3.14

 それで、どこまで書いたか……そうだ、猪の話だった。

 件の猪が隣に座ると腐った花の匂いが充満。たちどころに嘔気を誘発して仰け反って鼻をつまみそうになるも良心と慈悲が働きかけ強く椅子にもたれる程度に終わる。両手の拳が強く握られていたのは誰にも知れていないだろう。とにかく私は彼の猪について全身全霊をもって気配り心配りを実行し、彼女の気分が害されぬよう至って自然な体でいたのだ。人間としてあまりに当たり前な、然るべき態度であったと自負していたし、誰であろうと同じように接するだろうという常識的な思慮もあって「どうも」などと気安く話しかけたのであったが、世の中には私の知る常識、良識を持ち合わせない人間もおり、また、そうした人物は存外近くにいるのだと学んだのだった。




「またお前さんかい。妙な臭いがするからちゃんと風呂に入れといっただろう。言ったことも守れない程脳味噌が小さいのか。出来損ないなのは顔だけにしておきなさい」




 川崎が猪に向かって放った言葉、どこを取っても許されるものではない暴言の中の暴言で、およそ人に向かって述べていい内容でない恐ろしい罵詈雑言に私は猪の悪臭さえ忘れて驚愕していた。罵倒もそうだがあれだけミキちゃんに媚びていた人間とは思えない言動を聞かせられ、感情をどう処理するべきか考えあぐね、しばらく言葉を失う。




「あらやだ兄さん。酷いこと仰るのね」




 そして驚いた事に猪は悲しむでも怒るでもなく、めいいっぱいの愛嬌を川崎に向けて擦り寄り、グラスに安酒を注いだのだ。



「酒が不味くなっちまう。寄らないでいただけると有り難いんだがね」


「あらそう。じゃ、もっと近づいちゃおうかしら」


「やめなったら、ねぇ。いけないよそんな事、俺の品位が損なわれるんだから」




 塵溜で鳴く鼠の方がまだ格式高いのではないかと毒づきながら私は酒を飲んだ。眉間に皺が寄ったのは、醜悪な見せ物のせいかアルコール臭のせいか、判別はできなかった。

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