4.2
新しい勤め先は自宅から少し離れたところにあって、出社するまでに電車を使わないといけなかった。
上り方向に約三十分。座席どころか吊革を掴む事も困難な混雑具合に嫌気が差したため、わざわざ早くに起き、一時間も前倒してなんとか電車の揺れに身体を任せられる空間が保証された車内で通勤をしていた。気の休まらない時間にほとほと参ってはいたが仕事自体は極々安泰なもので、椅子に座っていればお給金がいただけるという罰当たりな内容だった。私ばかりが不良作業員として気楽を謳歌していたわけではなく、社風としてそれが当たり前であった事を、私の名誉のため付け加えておく。
それで、私は朝一番に事業所に到着し、準備をしながらコーヒーを飲んで目を覚ますというのが日課となていたわけだが、私の次にやってくる大木という人間が現れると急に騒がしくなるのだった。
「おはようございます。いつも早朝からご苦労様です。頭が下がります」
大木はとにかく煩かった。声の大きさではなく、彼が喋り散らかす事自体がとにかく耳障りだったのだ。このあたり、何故こうも煩わしく感じ嫌気が走るのか具体的な理由は不明だが、要因が定かでなくとも嫌なものは嫌なのであるから仕方なく、覆しようがない。「そんなものは慣れだよ」と貴方は言うかもしれないけれど、逆に、虫の羽音を琴の音色だと聴き入ることができるだろうか。できまい。私は、この大木という男の騒めきが、なんとも不快だった。
また、単に音が不快というだけならばそれは私の狭量起因であるため、不本意ではあるが自身の徳の低さを戒め耐え難きを耐えたであろうが、そうでないというのを、貴方は察していらっしゃる。そう、御多分に洩れずこの大木もまた、度し難い性質を持っていたのだ。
「私もこんな早くから会社に出てきてはいるんですけれどもね。お勤めなんざ屁みたいなもんだと思ってるんです。金を稼ぐために齷齪とするなんて、馬鹿みたいでしょう。」
彼は初めて会った時からこんな風に聞いてもいない堕落思想を語っては薄らと軽笑するのだった。先に、椅子に座っていればお給金をいただけると述べたが、この大木は椅子に着席する事さえ拒むようなアナーキストだった。驚く事に誰も彼が仕事をしている姿を見た事がないのだ。
「労働者諸君!君たちの勤め先はいま倒産いたしました! なんてものですよ」
彼の言葉が喜劇映画の一節であると知ったのは後の事であったから、私は至って真面目に「それは困りますね」などと言って、失笑を買うのだった。新たな生活の朝は、概ねこのような形で始まっていく。
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