4.10

 その鼻水酒を、酔ってしまえば味も感じないだろうと景気良く嗜んだ気もするし、酔っていようがなんだろうが鼻水など飲む気になれないと控え目に口へ運んでいた気もするが、覚えていないからこちらの回顧は大差ないだろう。はっきりと申せばこの退屈な酒席、大木が一人で喋って納得するばかりであったためいまひとつ覚束ないのである。

 それでも大凡彼が何を話していたかは記憶の中にある。最初のうちはやれ「労働とは」だの「金なんてものは」だの、まさしく庶民が持ち合わせる世の中に対する愚痴が大半をしめていた。それをさも自分だけが気が付いている真理のように大仰な様子で語る姿も実に庶民じみていて馬鹿みたいだった。そして酔いが回るにつれ、「芸術は俗物に迎合しその品位と価値を地に落とした」「文学の大衆化が馬鹿を量産する」「楽譜も読めない人間に向けた音楽など子供騙しに過ぎない」「今日日の女はみんな男の価値を知らないから男もくだらなくなっていっている」などといった噴飯物の品評をご高説なされ始めたのだった。それらはすべて借り物の言葉であって、拝借元は偏向的な思想をお持ちの活動家、品評家ばかりである。批判、非難、難癖からなる一連の訴えには憎悪、憤怒、嘲笑が含まれており、分かりやすく明確な敵を作り出して攻撃の対象としている。権威や民意といった、彼とは無縁であるものは、全て彼の敵だった。早い話彼は、自分が認められないこの世界に大きな不満と私怨を抱えているのである。そのために権威を貶め民意を衆愚と嘲笑るのだ。彼の中では、彼が認めないものは悪徳だった。



「いいかい君。つまらない世界を受け入れちゃあいけないよ。こんな世の中はね、間違っているんだ。声高らかに叫ばなくちゃあならないんだ。だいたい他人に合わせてへらへらしてさ。情けないったら。自分自身を信じてみるだけでよい。生きる道が見えてくる。それをしらない阿呆ばかりで、大変な事だよ」



 酒を大いに飲み、大木は叫んで唾を撒き散らした。彼の飛沫が降りかかった卓を見て、ここに肴が運ばれてくるのかと思うと、食指が萎んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る