4.9
そればかりではない。どうも大木の顔が目の前にあると酒がまずくなるようなのだ。運ばれてきた徳利の中身は卵の白身を輝かせた色をして大変明媚であったのだが、大木の煌めく瞳に照らされると稚児が吹き出す鼻水に見えてしまったし、実際薄い塩味がする錯覚が起きた。
「錯覚と分かっているのであればすぐに舌の麻痺も解けるだろう」
貴方は今、そう鼻で笑った。その通り、普通はそうだ。あるはずのない味覚をいつまでも留めておける身体を私はしていない。本来であれば即座に忘れ、これは酒だと再認識し素早く酔っ払ってしまう事だろう。その私が何故大木のもたらした毒素にすっかり侵食されてしまったかといえば、彼の持つ臭気というか、独自の芳香にあてられてしまったという他ない。実際に何か香ってくるというわけでもないのに、彼が目の前にいると何か鼻からじんわりと浸透し、神経を支配されて味蕾の感覚を塗り替えられてしまうのである。故に、「いい酒だろう」と同意を求める大木の声に、私は「うぅむ」と頷くのが精一杯なのだった。大木はそれをみて、「ちぇっ」っと舌打ち、また長々と語った。
「こういう時はね、嘘でもいいから愛想を言うもんだよ。そうじゃないと酒がまずくなるだろう。いや、まさか君がそんな野暮天という具合でもない。分かっていてわざとそんな態度を取っているんだ。素直に楽しんでやらないなんて腹でいる。何故だか当ててやろうか。帰りの電車が気になるからだ。君は、今から僕と酒を飲み交わそうって時にもう暗い夜道の事を考えている。君、それはね、駄目。駄目だよ。しみったれている。いいかい君。帰りの心配なんてものはね、いらないんだよ。例え終電を逃したとしてどうだというんだい。待っていればまたすぐ日が昇って始発が動くんだ。そして明日は天下の休業日。憚る事なく朝から眠れるだろう。だから諦めなさい。今夜は。僕と夜通し飲むんだから。ね」
大きく勘違いしており助かったが、朝まで鼻水酒を飲むと明言されたため、私は複雑な心持ちだった。
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