▼8

「はい、夕食持ってきたよー」

 私服のままお盆の上に食事を乗せたミイが部屋に入ってきた。公私が微妙にごちゃごちゃになっている。

 その方が気楽ではあるが。私服と制服を着替えさせまくっているのは申し訳ないから、ジュの前では一貫して公私の私で接してくれるよう頼んだのだ。

 こんなミイを見ながら、ジュは一時間ほど前にしていた金髪の少女の話を思い出す。

 ――ミイ=クイ。モヴィ・マクカ・ウィで数百年の歴史を誇るクイ家の、元=第一王女。

 順当にいけば将来は王女を約束されていた女性。

 燃える紅い髪は、人身を導く希望の炎。

 それがこうして、セゴナでニムをして、あまつさえ一日だけとはいえジュに奉公している。

「え、それってどうやって」

 しかしそんな『下らない』ことで思い悩むよりも、今は目の前の疑問。ジュはそういう性格をしているのだった。

 横幅がジュの身長ほどもありそうなお盆を、片手で持って平然と歩いてくるミイは、ある種のホラー。しかもお盆の上には、ぎっしりと皿が詰められている。

「ニムになればこんなのすぐに慣れる慣れる。慣れないうちは大変だけどね」

 試しにジュも、ミイに頼んでお盆を渡してもらい、両手で持ってみた。

 ……重い。五秒とて持ち上げることができない。すぐに腕全体がプルプルと震える。

「できませんって、わたしには……」

 ただでさえニムになるのは諦めかけているのに、追い打ちをかけるような事例だった。

「ニムになったらって言ってるじゃんか。私だって昔はできなかったよこんなこと。だからこそ、ニムに『なれる資格』を問う試験なんだってこれ。即戦力なんて求めてない。今できるかどうかは関係ない」

「そうは言いますけれど、やはりここまで違いを見せられてしまうと……」

「ほら落ち込まない。普段はもっと明るい性格してるだろうに、なんか今日は暗いねえ」

「それもやはり選眼で?」

 一目見ただけで相手のことが分かる能力のことを、ニム達は【選眼】と呼んでいるようだ。

 それが自分の奉公するに値するかどうかを見極める能力だから、選ぶ、眼。

「そんな感じ。さ、ご飯時に辛気臭い話なんかしないで、セゴナが誇る料理を堪能してよ」

「……うっわあ、すごく美味しそうです」

 ミイが運んできた料理は、それぞれ量は少なくても、とにかく種類が多い。

 小麦粉あれば米があり、野菜あれば肉あり。

 他国の文化を積極的に取り入れるのがセゴナの文化だからか、無国籍というのか、節操なく各国の料理が並んでいる。それでいてセゴナ流のアレンジはされているのがなんとも。

「もしも気に入った料理があって、もっと食べたかったら言って。厨房担当に作らせるから」

「いえ、わたしなんかにそこまで働かれなくても」

「厨房担当は食事作るしか能がないから遠慮すんな。お客様はそういう立ち位置でいいの」

 ニムの中でも派閥争いはあるようで。

 けれど別に陰険ではなく、笑いながら。そういう身内ネタに近いものがあるらしい。かしましい。

 ミイは片手でお盆を持ち、空いた手でズボンのポケットに入れておいた一枚の板きれを取り出し、軽く上下に振ることでジャキンと広げた。

 次に腰の高さまで降ろすと、四本の棒が床に向かって伸びる。

「……食事机?」

 物を載せる台はペラペラだし、脚は枯れ枝の方がまだ太いと思えるような細さではあるが、それは間違いなく、食事に用いられる、机の形を成していた。

「ほんとは来客用のを持ってこようとしたんだけど、ジュさん、それだとかしこまっちゃいそうだったから、簡易な机を持ってきた。脆そうって思ってるかもしれないけど、壊す方が難しいって言われてるほど頑丈だから。試してみて」

 テーブルにぐっぐっと二回ほど体重を掛けてみる。ぴくりとも動かない。

 逆に、下に手を当てて持ち上げてみる。紙切れを持つようにすっと浮かぶ。

「使い方次第では武器にもできるよ。私は絶対にこんなのは選ばないけどね」

 こんな机、誰が開発するのだろう。普通の机でいいのでは、と思わなくもないジュではあった。

 ちなみに椅子は、部屋に備え付けなものを使った。

 とにもかくにも、ミイは料理を並べていき、ものの数分もしないうちに食事の準備をする。

 一人で食べるのも寂しいし、ミイにじっと見つめられながら食べるのも落ち着かないので、「同席しません?」とジュはミイを食事に誘った。

 予想通りだったのか、ミイは特に抵抗する様子もなく、「あいや了解」とすんなり席を共にした。

 本来ならニムが主人と同席するのは禁忌にあたるようだったが、そこは特別処置。原則はあくまで原則でしかない。

「しっかし、ジュさん。さっきの選眼、かなり的を射てたよ。それはもう驚くぐらいに」

「そ、そうですか? ほとんど、勘のようなものなんですが……」

「この能力は論理的に考えるものじゃないから。ふと思ったこと、それこそが真実。考えて推理しているようじゃむしろニム失格。ほら、離脱した三人のニム見習いは、お客様に色々と質問なさっていたらしいけど、それは逆に、自ら落選しに行ってる」

 ……となると。

 本当に自分はその能力を持っているのか。

 俄かには信じることができない。

 セゴナに来る前は、おかしいなあ、皆は分からないのかなあと思いながら過ごしていたが、そんな感覚、この数年ですっかり忘れていた。セゴナで生活をしていれば、他人の気持ちが分かるだなんて、生物は呼吸をする事実ほどに当たり前なことだったから。

「仮にそれが本当だったとしても、では一体、誰に奉公すれば……?」

 ジュは食べながら思考する。知識のないジュでは、現在与えられたごく僅かな情報のみで乗りきらなければならない。

 しかもその情報は、個々ではてんでバラバラだったりする。

 どう繋ぎ合わせるか。

 一番地位の高い人間。あの中だとオーナが一番となるのか? 神立大学といえばミナヤ=クロックが私費を投じて建てた、国内どころか世界に視野を広げても最高位となる最終教育機関。ジュからすれば、化け物としか表現しようのない頭脳の持ち主が集まる場所。そこの教授をしているのだから、順当と言えば順当なのだが……、

『あんたが疑問として残したことを片づけておきなさい』

 それはあの金髪の少女の台詞だ。

 あれほどの重圧。単なる少女が出せるはずがない。

 絶対に、何か一物を抱えている。完全なる虚言なものか。

 手に入っている情報なら活用するべき。

 ジュの悩み。それはもちろん――

「お、お、す、ぎ、ま、す」

 これで悩みが一つなら、信じて突き進むだけなのに。前に踏み出すだけなら得意だ。

「しかしその中で……」

 行動に起こせば解決できそうな悩みは二つほど、なくもない。ここで歩かなくてどうする。

「ねえミイさん。質問とお願いがあるんですけど、いいですか? 私事に関わるので、嫌ならば嫌と断ってくださっても結構ですので」

「…………」

 ふう、とミイは息を大きく吐き、やや疲れたような、それでいて楽しそうな眼をジュに向けた。

 眼と眼が触れあう。心と心が通い合う。アイコンタクト。

「いいよ」

 ミイは確実にそう言った。

 本人がいいと言ったならば、ジュのする行動は一つ。

「そうですか。なら、まず質問を。……殿下。あなたはどうしてセゴナにいてニムをやっているのです。人を支えるよりも、人に支えられながら目立つのが、お姫様の仕事でしょう」

 決してニムは下等な職業ではない。いや、セゴナは職業に貴賤の概念を持たない。

 それでも、人前に出るか出ないかの違いはある。

 ミイは人前に出なくてはいけない類の人間なのだ。

「まいったまいった。まさか私の正体がばれてるなんて。いつから? いきなり私の名字を当てた時は、あん? って思ったものだけど」

 正体を隠す気なんてさらさらないのか、へらへら笑いながら呆気なく白状した。

「わたしのニムとして奉公してくださった、その時から」

「そんな早く。ほとんど最初じゃんか。選眼で?」

「わたしの選眼とやらは、名前と職業と年齢ぐらいしか分かりません。それも、現在の」

「つまり、すでに知ってたってことか」

「戸籍上では生粋のモヴィ・マクカ・ウィ人だったんですからわたしは。ミイと聞けばすぐにピンと来ますよ。それまでは『もしかしたらお姫様じゃないかなあ』ぐらいでしたけれど」

 答え合わせは、金髪の少女との会話にて。

「十分十全。これでも自分の身分を隠すのは得意だったんだけどなあ。そうしないと、生きてこれなかったから。いやー、私も鈍ってるねえ。平和ボケだ」

 遠い過去を回想する、ミイ。

 モヴィ・マクカ・ウィは七年ほど前、ミイ=サロ王が側近の謀反により暗殺された。その殺された王の娘こそ、ここにいるミイ=クイ皇太子。

 ……いや、「元」をつけるべきか。

 側近は一族郎党を皆殺しにしようとした。ミイの姓が付く者は新政権には必要がない。もしもミイをかくまったりすれば、その村ごと焼き滅ぼす。

 実際に、かくまったことが露見してしまい、地図から抹消された村が存在するほど。

 ミイの姓を持つ者は百人を超えていたが、王が暗殺されたその日に半数は殺された。

 翌日の昼までには更に半数が捉えられ、一週間が過ぎる頃には、国外に逃亡しようとした者の九割九分が殺された。

 つまり残った一分。

 それこそが、ミイ=クイという女性。

「――ですがまあ、わたしにとって『だから何?』という話ですが」

 ミイの事情を知っているからと言って、ジュにできることなんてない。

 城でミイがニムをしているということは、セゴナの国籍を獲得しているということ。

 今となっては、ミイはどこかの国の姫などではなく、単なるセゴナ国民の一人。

 ならばジュがそのことを慮る理由なんて、髪の毛一本の直径ほどもない。

「それも凄いよね。肝が据わってるっていうか。普通は私の境遇を案じたりするものなんだけど? 私の正体を看過した人間で全く踏み込んでこないのは、ミナヤ様ぐらいだったのに。私の希少な体験を、ジュさんが奪っちゃうだなんて」

 そうやって生きてきたのだろう。ミイは実に慣れた様子でジュに言ってきた。

「確かにわたしは『お姫様』に憧れますよ、女の子ですから。だからニムの試験を受けているのですし。……ですが、わたしは『普通の女の子』なんです。まだ力がありません。わたしにできることがあるというのなら協力します。ミイさんが無償の奉公をしてくれているように。しかし、一国の事情に首を突っ込めるほど、老熟しているわけでもありません」

「ん、化けの皮が剥がれてきたな。どこが普通の女の子なんだか。自称にもほどがあるよ」

「はて、なんのことでしょう。私は先ほど、割と本気で枕に顔をうずめてばたばた悶えながら泣いてましたけど」

「……なんの話?」

「こちらの話」

 あの自分が素なのであって、こちらは演技の自分。

 少なくともジュ自身はそう思っていた。

 さて、喉につっかえていた小骨は取れた。

 ならば、残るはもう一つ。

「そしてこちらは、質問ではなくお願いの類です。ミイさん。ニムって、表向きだけでもクロック教の信者でないとなれませんでしたよね?」

 ニムは神に仕えるという名目なのだから、神を崇めるのはある種の当然ではある。

 とはいえ、例えばミイ。元々モヴィ・マクカ・ウィ人なミイは、そちらはそちらで宗教があるだろう。いくらどこかの国から亡命したからと言って、宗派まではそう簡単に変えられるものではない。

 このように、例外な人物だって、ニムの中にいないわけではない。だが、セゴナでは信仰に関することは何にもまして自由度が高い。ミナヤを嫌い、全く別の神を信仰するニムが居ても構わないのだ。

 だからこその、表向き。その程度の拘束力しかない。

「うん。……というか、随分話の切り替えが早いね」

「わたしがニムになれないと、ミイさんが自らの正体を明かした意味がなくなりますので。折角出会えたのですから、この出会いは無駄にしないようにしませんと」

「そういう台詞は、是非とも男性から訊きたいものだけどねえ。年下の女の子から言われるとは思わなかったよ。……で、宗教のことだけど、この城に仕事をするためにやってきておいて、ミナヤ様を信じないのもどうかと。ミナヤ様が嫌なら、従事することすら嫌だろうし」

「そうですよね。でしたら、司祭の資格って持ってます?」

「一応。あった方が色々便利だから持ってる、って感じだけど」

 仮にも国教であるためか、司祭の資格があれば生活する金に困ることはなくなる。

 もっとも水と栄養と睡眠と就職は無料な国であるから、それほど給金の額の大きさに価値はない。

 だからなのか、資格を持っている人はどの時代でも、国全体でも千数百人程度となっている。ちなみに寺院の数は数千の単位。慢性的な人材不足。

 どうあれ、ミイが持っててくれてよかった。

 これなら、ジュ一人では行けなかったあの場所へ足を踏み入れることができる。

「条件は整っていました。ミイさん。また一つ、我儘を言っていいですか?」

 相手の正体を知っておきながら、ジュは『お願い』を言う。

 それは使用人に対する命令ではなかった。

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