4.8

「ここですよ、ここ。ここがいいね、どうも。如何です兄さん。中々な佇まいでしょう」



 戯けてみせる大木を前にどのような顔を作っていたが知らないが、彼は大いに満足したと捉えたようで、「よろしいようで」と変わらぬ対応を見せた。私個人は決して肯定的な目口であったと思わないが、物の見え方というのは千差あり万別に渡るというから、大木的には嬉々とした様子に映っていのだろう。彼の弛んだ頬は、一分の隙もない完璧なもてなしだと自惚れに浸った悦楽の様相を呈していた。私が大いに満足していると判断されては沽券に関わるため、正さなくてはならないと一言出そうにも、喉から先につっかえてしまって、物申す事は叶わなかった。



「入ろうじゃないか。胸を張ってね。日頃私共を苦しめる労働などという外敵を一時的とはいえ退けて今我々はこうして酒を飲みに来ている。尊まれるべき勝利。誇るべき凱旋。謳歌すべき自由だ。ありがとう。ありがとう。万歳。万歳。汗水に汚れた心を禊ぎ、新たな気持ちで明日を生きなければならない。酒の中に真理あり。だ。阿呆となって書類を作るプロレタリアートであっても、酒さえあれば賢者と肩を並べてツァラトゥストラの如く語れるのだ。ありがとう。ありがとう。万歳。万歳」



 大木は既にアルコールで異常になってしまったかのような演説を行い暖簾を潜った。後ろにいた私はこのまま彼から離れ一人駅に向かって走り出したい欲望に囚われたが、そんな思いきりの良さが発揮できるのであれば今こんなところにいないだろうと諦めの境地に至り溜息を落として、渋々と間を置き暖簾をめくったのだった。期待もなにもなく、時間の経過だけを願って足を踏み入れた小さな店は思ったより上等で、それまでフーテン気取りで通い詰めていたミキちゃんの店と比較すると気の毒になるくらいしっかりとしていた。



「こちらだよこちら。さぁ座りたまえよ」



 大木の声に呼ばれ、離れた場所にある客席に座る。結構な場所じゃないかと一瞬感心したが、膝を突き合わせると、そんな気持ちはなくなった。どうにも大木の江川には、彼自身への尊敬を削ぎ落とす効果があるようだった。

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