2話 白子狐:コンちゃん


 こんな噂を耳にしたことはありませんか。

 超ド級の癒やしを提供する妖怪のお店が存在する、と。

 これはそんな不思議な店に訪れる人々のお話。



 ***



「もうだめだ……終わりだ」


 深夜の薄暗い商店街をとぼとぼ帰宅する中年男性。

 身につけたスーツは妙に綺麗で、着慣れていないのかどうにも似合わない。それもそのはず彼のスーツは十年以上使う機会がなく、ここ最近になって思い出したように使用され始めたのだから。


 彼の名は山田弘樹やまだひろき43歳(妻帯者)である。


 仕事は飲食店経営。

 元々あまり売り上げの良い店ではなかったが、なんとか細々とやってきた。それがここ半年ほどで売り上げが落ち込み経営も困難な状況になっていた。銀行へ融資をお願いする為に、なれないスーツに身を包み家を出たのが今朝の話。


 彼の落ち込みようから結果を想像するのは容易ではないだろうか。


 自宅では妻と子が待っている。だが、彼は帰る気が起きなかった。これが最後だったのだ。今日訪問した銀行に断られたら店をたたむしかなかった。


 彼はコツコツ真面目にやってきた。

 むしろ真面目さだけが取り柄の愚直な男だ。一発逆転の奇手などを思いつくような人物ではなかった。


 手は尽くした。彼は失望と無力感に苛まれながら酒で足をふらつかせる。


 いつもなら心地の良い酔いも、今日ばかりは身体を巡る毒のように感じる。

 頭が現実を見ろ、どうにかしろ、と警告を発しているにもかかわらず異物が真反対の方向へ連れて行こうとする。気持ちが悪い。どうにかなってしまいそうだ。


「おいこら、モフらせろ! 金ならある、あの子を一晩中モフモフさせろ!」


 煌々と照明が灯る一軒の店の前で、若い女性が喧嘩口調で戸を叩いていた。


 女性は相当酔っ払っているのか、何度も戸を開けようとするがピクリとも動かずとうとう諦めたように「ぺっ、覚えてろあのデブ猫」と唾を吐く。


 怖っ。今時の女性ってあんなに怖いのか。

 弘樹は僅かに酔いが覚めて震えた。


「居酒屋か何かか?」


 店の看板を確認した彼は『妖怪もふ屋』の文字にしばし見入ってしまう。

 手もみ屋を見間違えたのか。そう考えた彼は目を擦りもう一度確認。だが、やはり『妖怪』の文字がそこにあった。

 この商店街には何度か足を運んだことがあるが、こんな場所にこんな風格のある店があったとは知らなかった。弘樹はそんなことを思いつつ好奇心からドアに手を掛けた。


「開いている……?」


 鍵などかかっていなかったかのように戸は僅かな力で開く。

 隙間から奥を覗くと営業中なのか眩い明かりが目に差し込んだ。


「ごめんください。まだやってますか?」


 戸をさらに開いて、建物の中へ身体を滑り込ませた。


 目に飛び込むのは立派な玄関だ。

 老舗旅館さながらの格式高い空気感に満ちていた。


 普段なら見知らぬ店に飛び込むようなことはしない。ただ、彼は先ほどの女性を夢中にさせる何かが気になっていた。とんでもなく美味い酒があるのか。はたまた料理か。それとも別の何か。


 一時でも良いからこの苦しみから逃れたかったのかもしれない。


「いらっしゃいませ。よくぞお越しくださいましたにゃ」

「はぁ、どうも」


 迎えてくれたのは二本足で立つ喋る猫。

 しかもでっぷり太った三毛猫だ。


 弘樹は夢ではないかともう一度目を擦った。


「当店は初めてでございますにゃ?」

「ええまぁ」

「ウチは看板に偽りなしの正真正銘の妖怪もふ屋でございますにゃ」

「君もしかして、猫又って奴かい?」


 尻尾が二つあることに気が付き思ったことをそのまま口に出した。


 酔いが程よくまわっているせいか、これが現実なのか夢なのか判断が付かない。夢にしてはやけにリアル、ここまで現実と相違ない夢は近年見た覚えがないと彼はしげしげと喋る猫を観察していた。


「ところでもふ屋ってのはどんな店なんだい」

「ふわふわのとびっきり可愛い妖怪で、もふもふしていただき日々の疲れを癒やしていただくのが当店の提供する商品でございますにゃ。申し遅れましたがウチは『猫又のマツモト』でございますにゃ。以後お見知りおきを」


 ふてぶてしい顔をした猫は丁寧にお辞儀してから、『妖怪もふ屋』とだけ印刷された名刺を弘樹へ渡す。


 名刺を受け取った彼は反射的に「どうもご丁寧に」とお礼を言った。


 と、同時に”もふ”とはなんなのか、聞き慣れない言葉に首を傾げる。

 自分の知らない業界用語なのか、はたまた最近できた言葉なのか、弘樹はますます困惑する。


「あれこれ説明しても分からないにゃ。まずはお試しとして30分コースをおすすめするにゃ。初回だけの特別で半額するにゃ」


 壁にある料金表を確認する。


 30分4500円

 60分8500円

 120分17000円

 ※10分追加するごとに1500円が加算されます。


 半額になるなら2250円で済む。家庭を持つ彼にとって決して安くない額ではあるが、どうせ夢だし現実を忘れられるならと釣りの出ないよう支払いを済ませる。


「まいど。ご指名がないようでしたらこちらでお勧めの子を御用意いたしますにゃ」

「それでお願いします」


 マツモトは固定電話へと駆け寄り、受話器を耳に当ててぼそぼそ話をする。

 受話器を置くとマツモトは扇子を握りしめて床に座った。


 軽快に扇子で机を叩く。


「今宵、妖怪もふ屋に舞い込みしは、銀行に融資を断られ心身共に疲れ果てた男。そんな彼の心を癒やすはこの一匹なり」


 ぴょこんと真っ白い子狐が店の奥から姿を現した。


 ぱっちりとした大きな目にまだ成長途中の丸みを帯びた小さな耳。真っ白い毛は買ったばかりのぬいぐるみのように綺麗で、さらに目をひくのはふわふわの尻尾だ。


 子狐は弘樹の心を鷲掴みにした。


「可愛い……あの子をどうするんだ」

「好きなだけ触って良いにゃ。もちろん丁寧ににゃ。見た目は可愛いけどれっきとした妖怪。機嫌を損ねるようなことをすれば半殺しにされるにゃ」


 さ、触って良いのか。そうか、もふとはそういう意味の言葉なのか。弘樹はなんとなくだがもふもふを理解する。


「彼女の名は白子狐『コンちゃん』にゃ」

「よろしくコンちゃん」


 子狐は人語を理解しているかのように一度だけ頷き、弘樹へと恐れもなく近づく。


 彼は恐る恐る頭を撫でてその柔らかさに驚いた。

 シルクのようにすべすべで手が気持ちいい。ふわふわとすべすべを両立する生き物がこの世にいたなんてこれはもはや奇跡と呼んで差し支えない、などと鼻息を荒くして興奮していた。


 小さく可愛らしい前足に手を伸ばそうとすると、コンは自らお手をするように差し出す。手にのる肉球の感触とほんの少し出ている爪の固い刺激が伝わり、彼は自然と顔がほころんでしまう。


「じれったいにゃ。早くお腹に顔を埋めるにゃ」

「そんな贅沢なことをしていいのか」

「もふもふとはすなわち全身で幸せを味わうこと。これを体験せずしてもふとは呼べないにゃ」


 ひっくり返ったコンは降参のポーズをとる。


 ごくりと唾を飲み込んだ弘樹は、ゆっくりそのお腹へと顔を埋めた。柔らかく温かい。氷河のごとく冷たく固まっていた疲れが溶け出していた。


 すはすはするとお香のような匂いがしてさらに落ち着く。


「お客さん、時間にゃ」

「え」


 腕時計を見ると確かに30分経過している。

 だが、体感ではまだ5分ほどだ。時間も忘れるほど無我夢中でもふっていたことに弘樹は恥ずかしくなった。


「ありがとうコンちゃん。なんだか胸がすっとした気分だ」

「こん」


 一度だけ鳴いてコンは奥へと戻る。


 弘樹はなぜだか分からないが、重くのしかかっていた重りを下ろしたようなすがすがしい気分になっていた。自分ならこの経営危機もどうにか乗り越えられる、そんな妙な自信が湧いていた。


「ご満足いただけましたかにゃ?」

「もちろん。また来て良いかな」

「お望みとあらばいつでも。あ、これは当店のスタンプカードですにゃ。十回来ると30分コースが無料になりますにゃ」


 スタンプカードを受け取った彼は礼を伝えて店を出る。

 彼は家族に早く会いたいと帰路を急いだ。


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