2.13
その日から尾谷と栗山の間で会話は交わされなくなっていた。少なくとも、事務所では見なかったし、どこかで話していたなんて噂も聞かなかった。尾谷はいつも一人でぶつくさ言いながら机に向かって、栗山はいつも通り愛想を振りまくという具合。そんな光景が当たり前となっていって、アートという単語を酒の席での笑い話にするのにも飽き始めた頃、私はまた、栗山と茶を飲む機会に恵まれたのだったが、彼女の一言に顔の引き攣りを覚えた。
「ご覧になっていらっしゃったんですよね、あの日」
他愛無い談笑の区切りに栗山がそう言った。あの日が指すのは、間違いなく尾谷との逢瀬についてだった。
今更になってどうしてそんな話をと思い私は一瞬とぼけて見せたが、栗山の方は存外真面目らしく先までの微笑が消えていた。はじめて目にした弛みも突っ張りもない栗山の表情は掴みどころがなく、彼女が欲している答えが分からなかったため、私はありのままを話すしかなかった。二人の抱擁を目にし、強張り、後退りして逃げ去った、あの屈辱的な記憶を。
「ふぅん」
彼女は表情を変えずに鼻を鳴らし、ソーサーから持ち上げたカップを静かに傾けて、小さく、細い喉を蠕動させた。
「あれ以上は、私していませんから」
紅茶を流した喉から出た言葉に一瞬ぎょっとして、栗山が何を言っているのか理解しようと頭を巡らせた。何をもなにもないのだが、彼女の口からそんな下品な台詞が出るとは思わなかったし、聞きたくもなかった。
「私、本当は知っていたんです。あの人が嘘つきだって。でも、可哀想だから仕方なくお付き合いしていたんです。だから、唇は重ねましたけれど、それ以上はなにもしていませんの」
ようやくくすくすと、口元を隠して笑う栗山をどう扱っていいのか分からず、私は彼女を真似て愛想を振り撒き、それ以上は何も話さなかったのだが、彼女の方では喋り足らないのか無闇に口を開いて尾谷の悪い面を述べては、「自分は全て理解して遊んでいた」というような事を言うのだった。
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