2.10
事務所に戻った私は何食わぬ顔をして席につき仕事を始めた。積み上がった資料が今にも雪崩れてきそうで憂鬱に見舞われたが、隙間から尾谷の顔を覗くと、すぐに勤労意欲が湧き上がった。現実からの逃避が促されていたのだろう。遮二無二机に向かい、夢中になって判子を押したり筆を走らせたりしていると昼を報せる鐘が鳴った。気が付けば正午。一切の雑念なく、空腹にも気付かなかった私は、これ幸いと早朝の遅れを取り戻すべく事務所に居座り続けた。
皆々どこぞの定食屋に出かけて行き、一人となった事務所は衣擦れの音でさえはっきりと耳に届く静けさで、少しの物音がやけに気になった私は、せっかく取り組んでいた作業の手を止め無闇に立ち歩き、今朝、尾谷と栗山が接吻をしていた場所で止まった。その位置からは入り口がはっきりと見える。尾谷は、立ち尽くす私の姿をそらす事なく捉えていたのだろうと思うと、ひととき忘れられていた苛烈さが再び首をもたげて躍動するのだったが、やりどころない感情は私の中でぐるぐると巡り回って、結局腹の虫が収まる事はなかった。消化しきれない鬱屈が巣喰い、生きたまま食われていくような気がした。
私はどうしてあの時二人から施を向けてしまったのだろうか。やはり厚かましく彼と彼女のテリトリーに侵略してしまった方が余程すっきりしただろうに。
たらればを催すが、答えは明白だ。私は、尾谷に敗北を認めたのだ。心底で見下し嘲笑っていた尾谷が女を抱いている姿を見て、生物としての敗北を無意識に自覚したのだ。だから目が合った瞬間に、私は咄嗟に、小動物が天敵から距離を置くようにしてその場を離れたのだ。あぁ、なんと愚かなのだろうか。当時、あとほんの少し気概があったなら、彼の思惑に反して毅然とした姿勢を見せていたというのに。
とはいえ尾谷の春が長く続かなかったのを思うと、そんな後悔も笑い話に化けてしまうのだから不思議なものだ。さて、長くなったが、そろそろ彼がどのような憂き目に遭ったか、お伝えしたいと思う。
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