2.4

 二人の会話は春残りの雪と等しくすぐに溶けてなくなってしまうものだった。初めて会った人同士が行う腹の探り合いより少しだけ胸襟が開かれているだけの、日常の中で忙殺されていく内容といってよくって、こうして思い返してみても何物について語っていたのか思い出せない。どこの定食屋が美味いとか不味いとか、そんなものであったろう。


 色めきたったのは尾谷が如何にも謙虚な、それでいて自慢気な風に喚いてからである。



「私はね。その、恥ずかしいんだけれども、絵の方をやっていて、小さいながら賞を頂いた事もあるんだ」



 尾谷の周りから「わぁ」という感嘆が上がり、誰も彼もが一様に彼の功績に対して敬意を評しながら称賛の言葉を投げかける。物を知らない人間は、絵とか音楽とかいったものに過剰な好奇を寄せるもので、例に漏れず、尾谷にも訳の分からない迷信めいた信仰が向けられたのである。


 これについて一言断っておく必要があるが、全員が全員、彼の宣言を真に受けていたわけではない。例えば同僚の浜塚など、口では「アーティストですね」などと持ち上げていたが、その瞳の奥にある冷笑を、私は見逃さなかった。


 浜塚とはほんの少しだけしか言葉を交わす機会がなかったが、その僅かな間だけでも、彼のニヒリズムについて存分に窺い知る事ができたと自負している。

 浜塚のエピソードについて書くのは迷うところである。なにしろ、彼は本質的に当該のエピソードとは関係なく、一流の喜劇(あるいは三流の悲劇)を欠伸を噛み殺しながらも冷ややかに眺める観客の一人なのだ。劇の高尚低俗は置いておいて、役者ではなく観覧者に一時的とはいえスポットライトを当てるというのは支離滅裂もいいところ。邪道を通り越した下手物と断言できようが、よろしい。貴方がそこまで聞きたいと仰るのであれば、ほんの少しだけ私と浜塚との話をしよう。とはいっても、なに、簡単なものだ。ある日私が仕事の合間に一服しているところにふらりと現れた浜塚は、咥えた煙草を離す際に「この紫煙のために死ぬとしても、五体満足で生涯働き続けるよりはマシってもんじゃないかい」と一言落としたくらいなのである。

 この時私がなんと返したかは記憶にないが、以来付き合いがなかった事を考えると、随分つまらないお喋りをしたのだろうと思う。彼との思い出は、こんなところだ。

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