飛魚
黒潮旗魚
1
その男は何かを失った。しかし何を失ったのか思い出せないでいた。金か、地位か、名誉か…何も分からない。いや、男にとっては分かりたくなかったのかもしれない。
この男が今望むこと、それは、ただ静かに海を眺めていたいだけであった。何も考えず、何も知りたくない。ただどこまでも水平線に続く青い海を瞳に入れておきたいだけであった。
男は今日も錆びれたパイプ椅子に腰をかけ、片手に酒を持って海へ来ていた。海は空を写し、いつものように群青色に染まっていた。カモメの鳴き声が遠くの空から響いてくる。陸ではカラスがうなりをあげていた。
いつもと変わらない景色のように思えた。しかし今日に限っては何か違うように思えた。何か違う。これは男にとって、とても不愉快なことであった。男はこの違いを見つけなければいつもの静かな時間は帰ってこないと考えた。男は重い腰を上げて荒々しく地面を踏み鳴らすように歩き始めた。終わりが見えぬ砂浜を男はひたすら歩いていった。古びた靴は石に擦られ、穴が空いてしまいそうだった。しかし男にとってはそんなことどうでもいい。違いを見つけることに必死になっていた。
海の青さは変わっていない。砂浜の感触にも変わりは見られない。凡人には何一つ変わっていないように見えた。しかし男にとっては何か違うように思えてやまなかった。
変化は時に残酷だ。人の気持ちや考えなんて一切気遣わない。いや、気遣いようがないと言った方が正しいだろう。変化は生物の当たり前を簡単に変え、その物の考え方や居所をいとも簡単に壊してしまうのだ。この男も変化という悪魔に日常を変えられた被害者であった。男は本能的に変化を恐れていた。
男はひたすらに歩き続けた。何が違う、何かが変わったのだ。男の足は自然と速くなった。
歩き始めてどれほど時間が経ったか分からない。男はまだ違いに気づけずにいた。歩いているうちに日は落ちてしまった。夕焼けが海を赤く染めている。いつもなら家に帰り夕食の支度をしている頃だろう。しかし今日は帰るきになれなかった。歩き疲れたのか自然と足が止まった。そしてふと海を見た。さっきに比べて波が低くなっているように思えた。男は潮が完全に変わりきるほどまで歩いていたことに気づいた。男は錆びたパイプ椅子を開くとゆっくりと腰をかけた。違いは未だに分からない。しかしそのことは男の頭の中から消えていた。
そして男はこれまでに無い感情に心を埋められていた。それは男が知っている言葉では表すことができない、複雑な感情だった。
なぜなら男の目の前には、これまで見たことがないほど美しい景色が広がっていたからだ。それはここは天国ではないかと思ってしまうほどに美しい景色であった。男は息を飲んだ。これまであれだけ目に焼けつけ、飽きてしまうほど見ていたこの海を、改めて美しいと感じている。こんな日が来るとは想像もしていなかった。さらに夕方の景色ならいつもの場所でもずっと見ていた。しかしここから見る景色は何か特別なものを感じた。夕日は水平線の向こうにまるで王の如く鎮座し、その周りを白波が宝石のように輝いている。そして空は黒と赤で見事なまでに美しく色付けされていた。男は息をすることを忘れた。これまで、変化を恐れていた男は今、変化によって生み出された景色に感動していたのだ。
そして男は悟った。変わったのは海ではない。自分だったのだ、と。そして全てを思い出した。男が失ったもの、それは時間であった。男は余命宣告をされていたのだ。治療は不可能に近い。もってあと2年、下手をすれば今にでもいってしまうかもしれない。そんなことを医者から言われていた。男は頭を抱えた。そして涙が溢れてきた。思い出したくなかった。永久に頭の奥底で眠っていて欲しかった。
人間は都合の悪いことは頭の中で消してしまうことがあるらしい。苦しかったこと、辛かったこと、そういうものは頭が勝手に消しててしまうというのだ。しかし男の場合、消え去ることが出来なかった。それほどショックが強かったのだ。
若い人間はあまり時間というものに執着しない。それは、まだ有り余るほど寿命に余裕があるからである。そして有り余る時間を存分に使い、自分の欲望を満たしてゆく。男もそうであった。しかし今はどうだろう。あれほどまであった時間が今ではもう数えられる程しか残っていないのだ。やり残したことは山ほどある。さらにこの短い期間で死ぬという覚悟を決めなければならなかった。そんなこと、男が納得できるはずがない。だから男の脳は自発的にその記憶を奥底にしまい込み、なかったことにしようとしたのだ。
男は前を向くことが出来なかった。あれほどまで好きだった海を今は見たくもない。あれほど感動した夕日も目に入れたくなかった。男は下を向いたまま目をおおった。そして、死にたくない、死にたくない、そう心から願った。
どれだけ時間がたっただろうか。男は未だに自分の運命を受け入れられずにいた。夕日はとっくに沈んでしまったことだろう。
バシャ!不意に海から何かが飛び出してきた音がした。男は驚き、自然と前を向いた。夜の海に星が輝いていた。男は持っていた懐中電灯で辺りを照らした。すると男の右側に動くものがあった。照らしてみると、銀色の身体に張り付いた鱗がきらきらと輝いていた。そして他の魚とは違う、両脇にはえた大きなヒレをバタバタと動かしている。飛魚であった。飛魚はまれに敵に追われ、勢い余って海岸へ飛んでくることがある。それは男も知っていた。そしてそれには潮汐の変化も関係しているとも聞いたことがあった。男は飛魚をじっと見つめた。そして思った。その飛魚はまるで自分のようだと。変化に翻弄され危機一髪の状態になり、このままでは何も出来ずに力尽きてしまう。最後はただその場所で飛び跳ね、もがき、苦しんで一生を終えることになるのだ。男は怖くなった。自分の人生、そんなんで終わらせたくない。強く思った。男は飛魚を掴むと静かに海へと返した。そして振り返りパイプ椅子をたたむと、真っ直ぐと前を向き、一直線に歩き始めた。
男はこれからするべきことを理解した。それは行動である。男はこれまで変化を恐れて行動を起こさなかった。それでは残りの人生を棒に振るだけである。ならば、最後は好きに舞ってやろう。そう思った。
あの飛魚は行動を起こし、そして変化の波によって危機に陥った。しかし男によって助かったのだ。これは魚に限ったことではないだろう。
あの飛魚は勇気と覚悟を持っている。飛魚が持っていて、人間の男が持っていないはずがない。男は暗い夜の浜辺を歩いていった。さざ波が男に別れを告げている。
飛魚 黒潮旗魚 @kurosiokajiki
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