▼5
ジュが扉のすぐそばで待機してからしばらくすると、脳内で鈴の音が鳴った。
通信鈴とはまた違う、頭にがなりたてるようなやかましい音。
「いかがなさいましたか?」
扉を開いて中へ入ると、シャは椅子に深く座りながら、酷く思案気な表情をしていた。
「お前……お前を、なんと呼べばいい? 名を申せ」
身に覚えのある発音の訛り。
シャはセゴナ語に関しても堪能であった。モヴィ・マクカ・ウィの男であるのに、城に踏み入れてから一度もモヴィ語を使っていない。
こうして、モヴィ・マクカ・ウィの人間が二人もいるのを分かっているのに、それでも。
「申し訳ございません。ニムは自らの名を持ちません。それでも敢えてお呼びしたいのであれば、ニムで結構です」
「……犬に犬と名付けるのとどう違うというのか」
シャの言葉尻には憤怒が見え隠れしていた。だが、それがニムとしての役割。あくまでも影となる。そこに、ジュ=ヤミという個人は必要がない。
「ふん。それじゃ……ニム」
どうしてかシャは、そこで一度言葉を止めた。「ニム」と「ヤミ」という二つの単語を繰り返している。
ジュはその隙に、シャの背後へ回り込んだ。斜め後ろに三歩ほど下がる。これがニムの定位置。給餌の際は、基本的にこの位置から動かない。そういう決まりとなっている。シャもそれは容認している。
その大きな壁となった背中を見て、ジュは全身から熱くなる。
イサちゃん。
男になった。
あの勇ましいのに泣き虫な、あの少年が。
十年の歳月を経て、ここまで立派になって。
思わず瞑った眼から液体が溢れそうになるのを、ニムとしての使命で抑える。
「あの場では殆ど飲めなかった。セゴナは酒造りが盛んと訊いている。なにか酒はないのか」
「そちらのワインセラーに代表的なものでしたら一通り揃っております。酒蔵庫には更に取り揃えておりますが、どのような品をご所望でしょうか」
「目録とやらも目を通したが、どうも俺の趣向に合わない。記載していないものもあるのではなかろうか」
すでに晩餐会の席でいくらか酒が入っているはずなのだが、主人が求めているのならば、それこそ主人の命に別状がない限りは、訊き届けなければならない。シャは酒に強くないが、まだ少しなら大丈夫だと、ジュは培ってきた観察眼で確認している。
「そうだな、何かお勧めでもないのか。あれば適当に持ってきてくれ」
「かしこまりました」
シャが好きそうなもの。その条件を基に、合致するものを脳内にリストアップ。直様、酒蔵庫のニムへ通信鈴で依頼し、輸送の魔でジュの手元まできた。
時間にして、ジュが了承してから十秒と経っていない。
「こちらはいかがでしょうか」
「ラクシヤボソ」というラベルが貼られているワイン。
セゴナと同盟を結んでいる、北方の国のものだ。強い渋みが特徴。国こそ他国であるが、セゴナ人が経営している農園で品種改良をし、収穫された葡萄を原材料にしているため、まあセゴナの酒と言った方が収まりがいい。
「ほお。知らぬな。面白い」
部屋に備え付けられているグラスハンガーからワイングラスを取り、そのグラスにジュはワインを注ぐ。
しかし注ぎ終わってジュがワインの瓶をテーブルに置いても、シャはワインに手をつけようとしなかった。
ジュはその間を縫って再び定位置へつこうとしたが、シャの言葉に阻まれた。
「一人酒はつまらんな。お前も付き合え」
「申し訳ありません、職務中の飲食は禁じられているのでございます」
副業中ならある程度の融通は訊くが、本業中は基本的に飲食は禁止。人間味のある部分を見せてはいけない。ただしあくまでも基本的であるので、主人が求めるのならば拒んではいけない。ニムはいつだって主人の命令を忠実に訊かなければならない。
「いいから、飲め。そのぐらいの柔軟さはあると聞いたが」
「かしこまりました」
呆気なく引く。
「…………くっ」
ギリッと、弦楽器を間違った方法で弾いたような、そんな音が出る歯ぎしりをするシャ。
――ジュは若手の中では優秀なニムの一人として数えられている。「完璧に近い」姿を、シャの前で見せているのだ。
それがニムらしければらしいほど、セゴナ人となりきっていることの証である。
それがどれだけ、シャの精神を逆撫でするのか。
もう一つグラスを取り出してこようとしたジュを、シャは目に見えて苛立っている顔を覗かせたまま手で制した。
「いや、これでいい。これ一つがあれば」
シャはたった今、ジュがワインを注いだグラスを指差す。
「ですが」
主人の目の前で飲食をすることがすでにニムとしては恥じるほどの行為なのだ。
その上、主人と同じ物を使うなどと。
「モヴィ・マクカ・ウィでは、同じ食器も使えないような者を傍に置かない。知っているはずだろう? もしもこの杯を受け取れぬと言うのなら、そんな信頼できぬ使用人など『解雇』だな」
「…………」
調印式は、儀礼の方式としては全てセゴナ式で執り行う。
言い方を変えれば、文化を押しつけた。シャはそれを同意『してやった』という外聞はある。
平等を保とうというのならば、向こうに言い分があれば聴き届けなければならない。
それに、契約の上で成り立っているわけではないのだが、主人の解雇宣言は、使用人として最大限に忌避したいもの。シャは分かっててそれを言っている。
そこまで言わるというのなら、これ以上断る続けることもできないか。
今のジュには国の命運すらかかっている。軽率な行動はできない。シャはこちらのニムとしての弱みを、きちんと握っているのだ。
ジュは仕方なく、シャからグラスを受け取り、一口飲む。
「…………。ああ。これで俺とお前は、腹を割って話せる仲になったというわけだ」
「失礼ですが私はニムです。人間である以前にニムであるのです。これ以上の狼藉は私の立場では許されていません」
主人と決めた相手なら、誰であろうが貴賤はない。……だからといって、同じ立場になる使用人がどこにいる。本末転倒もいいところ。一線は区別しなければならない。
「……ふん。よっぽど、その地位が気に入っているようだな」
声を目に映すことができたとしたら、このワインよりも毒々しい赤をしているのだろう。そんな声だった。
「よくもそのように、他人のために働ける気となるものだ。そのために個性を捨てるなど」
「私は誇りを持ってニムをしております故」
感情は殺した口調をしているのだが、その強い言葉に、シャはどういう意味だと追求してきた。
「ニムの役割は、あくまでも月。それも、満月でなければ半月でもなく、三日月でもない。新月でなければならないのです。太陽の光を浴び、光輝いてはなりません。しかし月はいつでもそこにあります。地球という主人に、いつでも慕うのです。月は正面しか体を向けません。ニムもニムである他の面は見せません。ニムの個体差などは、禁忌とも言える重罪です」
影の美学。影があるからこそ、太陽の明るさが眩しく思える。ニムはあくまでも影でしかない。『闇』でしかないのだ。
なにをもって個性とするかなんて、他人が決めることではない。ジュは、自らが望むニムであることを至上の喜びとしている。個を捨てることが、個を持つこととなっているのだ。
これが正しい形なのかは、ジュには判断することができない。政治の勉強をしているミイ辺りなら分かりそうなものだが、生憎、誰かのために生きることなど、不器用なジュは考えることすら面倒くさがる。
ジュは、たった一人のためにしか動けない。
そう、目の前にいる、この男のためにしか。
「…………。そうか。そんなに誇りを持っているのか。――その誇り、どこまで保てるのかな?」
ぽつり、シャは冷たく呟いた。
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