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『失礼します。ジュ様と面会したい方がいるのですが、お目通し願いますでしょうか?』
びくぅっと、それはもう蛙も驚くほど、座った体勢のまま脚の力だけでベッドを横断できそうに大きく跳ね上がる。
こ、こんな情けない姿まで見られるわけには!
「は、ひ! 大丈夫てす!!」
ぐしぐしと目をこすって涙を拭く。
誰がどう聞いても大丈夫ではないのだが、ジュ本人は泣いてないことを誤魔化せいるつもりだ。これでも。
しかし、はて。自分に会いたい人?
『そうですか。それでは少々お待ち下さい』
誰が会いたいのだろうと疑問に思っていると、扉がすうっと開く。
そうして部屋に入ってきたは、先ほどまで一緒に行動していたジュお付きのニムであった。
ただし違う点は、束ねられた髪は解かれて揺れるたびに火の粉のようにちりちりと揺れ、さらっと自然に背中を伝っていること。ニムの制服であるツーピースが、白いシャツとぴったりとした幌地のズボンにすり替わっていること。先ほどまでは無表情であったのに、やや太い眉が意思の強そうにきりっと内側に寄り、口角は上がり、なにやら小さな獲物を見つけた猫のように目が炯々としていて、色鮮やかに表情が作られていること。
この三点。
「単刀直入に聞くけどさ、ジュさんって、モヴィ・マクカ・ウィの出身だよね?」
更にもう一つ付け加えておく。
淡々と事実を告げるだけだった言葉も(口調自体は普通であるが)歌うかのように抑揚をつけ、はっきりと言語にしていること。
ただし、結構な訛りがある。ジュには非常に親しみがある訛り方だ。
「…………。はい。最南部の出身です」
呆気に取られる。ジュの脳みそは、思考を停止させかけていた。
だからだろうか。久しぶりにその名詞を聞いたというのに、あまり驚きがなかったのは。
「よかった。違ったらどうしようかと思った。私もモヴィ・マクカ・ウィ出身なんだ。私は都心部出身だけど。ミイ=クイっていうんだ。よろしく……って言うのも変だね」
てへへ、と控えめに笑う。
「ああ。だからそういう恰好……」
ジュはミイと名乗ったその女性の言葉で、大体の事情は察した。
ミイの着ている服装……というかズボンは、ほとんどの国で好まれない。セゴナに限らず世間一般では、女性は脚の線が分かるのはよろしくないこととされているのだ。
だから脚が見えないようにスカート状の服が通例。
ジュが今着用している衣服だってスカートである。
「ほら、試験監督のおばあさんがいたでしょ? それがこの城の中で一番偉いニムで――ニム長って言うんだけど――ニム長とかには、城の中だとはしたないって怒られる」
試験内容を伝えるだけなのにあれだけ怖かったのだ。
もしもあの怒声を叱ることに使われたとしたら……ジュは想像するだけで鳥肌がぽつりぽつりと立ち上がるのを感じた。
「というより、ニムの時と随分人格が違いますね」
「そう? むしろこっちが本性なんだけど。ニムって基本、演技に近いし。いつもあんなだったら、息詰まっちゃうよ」
言われてみたらそれもそうか。
公私の私まで完璧に振舞える人間がいたら、それはもう人間の枠を超えている。
ヒトは所詮、まだまだ理想を追い求めて成長している段階。
「それにしても……本当、懐かしいです。そういう恰好」
やっと脳みそが通常運行を開始してくれた。そして過去の記憶を石炭として、モヴィ・マクカ・ウィにある村で暮らしていた当時のことが、鮮やかに蘇る。
今でこそジュはセゴナ国民として生きているが、数年前まで全く違う環境で暮らしていた。
ジュもその昔はスカートではなく、民族衣装とも言える女が着用するズボンを履いて花畑を駆け巡ったものだ。
そう回想して、ジュはある男の子のことを平行して思い出した。
当時の記憶にはなければならない重要な人物だ。
幼い頃、ずっと一緒に居た男の子。
結婚しようねと誓い合った仲。村の田畑が焼き払われると同時に行方不明となってしまった、ジュの初恋の相手。
今頃どうしているのだろう。
幼い頃の話とは言え、世界で一番強い戦士になることが夢だった男の子だ。
きっと今も同じで、なにかしら夢に向かって行動しているに違いない。
平凡に育てられたジュですら、この数年でここまで全てが変わってしまった。
たった一人の人間を変革させるのに、五年という歳月は十分すぎる。【男子三日会わざれば刮目して見よ】とはどこの国の言葉だったか。
女の自分でこれなのだから、その言葉が本当なら、彼は一体どのように変わってしまっただろう。
「やっぱりジュさんも、モヴィ・マクカ・ウィを捨てたんだね。理由はどうあれ」
「はい。そうせざるをえなかったんです。目的のためには」
ミイはジュの目をじっと見つめる。
ああ、思考が読まれてるな。
なにもおかしなところを感じないほど、ごく自然にジュはそう思った。
「――まあそれはどうでもいいや。同郷の人ってセゴナに来てからは初めて会ったけど、南部は特に地域色が強いから、共通の話題もあまりないだろうし。それに自分から振っておいてなんだけど、人の過去を探るのは好きじゃないんだ。ただ、私がニムになった頃にジュさんが一躍時の人になったのを、ニム見習いの中にあなたの名前が入っている時に思い出して。だからちょっと懐かしくて、あなたのニムに立候補したんだ」
ニムに立候補。
勉強したことが正しければ、『城を訪れた客人は、ニムが自ら志願した時、滞在中の客人の世話をする』ということだったか。
……ミイは、自分の意思でジュのニムになった、ということ。
そこにはどれだけの思惑が込められているのか。
ジュがそう疑問に思っていると、ミイは自分から切り出してきてくれた。
「それで、私がここに来た理由なんだけど……やっぱり訊きたいでしょ?」
「はい」
「だよね。じゃあ、こほん、本題」
これまでとは打って変わって、ミイは咳払いを一つすると、真面目な表情で直立した。
私服とは言え、そのピンと張りつめている背中は、間違いようもなくニムとしてのものだった。
「本題は二つあるんだけどその一つから。……まだ、ニムになる気はある?」
「…………」
どうなのだろう。
もちろん、ニムにはなりたい。
けれど希望がない。
それはやはり、あの女性と出会ってしまったことが大きい。
ひたすら寡黙で、存在が希薄。存在を秘匿されたジュの故郷の名前すら知っている全能ぶり。
あの様子ではおそらく、ニムになれる条件を全て併せ持っている。
加えてあれだけの重圧。
何者も近づけさせない黒染めの空気。
敵として戦っているという事実がすでに戦意を喪失させる。
肉食動物が目の前に徘徊している傍らで、黙って怯える草食動物となってしまう。
「それはなりたいですけど……でも大体、何かの間違いなんですよ、私が試験にここまで残るなんて。あれだけ理知的そうな人ばかりだったのに、私だけ浮いてましたし……」
「ううん。そんなことはないし、諦めなければいくらでも機会はある」
ミイの口調は、ジュを勇気付ける、とても強いものであった。少し語気が荒くなっている。
「私の時もね、まさかセゴナ人でもない私が、最終試験まで残るなんて……って思ったよ。実技は多少自信あったけど、筆記が駄目で。でも見てくれる人はいた。その人のおかげで私は合格した。ジュさんだって絶対に誰かは見てくれてる。例えば、私とかね」
「でもわたしは、この試験でまともな行動をできませんでした」
「うんー……これまでの結果を見る限りは合格最低線をずっと通ってきた程度みたいだけど、それぐらいは許容範囲。だって、試験って二十五次試験まであるんだもん。運は必要だけど、運だけでも無理。ここまで残ってこれたからには、それなり以上の理由が必ずある。私の時だってそうだった。だからさ、ジュさんにも何かしらがあるんだよ。それを見つけることが出来れば、ジュさんは合格することができる」
「……希望を持っても、いいんですかね、わたしは」
「うん。むしろ希望は持たないと駄目だよ。ニムなんて自意識過剰なくらいがちょうどいい」
そうか。そうだったのだ。
もともと自分は、こんなことでぐちぐち悩む性格ではない。
明るく元気がモットー。
小父さんも小母さんも、初恋の男の子ですらそれだけは褒めてくれたではないか。
当たって砕ける。
ジュは一度当たったが、まだ砕けてはいない。
ならば、もう一度当たることができる。
それだけの話だ。難しいことでもなんでもない。
「だったらわたしは、今度こそ衷心に、ニムを目指すことにします」
気分が晴れた。
どうせもうこのままだと挽回できないのだ。
ここは一つ、赤っ恥を掻くことを覚悟で特攻していこう。
そうやって心を覆っていた雲が晴れた、その時だった。
「……うん。分かってたけど、まずは第一の試験は合格だね」
ジュの言葉を訊いたミイは、そんなことを口にした。
「――はいぃ?」
試験? なんの? どれの?
ジュは頭に疑問符を、子供が無邪気に雪を投げるような軽い感覚で飛ばす。
「いや、これすらも、ちょっとした試験だったんだよ。ま、敵陣営なわけだからねぇ」
ズボンのポケットから髪留めを取る。ミイがニムの恰好をしていた時にしていた物と同じ髪留めだった。
小さな青い鈴が付けられている。その鈴をちょこんと摘まんだ。
「なんです、それ?」
「ニム専用内部通信鈴。城の中は、電波ってのを流してて、この鈴はそのうちの一つを受信できる装置なんだ。鈴が首筋に当たるように髪留めとすることで受信できるの。皮膚からさらに骨まで伝って、脳まで届く。そうすると、情報が聴こえてくるんだ。送信することはできないから、受信のみなのが最大の欠点だけど」
ミイは髪を纏めあげるまでの空いた時間を有効に、且つついでのように説明してくれる。
「なんと便利な」
声で意思疎通するか直接脳内に叩きこむかの違いしかない点以外は、電話みたいなものだろうか。あれもジュは仕組みをよく分かっていない。
「ちょっと待ってて。報告を聴いてくるから。…………ん、ん……」
……なんだろう、この喘ぎ。何故かこちらがドキドキさせられる。
ミイが身体を仕切りにモゾモゾさせている。スカートではなくズボンのせいで、膝が擦り合っているのが克明に見えてしまう。それのなんと色っぽいことか。
こんな時、エス小説の読書を趣味としていることが悔やまれる。自分は男の子が好きなのに。
「うんうん、他の三人は不合格、か。……状況が変わったよ。ジュさんにとってはいい方向かなこれは。他の三人が辞退したんだって。ニムになれる自信がなくなったんだってさ」
それは流石に青天の霹靂であった。これまでの驚きと種類が異なる。
「どうして……わたしよりもずっと順調でしょうに」
あたふたしていたジュと、その正反対の理由で全く動かなかったあの女性以外の三人は、積極的に行動していた。
そこにはニムになりたいという貪欲さがあった。
それだけ情熱を持っていたのだ。
それが何故「自信がなくなったから」などと。
「さーてね。私は事の顛末を、後で同僚に詳しく訊いてみる。ジュさんも知りたかったら、無事ニムになって、私たちの同僚になることだね」
これまた吹っ掛けるような物言い。
「ともかくこれで、残りのニム見習いは二人。さて、ここから先は何が待ち構えているのか私も知らない。私に与えられた仕事は、ジュさんの覚悟を訊くだけだったからね。あとは、ジュさんが自分の意思で行動するだけだね」
「余計に、暗中模索となってしまいましたか。……どうしましょう」
相対的な状況は好転しただろうが、ジュの直面している「誰が一番偉いのか」という問題をなんとかしない限り、どれだけ誤魔化そうが意味はない。
すると、ミイはにへらーとした笑みを浮かべた。
「実はさ……ニムが協力するのって、違反じゃないんだよね。どう?」
ジュに課せられた試験を本職のニムが手を出すなど、それはもう反則な気がしてならない。
ここまで魅力的な提案を出すなんて、到底受け入れられるような話ではない。
……が。
――ニムは奉仕することこそが最上の喜び。
誰彼に仕えるとかそういったものの前に、まず第一に飛び出す基本事項。
つい先ほど、突き進むと決めたではないか。今の自分はどうかしている。
ニムが嘘をつくはずがない。
今は素直に信じるべきなのだ、この場面では。
是非とも、援軍を頼もう。
そうしてジュが考えを固めたまさに時だった。
「……ん、んんぅ!」
ピクン、と大きな反応が一つ。またもミイが喘ぐ。
「え、なぜになにがなんですか!?」
ミイが突然大声を上げた。上ずったような甲高い声。少し艶が入っていた。空気に混じって甘くほぐれる。いっそ香りまで漂ってきそう。
「ふう、はあ、ふう……あー、だから嫌なんだよねこの通信方法……年取ると公私の私でも何も感じなくなるって言うけど……」
これもジュは、何が感じないのか質問したかったが、踏み込んではいけない領域な気がしたので止めにしておいた。
「ごめんごめん。驚かせた。髪に結わいたままだった。追加で連絡があってさ、ちょっと不意打ちだった。刺激が強いんだよこの通信。ほら、静かな部屋にいる時にさ、いきなり電話がジリリって鳴ると驚くでしょ? あれみたいなものだよ。ニムの恰好をしていると精神が引き締まってるのか、特に反応しなくてもすむんだけどねえ……」
その例えで分かったような、余計に分からなくなったような。
ジュは声を上げて驚く時はキャーとか声を言うのだが、少し大人の女性になると、こんな色っぽく驚くようになれるのだろうか。小母さんはそんなことなかったと記憶しているのに。
「今、食堂で試験員が食事をしているんだって」
試験員。おそらく、お仕え候補のことだろう。それがニム側の呼称なのか。
「各部署で職務中のニムは、食堂へ近づかないようにと、私宛てに通達が下りたの。……信頼されないってつらいねえ。私は私の好きなように行動してるだけなのに」
複数形な命令なのに、個人宛て。
……このミイ=クイという女性、見た目や話し方に違わず、随分と奔放な快楽主義者であるようだ。
「まあようするに、この場合は私とジュさんが暫くの間、食堂に行かないでくれっていう話なんだ。さっきニム長が、今日はもう接触を禁ずるって言ってたでしょ。今は夕食時から少しずれているし、食事を部屋にお持ちすることで了解させろって命令。もしも食堂に近づいたら、その時はどうなるか分かってるよね眼鏡キラリンって感じ。……本当ならもっと堅苦しく同じ内容の説明をするんだけど、今は公私の私だからね」
好き勝手動いてはいいが、食堂付近は進入禁止というわけか。
ピキンと。
ジュの脳裏に、ある映像が浮かんだ。
どうせ今はもう何をやっても落ちて当然なのだ。なら、行動をしないだけ無駄である。
「――ミイさん。今日は、わたしのニムなんですよね?」
ミイがぴくんと小さな反応をした。
それまでの砕けた態度から一転、恰好こそ私服だがニムという職業人として、ピンと背中を張りつめ、目を閉じる。
ただ、顔は笑っていた。
「どこまでなら、わたしの言うことを聴いてくれるんですか?」
「それが主人のしたいことなら、どんなことでも」
それこそが、単なる使用人では終わらない、ニムとしての精神。
「なら、お願いがあるんです」
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