吾輩は猫である。いやそんなわけないだろう。

zakuro

 吾輩わがはいは猫である。名前はまだ無い。

 どこで生れたかとんと見当けんとうがつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪どうあくな種族であったそうだ。この書生というのは時々我々をつかまえてて食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼のてのひらに載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始みはじめであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶やかんだ。その猫にもだいぶったがこんな片輪かたわには一度も出会でくわした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうとけむりを吹く。どうもせぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草たばこというものである事はようやくこの頃知った。

 

 ◇


 いやそんなわけないだろう。吾輩は猫であるらしいが、猫は猫を猫と認識するであろうか。人間の言葉なのは一旦いったんさておくとして、まるで明治の文豪ぶんごうが書いた小説のようなった表現を使うのは少々やりすぎであろう。


 初めて人間を見た割には煮て食うという行為は知っているのか。近ごろの人間社会では猫鍋ねこなべなるものが流行していると聞いたことがあるが、猫鍋は別に煮るわけではない。むしろ冷える。


 吾輩には全体的に人間が人間が猫になりきった様な文章に感じるのである。顔を装飾されるべきはずと感じるのはいかにも猫の視点であるが、人間の顔がツルツルとしているのを薬缶とたとえる様などいかにも人間である。そうであれば、人間というのは猫になりきって小説を書き娯楽として消費する醜悪しゅうあくな種族であると吾輩は心底軽蔑けいべつした。


 しかし、なにか途中から表現が低俗ていぞくになったようにも感じる。文豪が書いた高名こうめいな作品に乗っかって面白いことを書いてやろうという何万人も考え何百回も行われたであろうことをユニークなことのようにやっているのである。途中から空行も増えた。近ごろの人間社会ではWeb小説なるものが流行と聞くが、そこでは空行を設けるのが通常のようなので、おそらくそれであろう。Webは明治にはない。電気はもうあったらしく、本文を検索すると五件ヒットした。文明開化の音がする。猫ならばよく聞こえたであろう。


 あまりに高名すぎて、冒頭と文体だけ合わせれば実は原文をろくに読んでいなくても如何いかにもそれらしくなってしまうのも考えものである。しおりは三〇ページの部分に挟まれていたが、人間が見上げる青空には古い小説が書き込まれており窓からクロムを使えば読めるので、本は栞の位置だけ確認したら本棚に戻す怠惰たいだぶり。あと人間の中には狐を燃やして読むという獰猛な種族も居るようである。本を読む度に燃やすので、毎日狐を食っているのだろう。探検家は絶滅したようだ。


 その本は吾輩の蔵書ぞうしょの中でも特段とくだん古いもので、今はき祖母に買ってもらったのである。ろくに読まれもせず、こんなしょうもないネタを書くのに使われるとは、この本も気の毒だと同情の念さえ覚える。天国のおばあちゃんごめんなさい。


 話が逸れた。先ほど述べたように、吾輩はその本をほとんど読んでいないからである。ネタの枯渇というやつだ。もはや表現をそれらしくしようという努力も怠っていると見えるが、主語を吾輩とし文体だけ合わせていれば一応のそれらしさは残るので便利なものなのである。吾輩である。


 ◇


 長く寝すぎたようで、おそらく奇怪きかいな夢など見ていたとみえる。


 吾輩は人間である。名前はまだない。


 いやそんなわけないだろう。名前はないってなんだ。これからつくのか。無戸籍とかだろうか。さぞかし苦労したことだろう。記憶喪失の身元不明者は戸籍を取得できるらしいので、これからつくのであれば幸いである。それから猫に名前をつけない人間はおそらくこれからもつけぬ。気の毒な我輩さんにニンゲンという名前をつけよう。吾輩はニンゲンである。


 少し寝ぼけているとみえ、本でも読もうと本棚に目を向ける。目に入ったのは「吾輩は猫である」だった。


 吾輩は二度寝した。

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吾輩は猫である。いやそんなわけないだろう。 zakuro @zakuro9715

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