第三章 私怨、開始 △1
小高い丘の上に生えている、一際大きな樹木。
その木陰の下、一人の少年がいる。
「…………ん」
ゆっくりと、少年の瞳が開かれていく。薄くしか開かない瞼をこじ開けるようにして、目を擦りながらむくりと起き上がる。
少しかいた汗が微風に流されていくのを感じた。
なんだか、とても気持ちがいい。
首をやや下の方へ傾け、さらに右へも傾け、丘の下を流れる小川を見る。
そこではズボンを膝ほどまで捲り上げ、脚でばしゃばしゃと水を蹴って遊んでいる少女の姿があった。
「――――♪」
少年は純粋に、見蕩れていた。
機嫌良さそうな少女のハミング。拙いながらも楽しさはとにかく伝わってくる。
あの笑顔が、たまらなく好きなのだ。
少ししか見られない、とても貴重な一瞬。
どうして一瞬なのか。その理由は。……少女と、ばったりと目線が重なり合う。
「ゃああああ!」
どこから捻り出すのか、喉を振り絞るように少女は叫ぶ。濡れることも構わず、ズボンをすぐに履き、脛を覆い隠した状態になってから、ずんずんとこちらへやってくる。
「もーイサちゃんのへんたいー。女の子の脚見ようとするなんて~」
……と、つい先ほどまでの絶叫と迫力とは裏腹に、少女の感情は「笑」で満たされていた。ただし、手だけは少年の背中をバンバンと、布団の埃を出し切らんばかりに強く叩く。
「痛い、痛いっ!」
少年は思わず叫ぶ。少女はそれを聴いて、更にニマーっと顔を朗らかにさせた。
「イサちゃんったらー、またお父さんと戦ったんだってー? また傷だらけだねー」
舌足らずな、とても間延びした口調。聴いているこちらが脱力させられてしまう。
「うるさい黙れ。いいだろそれぐらい」
片方の少年はやんちゃそうで。無愛想で。素直に慣れないから、すぐに女の子を泣かせてしまって。
「駄目だよーイサちゃーん。そんなに私と結婚するのが嫌なのー?」
もう片方の少女は活発そうで。なのに乙女チックで。少し前まで笑っていたのに、一転、目を涙で潤ませて。
「俺は女なんかに興味はない。世界で一番の剣士になるんだ」
その目にとかく弱い少年は、顔を見ずにそう言い切る。少女に泣かれるのは、どうしてか嫌なのだ。
泣かせないことこそが自分の使命……とでも言おうか。
「もーそんなこと言ってー。そんなだからお父さんに怒られちゃうんじゃなーい」
口ぶりこそ勇ましいが、少年のやっていることは子供そのもの。
それとは見事なほど対照的に、口調の割に精神はとても大人びていた少女は、年下であるくせに、まるで少年の姉かのように振舞う。少年はそれがとても面白くない。ちんりくりんなくせに。
二人の少年少女。
シャ=イサとジュ=ヤミ。
「私たちは子供なんだから勝たなくってもいいのー」
「男が最強を目指すのは当たり前だろ」
「わかんないなー。どうして男の子ってそんな喧嘩をしたがるんだろー? まーいいやー、はいイサちゃん、わたしの膝へ、どぞー」
シャは村一番の手練であるジュの父親と、よく手合わせをしている。
当然、まだ子供なシャに勝てるはずもなく、いつもいつも負けている。
負けるたびにここへ逃げてきては、一人隠れて泣いているのだ。
泣いているうちに疲れて、眠る。
眠っている隙をついたジュはシャを慰めに、こうしてこそこそと膝枕をしにくる。
しかし脚が痺れるので、少し休憩として近くにある小川で遊びつつ脚を出していると、何故かそのタイミングでシャが起きるのだ。
……ある種の定番なハプニングとなっていた。
子供とはいえ、女にとって脛は見せてはいけない秘密の部位。ジュは羞恥から叫び声を上げる。ただし本当に恥ずかしがってるのではなく、恥ずかしがってるポーズなだけ。
大人たちにも内緒な、二人だけの秘密の丘。
大樹が一本、頂上に生えているのみ。
子供たちの幼くも淡い恋の営みを、大樹は静かに見守ってくれる。そんな場所を内包している、平穏極まりない、長閑な村。
セゴナとの国境付近に限りなく隣接した、モヴィ・マクカ・ウィ内にある『ナビゼキ』。
ここに二人は産まれ、育った。
とても小さな村で、自給自足が基本。働かざる者食うべからず。これを地で進んでいる。
特産物と言える物も一つしかないし、人口だって数百人。時計なんて代物はない。日が昇ったら起き、沈んだら眠る。
原始的な生活。魔も技もナビゼキにはほとんど存在しない。
「いてて、痛いって言ってるだろ、乱暴女」
「イサちゃんが暴れるからじゃない。もー、こんなに傷作っちゃってー」
シャは肘に擦り傷ができていた。ジュはそれを見て、ズボンのポケットから小さな入れ物を取り出した。
蓋を外すと、中には膏薬が入っている。
「はーいニヅ塗りますよー」
「い、や、やめろよ!」
「一流の剣士たるものが、ニヅの一つや二つで文句言わないのー。……でもー、もしわたしが魔を使えたら、痛みを感じさせないでいいのにねー」
ジュはそう思っても、使えないのだからしようがない。まともに魔が使えない以上、道具に頼らねば。
ナビゼキは、魔を拒絶する。
女に桃臓それそのものは現存しているが、外界と拒絶された清廉な村の空気は、魔が外に発現したその瞬間に暴走をし、自分の予想とは全く違った結果が訪れてしまう。
火を出すつもりが数学の問題を解いてしまうのである。
故に女は魔を使わないし、なにより、使えない。
「長老の息子だからって偉そうに。いつかは俺が勝つんだから」
「もう何年も言ってるじゃないのーそんなことー」
「それは俺がまだ子供だからだ。大人になったらあんなヤツ、ぶっ飛ばしてやる」
勇ましいことを言うのも無理はない。
少年シャ=イサはまだ、十歳を少し超えたばかり。
ただでさえ世間を知らない年齢なのに、この閉鎖的な村に住んでいるのだ。外界というものを知らない。この村で一番強い者を倒せば、世界で一番強くなれると信じている。
「むりむり。イサちゃんに、お父さんは絶対に倒せないよー」
そんな意気込みをジュは笑って否定する。
「イサちゃんが勝ったら、イサちゃんは結婚してくれないんだからー」
二人は幼馴染。産まれた時からずっと一緒にいる。
これだけ小さな村。こうとなれば隣人はもう、家族も同然の存在。事もあろうに、年も似通っているとくれば。
小さすぎる村だし、それだけで婚約が成立しているも同じだった。
しかし思春期を迎え始めれば、大人が決めた規則に諸手を挙げて「はいはい」と従うことができなくなるのもまた男というもの。
シャ=イサは、そう言った意味ではごく普通の少年であった。
シャはいつも村を治める長老に「俺が勝ったらこんな村は出てってやる」と宣言している。長老は武にも長けていて、いつもシャと剣で取り組みをしている。結果としてはこの通り。
「誰が結婚するか。俺は長老とか村長を倒して、自分の力で外の世界を見たいんだ」
「外なんて、なんにも面白くはないのにー。ねー、だから結婚しようよー」
「嘘つけ。そんなはずあるか」
「イサちゃんに嘘はつかないよー」
村の周囲には森がある。これがまた不思議な森なのだ。
森に入って少しの部分なら探索して構わない。木の実や薬草は重要な品物。むしろ、しなければ生活が成り立たない。
問題は、森に脚を踏み入れれば数分もしないで辿り着く場所。
そこには魔で出来た障壁がある。この障壁のせいでそれより先には、大半の村人は出ることができないのだ。
村で唯一、外の世界へ出る方法を知っているのは村長一家だけ。そして村長は、ジュの祖父でもある。
ナビゼキでは村長だけは世襲制であり、『ジュ』という姓は村長一家の証。ジュ=ヤミは未来の村長だ。
小さい村とはいえ、きちんと成り立っている自治組織を治めるからには、相応の知識を持ち、且つ世界のことを知らなければならない。
ジュは勉強のためと、しばしば村長に連れられて村を出ては外の世界を見ている。
そうして見てきたあれこれは、土産話としてシャに話す。するとシャは外の世界への妄想を巡らせる。
「――外なんて、人がいっぱいいるだけ。みーんな、ナビゼキを利用しようとするばかり」
閉鎖された村なのにどうして、ジュは外のことを知らないといけないのか。
ナビゼキが在籍するモヴィ・マクカ・ウィは、ただでさえ情勢が不安定。その上、セゴナとの国境付近に位置する。
そんなわけで軍事上、拠点として利用するにはかなり利用価値の高い場所にあるのだが、この村はそんなことに利用されていない。
理由は二つ。
一つは障壁が張られていて、その周辺に近づくだけで空間が捻じ曲がってしまい、決して外部からは村に入ることができない。そのため、存在がそもそも認識されていないこと。
もう一つは、ナビゼキ村は特産物があって、それがとても貴重品なこと。
「あともうちょーっとでニヅも収穫だねー。これがあれば、ナビゼキはなにもいらないよー」
「またあんな面倒くさいことすんのかよ……」
「駄目だよイーサちゃーん。ちゃーんと手伝わないとねー」
膝枕をしているジュの眼には、一面の黄色が広がっている。もうそろそろ収穫の時期だ。
今が一番、太陽に輝き、金色の世界を彩っている。
ジュはこの季節が好きだ。
ニヅとよばれるその植物は、ナビゼキの住民には薬草だと信じられている。
その証拠に、膏薬にして傷口に塗ればたちまち傷跡はなくなり、三日三晩干したニヅを煎じて飲めば見る間に身体に活気が溢れる。魔のようでもあれば技のようなものでもある。
ナビゼキの特産とされる所以、それは……ニヅは、ナビゼキの土地でないと生育しない。
どの条件が必要なのかは研究が進んでいない。土地柄なのか特殊な栄養素でもあるのか。
とにかく、ナビゼキを一歩でも外へ出たら、もうニヅは地面の下に根を生やさない。
そんな理由もあって生産量の少ないニヅは自然と高い値段で売買される。そして得た利益で村に必要な物品……村では自給することができない、金属や塩、堆肥などを購入する。
ナビゼキを知る一部の人間とは、主にニヅを売買する仲介人のことだ。
こうしてナビゼキの村人は贅沢な暮しは出来ないながらに、長閑に過ごしているのだ。
ナビゼキの象徴こそ、ニズなのである。
そのニヅが、燃えている。
一面のニヅ畑が煌々と輝きながら、いっそ美しいまでにその命の全てを炎に捧げている。
それがどれほど、村人の精神を挫くのか。
「父さん! どうしてあいつらを止めないんだよ!」
「無駄だよ。悲しいがな、それが運命なんだ」
村の外から突如現れた、白いドレスを着た金髪の女。
彼女はシャが初めて見る『魔』という異界の力を使って、あらん限りにニヅに火を付け回っている。
「もういい! 俺が行く!」
「お、おい! 待て、イサ!」
もうすぐ収穫なんだ。あれがなきゃどうやって暮らして行けばいい。ニヅを売った金で農作物を育てる肥料を買っているんだ。このままでは飢え死にしてしまう。
なのに大人たちは動かない。女のしている行動をただただ黙って見つめているだけ。
怯えているのか、戦いに。
こうなったら俺が戦うしかない!
シャは血気盛んに、剣を手に持つ。
――その敵意を向けた、ほんの刹那の間も入れずに。
愛用している剣は紙のように吹き飛ばされ、大股で五歩ほども離れた地面に突き刺さる。
風が一陣吹いただけのように感じた。
普段なら爽やかで心地良いような、けれど今は熱を帯びた、ただひたすらに熱いだけの風。
臆したのか? だから柄から手を離してしまった?
この手の震えはなんだ。俺は怖がっているのか。
シャは自らを諌め、剣を取り拾う。
その時だ。風が女の魔であったことに気が付いたのは。
刀身がボロボロに錆びていた。間違いなく、つい最近鋳造したものなのに。
「無駄だ。無駄なんだ。気持ちは分かるがやめてくれ。あの方が本気になったら、俺たち人間は勝てない」
シャの父親が窘めようとしてきたそれが余計に、シャの闘志を燃やした。
「だからっていいのかよこのままで!」
戦うために、なにも剣だけに頼る必要はない。やろうとさえ思えば、どんなものだって武器にできる。
シャは農耕用の鍬を持って、女へ向けて突撃する。
今度は風が吹かなかった。シャに纏わりつく炎を掻きながら、女の元へたどり着く。
「うおおあおおおああああおあああああ!」
雄たけびを上げながら、果敢に女に鍬を振るう。
「」
女は一言すら発さず、シャを一瞥すらせず。
それでも尚ニヅを燃やそうとしている。
その無防備な背中へ、シャは鍬を振り上げ、ざっくりと傷を――つけることなど、できなかった。
「これほど恐怖を見せてもまだ妾に刃向えるか」
肉を刺した感触はあったのに、女の肌は血が出るどころか、少しの傷跡すら残らない。
所詮、技ですらない原始的な攻撃では、魔に対抗することはできない。
それどころか。
「――――!」
業火がシャを襲う。ニヅ畑のど真ん中。逃げる場所などどこにもない。
ちくしょう、このまま俺は死ぬのか。何も守れないままで。
死が視界を横切り、振り払おうと堅く目を閉じる。
そう覚悟していたというのに、むしろ心に灯る安心感。幼い頃、母に抱きしめられた温もり。
……ジュに膝枕をされている時と同じ、精神の解放。
「…………?」
目を恐る恐る開けると、シャの身体の周りに、泡のような膜が張られている。
触ってみると、それはぶよぶよと押し返した。
火の中心にいるというのに、泡のおかげなのか全く熱くも暑くもない。空気の対流はないが、むしろ内側は涼しくすら感じた。
――これが、魔。どう対抗しろと。
武器を持ちだしたのに、羽虫ほどにも扱われていない。
「逃げろ。どこまでも逃げてみろ。そなたはここで死んでいいような人間ではない」
男のような口調の、凛とした女の声。
もしもこの場でなく、もっと平静な状態で出会っていたら、彼女の声を聴いただけで少年は恋に落ちてしまうだろう、そんな清廉さ。
しかしそれが、さらにさらにシャの激情を煽る。
くっそ! 情けを掛けられたのか、まだ子供だからって、手加減をしやがって。……森の外にはこれだけ強い奴がいる。
この感情は、シャの価値観を根底から覆すものであった。
「妾に勝ちたいか。それなら外を知ることだ。そなたの潜在能力はそのうちに妾が国の益となる。しかしこの村で燻っていてはそれもままならん。妾に勝ちたいのならモヴィ・マクカ・ウィへ行け。村を覆う障壁はすでに消している」
怒りに我を失っているシャは、その意味することを考えもせず。
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