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一度外へ出て、中庭を通って礼拝堂へ。
途中にあった噴水は、舞い上がる水が見る角度によって、夕焼けのような赤になったり、大海のような青になったり、静かに広がる森のような緑になっていたりと、他にも何色も、絶え間なく色が変化し続けていた。
色を見ているだけで一日が軽く吹き飛んでしまうだろう。
つくづく、平凡なんて存在しない城だなあと思い知らされる。
「こちらがトイチ歴六五年に、我が国で初めて創立された礼拝堂でございます。神に最も近い場所として、クロック教信者の政治家などは、毎朝こちらで拝んでから仕事に励む、ということが日課となっております」
今が九二四年だから、ざっくり千年近くも昔から建てられているのか。セゴナを除いた先進国と言われる国だってこれほど長く続いた王朝はない。平凡に生きてきたジュには重苦しいほどにこの城全体は歴史が積み重なっている。
「私はここでお待ちしていますので、どうぞごゆるりと、礼拝してください」
セゴナの国教、クロック教は「信じる者は一人で勝手に祈っていろ」というスタンスを取っているためか、誰かと一緒に拝むという習慣がない。だからニムは外で待つと言った。
それよりも「ゆっくり礼拝するという表現は滅多にしませんよねえ……」と、ジュはどうでもいいところに驚く。この施設を利用する人間は、一刻でも猶予があれば公務に時間を当てようとするから、ニムは敢えてそういう言い回しをするのだろうと見当はついたが。
「……あれ?」
扉を開けて中を見てみると、思っていたよりも質素な造りをしていた。
参拝者用の、木で彫りだされた長椅子の向こう。
檀上の上に等身大なミナヤ=クロックの塑像が建てられている。
たった、これだけ。
そのミナヤ像も、代名詞とも言える蜂蜜色の髪と、男とも女とも解釈できる中性的な赤子を抱いているという、記号としてのミナヤ=クロックでしかない。
本物のミナヤ=クロックはあまりにも美しすぎる故、ミナヤ本人を見たことのある芸術家ほど、偶像を創造することを不可能と感じ、自らの腕のなさを突きつけられて発狂してしまうほどのため、このように記号を集めただけの簡素な像になってしまう……とは美術の教科書に載っていたこと。
本山だというのにこれしかないのかと、少し落胆してしまう。
もちろんこれはこれで理由があるのだろうけれど、もっとこう、ぱあっとしたものを想像していたもので。
それでもどうせなら一つお祈りでもしていこう。試験に合格するとまではいかないまでも、せめて大きなヘマはしないようにと神様へお願いの一つぐらいは。
そうしてミナヤ=クロックの像の前まで歩いて、
――その時になってからようやく、本当にようやく、察知できた。
すでに、先客がいることに。
あまりにも存在が希薄なため、現在こうして視認することだけすらも困難。
「…………」
その女性は両膝と地につけ、少し前かがみになり、組んだ手を臍のあたりにつけていた。
クロック教の礼拝の姿勢である。
着ているものはジュと同じ。青いツーピース。さっきジュが思い出していた完璧そうなニム候補とは、この女性そのものずばりだ。
(……やっぱり、もしかしてこの人、すごく優秀ではないでしょうか?)
歳は自分よりもいくつか上だとジュは見ている。ジュは十四歳にしては身体の成長が遅く、女らしさについては色々と自信がない。それに大してこの女性は、ジュと比べては失礼に当たるほど、全身が女性らしい丸みを帯びていた。
肩までしかない髪は漆黒。光を粒子の段階から全て吸収しているのか、輝きというものがまるでない。
しかしそれは艶がないというわけでもない。むしろ、こちらの視界までがその黒一色になってしまうほど、意識が髪の黒に吸い込まれてしまう。
ニムの制服である黒のツーピースを着ると、とても馴染むだろうななどとジュは想像した。
「――――」
そしてこの時、ジュの心に、不吉な風が走り抜けた。
なんだろうか、この女性を見ていると騒ぐこの胸の内。重い。押しつぶされる。ただそこに在るだけなのに……どうしてここまでの、圧倒的なる有り様。
「あの、何を、して、いるんで、すか?」
こんなプレッシャー、耐えきれない。
逃げるようにジュは言葉を発する。
それが言葉として態を成してくれるなら、どんなことでもよかった。気を紛らわせれば。
「…………」
答えない。
実は眠っているのではないか。
下手をすると、実はこれこそが像なのではないか。
そう勘違いしてしまうほど、その人は微動だにしない。
空気がジュの頬を叩いた。
駄目だ、耐えきれない。
脱力したジュは床に両膝をつく。足元から湧き上がるこの不快感。
両手で下腹部を押さえる。そうすると進行を留めることが出来るような気がした。
――奇しくもこの体勢は、女性のしている礼拝と、同じ姿勢だった。
ジュはクロック教の信者ではない。しかし、窮地に陥れば、神を信じたくもなる。今がまさにその時であった。
ミナヤ様。どうかお導きを。ミナヤ様。助けて。ミナヤ様。ミナヤ様。ミナヤ様。
ひたすら、ただひたすらに神へ祈る。
どれだけの時間が経過したのだろう。気が付いたら重圧から開放されていた。それと同時に、それまで感じていた負の感情が、全て抜け落ちた。
「…………?」
女性が視界に居ない。どこへ行ったのかと三百六十度首を回す。しかしそれでも居ない。
「私がしていたのは礼拝です。それ以外で、私に用がありますか? ジュ=ヤミ」
「っつ!?」
声のした方を見る。
首が右にも左にも力を入れずにすむ方角。
ジュの真正面。
こんなに近くにいるのに、気が付けないとは。
女性は目を瞑ったまま、顔はジュを見据えて訊いてきた。ジュの名前を呼ぶ時は、やけに棘があった。
ニム候補だというのに自分の名前を出すなんてと呆れているから、皮肉に名前を呼んだ……そういうわけでもないだろう。
瞼は深く閉じられたままだというのに、鉱石を鑑定するように、淡々とジュを品定めをしている。
ジュは途端に居た堪れなくなった。
「え! あ……その……用というか……」
言えるはずがなかろう。あなたの姿を見たら急に気分が悪くなったんです、だなんて。
「そうですか」
くるりと踵の動作だけで百八十度回転し、そのままスタスタと歩いて去っていく。
まずい。ここでなんとか引きとめねば。
理由も分からないままに、ジュは呼びとめた。
「なにか?」
ジュに背中を向けたまま女性は言う。
「その、お名前を、訊いてもいいですか?」
「それがどうになるというのです」
「なにって……分からないんです。あなたのことが。どれだけ視ても」
「くだらない」
どれほど真摯に言おうと、けんもほろろに返される。
「せっかく同じニム候補としてここまで残れた仲ですから、なにかの縁ですし……」
これも先ほどと同じく、理由はない言葉だった。
今はもうこの女性を見ても重圧がない。では、あれはなんだったのか。
ここまで芯のない者は人間ではない。それなのに人間の形をしているこの女性の正体を、ジュは少しでも明かそうと必死だった。
「ふう……」
小さなため息をついた女性は、やや強張った顔つきになった。
「ナビゼキ。あの村が仕出かしたことは、到底償えるものではありません。少なくともセゴナの法では。貴方一人がセゴナのために働いたところで、無駄な足掻きです。……ですが、私個人としては褒めたいものですね。あれだけの人数を、廃人に追い込んだのですから」
「…………」
「目を見れば分かりますよ。貴方がどんなちっぽけで矮小な人生を送っているかなんて」
一流のニムは顔を見ただけで相手の事情を全て把握することできる。ジュお付きのニムが言ったことが脳裏をかすめた。
まさか、あのニムは冗談だと言っていたことを、本当に実践している人がいるなんて。
「名乗ること、それ自体は減る物でもないから構いませんが、私は自分の名前が嫌いなので。どんな名前をしていたとしても、無反応でお願いします」
それほど強調して言うからには一体、どんな名前なのだろう。ジュは心構えをしておく。
「ここにある、ミナヤの真後ろに鎮座している像と同じ名前です。ある角度からでないと見えませんが。セゴナに建立しているどの礼拝堂にもない、この礼拝堂だけの特別な像なのですよ、あれは。知っていましたか?」
それだけを言うと女性は有無を言わず、ジュの反応も見ず、右足を前に繰り出した。
体重を前に移し、徐々に今度は左足を前に出す――その辺りで、ジュは女性の姿を見失った。
片時だってジュは女性から目を離していなかった。
それなのに、消えた。
やはりあの女性は、絶対に普通とは違う。
同じニム候補だというのに、ここまでの差が付けられてしまうものなのか。ジュはあの少女に、一種の畏敬の念を抱いている。
……はてさて。斜め後ろに鎮座している像とは。しかも、特殊な角度でしか見れないと。ジュはどんなものか見定めようとしたが、ミナヤ=クロックの背中を見るには檀上に登らなくてはいけない。
そしてそこは、聖職者の同伴なしに登ってはいけない決まりとなっている。
少しでも信じているからこそ、戒めを破ってまで確認する気になれない。
これが特殊な角度の正体。この礼拝堂を使う者には、それはそれは効果的だろう。
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