゃんと仕事はしてよね? 私が魔をかけてあげたんだから」

「あれが魔ってやつなのか。いやほんと、クミもそうだけど、怖いもんだな。ヤミがそんなもんに手を出すなんてよ……」

「普通は誰だって出来るの、女なら。ナビゼキが変なだけ」

 魔がなくたって男は女を大切にするし、技と言えるほどのものもないのに女は男を頼る。

 これはこれで、男女が完全に平等。女尊男尊の社会。

 ジュはそんなナビゼキが、大好きだ。

 災禍なんてあってはならない。阻止せねば。

 それには、ジュの力が頼り。


「お母さん、久しぶり」

「……あら、ヤミじゃない」

「うーあー淡泊。一人娘が帰ってきてあげたのに」

「……いつかは、帰ってくると信じていたから。でも、帰ってきてくれてよかった……衷心から、心配していたわ」

 父以上に外見が大して変わらない母にジュは、やはり純セゴナ人は違うなと思った。

 母はあと数年で四十を迎えるという年齢なのに、まあミイぐらいなら姉でも通用できる若々しい外見をしている。しかも村の中でも群を抜いて美人。纏う雰囲気には影があって、神秘さを演出させている。

 娘であるジュからすれば、「暗いだけ」と表現したくはなるが。

 例え人の妻だとしても、男というものは不思議と、美人が相手だとなかなか逆らわない。有能でもあるのだから、女たちも母の正論の前ではうかつに発言できない。

 結果、長老に次ぐ発言力を持つ。

 ジュは母の血を濃く受け継いでいる。

「それも占いで?」

「……ええ。帰飛刀を使って」

「帰飛刀って本当に占いに使うの!?」

「……冗談よ。……なあに? どうしてそんなに大きな反応をするの?」

 滅多に冗談を言わない母なのに、よりのもよって、そんなボケをかますとは。

「……真面目に言えば……愛情、かしらね」

 優しく、ジュを抱きしめる。

 本当の母親だからこそできる、慈愛に満ちた抱擁。

 その愛は、ミナヤ=クロックにだって出すことはできない。

「……ふふ。ニムになれたのね。羨ましいわ」

 母はジュを抱きしめながら、ジュの背中をサスサスと撫でて、服の感触を楽しんでいる。

 母とてセゴナ人、ニムに憧れていた時期があったようだ。

「お恥かしながら。私みたいな未熟者なのに」

「……いいえ。ヤミは優秀よ。これほどの若者を産めて、私は誇っているわ。私はこの通り、身体が弱いから。鳶が鷹を産むとはこのことね」

「ニムはみんな優秀だから、比べられると恐縮しちゃうんだけど……うん、有難うお母さん」

 親は子供の立派な姿に未来を見る。

 子供はそんな親の意思を受け継ぎ、未来を紡ぐ。

「……ロミロク夫婦は元気? そう簡単に死ぬような性質じゃないけどあの二人は」

「うん。小父さんも小母さんも元気。最近は忙しくて会えないけどね。仲良く喧嘩してるよ」

「……変わりはないのねあの夫婦も。それも安心したわ」

 ジュの母と、十年間ジュを育ててくれた小父さんと小母さんは友達であったとか。であるからこそ、夫婦はずっと、ジュの世話をしてくれたのだ。

「……ヤミ。お母さんに、言いたいことがあるの?」

「うん、ちょっと伝えたいことが多すぎて」

「……なら、お母さんに言いたいことを頭に浮かべなさい。それ以外のことは考えないで」

「こ、こう?」

「……ええ、変わらず、いい子ね……」

 そう言った母は、抱きしめたその体勢のまま、額を突き合わせた。

 これが母の独創魔。身体を触れ合わせることで、人の悲しみを知る。

「……そう。そういうことなの」

 更にぎゅうと抱きしめる母。

「……こんな小さな身体で、セゴナの威信をかけているのね……その重さに私たち民は、耐えることができない。ミナヤ様。どうして私たち人間に、ここまでの試練をお与えになるのですか……?」

 母は敬愛なるクロック教の信者。だからこそ、ミナヤ=クロックが、ただ貧弱な一人の人間にここまでの主にを背負わせることに憤りを感じている。

「違うのお母さん。私は所詮、イサちゃんがまた村に帰ってきてくれればそれでいいって考えだから。私の行動原理なんてそんなもの。いいじゃん。人間なんて、まだまだ動物だよ。気負うことはないよ」

 ほとんどセゴナ人ではないジュには、セゴナ人のような使命だけに燃える生き方などできない。

 だからこそ、気楽に世界を謳歌する。

「とにかく、私は今日から、しばらくナビゼキに滞在することになる。……イサちゃんがいないから、なんの価値もない帰郷なんだけど」

 ジュにとって、シャこそが全て。


   =


「似ているようで違う……のに名前はこれまで通り、ニズ……ミナヤ様って、お人好しですわね」

 ジュは辺り一面で元気よく育っている、『ニズ』を見ながら呟いた。

「……変わらないですわ。この二日かけて、ずっと変わったところを発見してやるって思ったのに、なあんにも」

 強いて言えば、あの少年……今や青年か、の姿がないことだけ。

「お、ここにいたのか。捜したよ」

「ええ。もうすぐ収穫の季節ですから。本当ならもう少し早く、ことを終わらせたかったのですけれど」

 夕日に照らされ黄金に輝くニズの中、ポツンと案山子のように黒い棒が突き刺さっているので、遠目でもすぐにそれがジュだと気づける。

「しかし……この期に及んで、わたくしと会うのですか」

「つれないなー。暫しのお別れだというのに」

 そう言ったミイは、どこか儚げに笑った。

「さあ。臆病風に吹かれてどこかへ逃げるのではないですの?」

「んなことするかい。仕事だ仕事ぉ」

 ミイはすっかりナビゼキに馴染んだ。独創魔に頼らずとも、人を惹きつけるなにかを持っているのは伊達ではない。

 その上で協調の独創魔を使えるのだから、姫であった風格はある。

 そんなミイと、二日ほどナビゼキへ滞在している。モヴィ・マクカ・ウィの兵士から防衛するための準備を進めていたのだ。

「誰からの命令で動くのですか?」

「私」

「……つまり、クイの独断ということですの」

 一通りの準備ができ次第、ミイは早速出立することに決めた。ナビゼキに到着してから三日目のことである。

 その目的は、企業秘密だのプライバシーを守れだのと、いちゃもんをつけては教えてくれない。

 まあミイにはよくあることなので、ジュは詮索しない。以前それで怒られたぐらいだ。

「なかなか住み心地よくて、帰りたくないけどね。まあグダグダしててもしゃーない。情が移る前に、お姉さんは退散するとしますわ。まあ八割目標達成してるやつと居ると、どうも自分が無力な感じがして、気分も滅入ってくるし」

 八割。

 足りないものは。

「そういや、ヤミの目的って明文化したことなかったよね。結局、シャ=イサと結婚することのほかに、なにがあったの?」

「イサちゃんに相応しい女になるべく、能力を育てること、ですわ。まさか、ニムになれるとは露ほども思っていませんでしたけれどね。まあ、ある意味ではセゴナ中のお墨付きですわね、わたくしの能力は。……もちろん、まだまだ未熟ではありますが」

 シャ=イサさえ揃えば。

 ジュの青春は大団円を迎え、そこからこのニズのように輝かしい青年期を過ごすことができる。

「……あ、そうだ、これをヤミに託さなくっちゃ」

 こちらへ近づいてきたミイは、一通の封筒を見せてきた。

「これ、セゴナに帰ったらニム長に渡して」

「…………」

 ジュはそれを受け取る。

 受け取ると同時に、破いた。

 力の限り。

「こんな重い荷物、わたくしは運べませんわ」

「手紙一通を重いって言われても」

 その封筒――辞表。

「んー……成功しても失敗しても、ニムを続けられそうにないんだよなぁ……ニムにはかなりの愛着を持ってるんだけどさあ。でも両立はできないから」

 ジュがシャを取り戻すという目的を抱くように……ミイもまた、独自の目的のために動いている。

 ……そうであるとは頭で理解はしていても。 

「本心からそれをニム長に渡したくば、自らでニム長に向き合ってください。そんな逃げ、許しませんわよ」

「……ヤミに言われると、ちょっと名残惜しくなっちゃうなあ。このまんまニムをし続けるって選択肢もアリかと思っちゃうよ」

「またそういうことを……」

 少なくとも今この時。ジュとミイは、言葉に出さず……いや、出せずとも、感情を共有している。

 そこには一抹の侘しさ、無情さがあった。

「わたくしは言ったことありましたわよね。クイがニム史上初の解雇宣言を出されるべきだと。わたくしを楽しませない限り、クイを逃がしませんわよ」

「ネバネバしてんなー。この陰気女」

「そんな女なのです、わたくしは。知りませんでした?」

「いやー? それこそ、シャ=イサとかいう男より、ミナヤ様より、ご両親より、私はヤミのことを誰よりも知り尽くしてるって自負はあるよ?」

「わたくしも。誰よりも、ミイ=クイという女を知り尽くしていますわ」

「はは。相思相愛だ」

「……やめてください。クイのような女から、そのような単語は聞きたくありません」

 それだけ、二人とも深い関係となってしまったわけか。

「辞表は……また今度、セゴナに行く用事があったら考えるわ。それじゃ、もう時間だから」

 そうしてミイは、ジュが思っている以上に細く、しかしなによりも大きいその背中を、ニ畑の向こうで、どんどんジュから遠ざけていく。

「友よ!」

 たまらず、ジュは叫ぶ。

「再び相見える日がこなければ、わたくしは軽蔑しますからね!」

 後ろを向いたままなので確認できないが、おそらくミイは、笑っている。

「おお友よ! そうならないよう、精々応援してくれい!」

 出会いがあれば、別れがある。自然の摂理。

 それが、少し早まっただけ。

 流れ落ちそうになる涙を必死に堪えながら、ジュは自分にそう言い聞かせた。

 もう後には引けない。

 とにかく前進あるのみ。

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