彼岸の酒場で一杯飲んで

甲子夜范

第1話 山谷堀から

そろそろ、またあっちに呼ばれるかなという感じがしてはいた。あちら側への入り口は、あちこちにあるけれども、自分の意思で探して見つかるものではない。然るべき時が来たらめぐり会うようになっている、らしい。

具体的なことは、よくわからない。そしてたぶん、わからない方が良いのだということはわかっている。

夜半にタバコを買いに出たら、なんとすぐ近くのコンビニが閉まっているではないか。張り紙を見ると夜の11時から朝の6時までは店を閉めることになったようだ。そういえば、つい数年前までは24時間営業していた牛丼屋、ハンバーガーのチェーン店が日付が変わる前に店を閉めるようになっていた。この国はずっと不景気で、わたしのような夜中に行動することが多い人間にとっては、どんどん住みにくくなっているような気がする。

仕方がないので、そこから少し歩いたところにある別のコンビニでタバコを買い、家に戻ることにしたが、ちんたらと歩いているうちに霧が出てきた。ああ、これはまたあちら側に呼ばれているのかと思う。

いささか縁があって東京は台東区に引っ越してきたのは数年前の話だ。浅草にも歩いて行けるけれども駅近は家賃が高いから、どちらかというと山谷と吉原に近いアパートに住んでいる。最寄りの駅は三ノ輪、南千住と浅草だ、と言えば土地勘のある人にはわかるだろう。どの駅からも遠いから家賃が安いのだ。

タバコを買ったコンビニと住処の間には山谷堀公園がある。公園といっても広いものではない。その昔、山谷堀という水路があった。その水路を埋め立てて公園にしたものだから、細長い小川のような公園に樹木が植えられ、子供向けの遊具がぽつぽつと設置されている。

山谷堀公園の前まで来た時に、ふと川のせせらぎが耳に聞こえた。顔を上げると、遠い昔に埋め立てられたはずの山谷堀に、ぼんやりと川が流れているのが見える。

ああ、やはり来たか、と思いながら立ち止まる。と、猪牙舟と呼ばれる江戸から明治にかけて使われていた小舟がすうっと流れてきた。和服を着た船頭の顔は見えなかったが、小舟には見知った顔の男が乗っていた。

「よう、久しいな」

「ああ、そうかね」

この男は、あちら側で知り合った夏目文哉という。いつ見ても英国仕立ての子綺麗なスーツを着ているから、いつの時代に生きていた人間なのかわからない。ただ、わたしとは妙に話が合うし、わたしが初めてあちら側に行って、右往左往していた時にも助けてくれたから少しばかりの恩義も感じている。

わたしが猪牙舟に乗り込むと、舟はまた静かに動き出した。季節外れの蛍が舞っている。いつものことだ。あちら側に行く時には、いくらでも不思議なことが起こる。

「良い酒が入ったらしい」と文哉が言う。

「あのさ」

「なんだ?」

「それでオレを呼んだのか?」

わたしが問いかけると文哉は笑った。

「オレには、そんな力はないよ」

「そうなのか」

「あり得るとしたら、今から行く酒がオレたちを呼んだんだよ。オレもアンタも飲兵衛だろう」

「そうだなぁ、それは認める」

「良い飲み屋があり、良い酒があれば、飲兵衛はそれに惹かれるものだ」

そう呟いた文哉の横顔は鼻筋の通った端正な顔立ちをしているが、その年齢がよくわからない。わたしよりも若いようにも見えるのだが、折りにつけ妙に年寄りめいた話し方をすることがある。

「あのさ」

「なんだ?」

「オレは昔、映画の撮影現場で働いていたことがあるんだよ」

「ああ、前に少しそんな話をしてくれたっけか」

「夜に外で撮影する時にはさ、照明機材が必要なんだよ。照明さんが電源を引っ張ってきて、煌々とライトを照らすわけだ」

「面白そうだな」

「そうすると、ライトに誘われた蛾なんかが飛んでくるわけだよ」

「だろうな」

「撮影用のライトってのは熱いんだよ。だから、飛んできた蛾はライトにぶつかってジジジッと焦げるんだ。それでも、何度も何度もライトにぶつかってさ、最後には羽根が焦げてしまって飛べなくなってさ、地面に落ちて死ぬんだよ」

途中から、文哉は妙に真面目な顔になって、わたしの話を聞いていた。

「なるほど、お前さんは、旨い酒に引き寄せられるオレたちが、その可哀想な蛾のようになるんじゃないかと心配してるってことかね?」

「いやさ、そこまでは言わないが……なんとなく、そんな気がしてさ」

「それで、その蛾には、それ以外の選択肢はあったのか」と言われて言葉に詰まった。

「選択肢か、なかったんだろうなぁ…」

「アンタは、そういうところが素直だねぇ」

文哉が喉の奥を鳴らすように笑う。そもそも、こちら側からあちら側に足を運んで酒など飲んでいる時点で正気の沙汰ではないのだ。それはよくわかっている。

舟が止まって、わたしたちは舟から陸に上がった。いつものように、あちら側は深い霧が漂っており、遠くまで見渡せない。

わたしが先ほどから、あちら側と言っているのは、世間でよく知られている言葉でいうと彼岸。あの世とこの世の端境になる場所だ。誰もが、いつかはこの場所に来ることになるのだが、なかなか自分の意思で来れるところでもない。

わたしの場合は、過去に一度死にかけてここに来た。それから、時折は何かの拍子でこの場所に誘われるようになったわけだ。その時、わたしを助けてくれたのが夏目文哉という男で、彼がいなかったら、わたしはそのまま死んでいたろう。おそらくは文哉も、普段は現世で普通の生活をしているらしいのだが詳しいことは何も知らない。

文哉はすたすたと前を歩いて行く。見覚えのある路地を通って、これまた見覚えのある居酒屋の前に来た。黒い暖簾に白い文字で「泥林」とある。見るからに古い作りの4枚引き戸を開けて入るとL時のカウンターがある。

文哉と並んで座ると、普段から無口な親父が、我々の前に無言で小鉢を置いた。文哉が割り箸を割ると、ほのかに木の香りがする。

いい店なのだ、ここは。文哉は突き出しを一口食べると「美味いね」と呟いた。

わたしも突き出しに箸をのばす。真っ黒なのは、海苔の佃煮だろうか。ひとかけら口に入れると、コリコリとした食感と海苔の良い香りが鼻の奥を抜けてゆく。

「茎わかめかな?」とわたしが言うと、親父が黙って頷いた。茎わかめに海苔の佃煮をまぶしてあるのだ。

先にお猪口が出て、間もなくお銚子が置かれた。わたしと文哉は、それぞれに手酌で酒を注ぎ速やかに口に運ぶ。

「ひゃあ、これは深い味だな」

何も言わなくとも、ぬる燗で出てきた酒は、甘からず辛からず、あえて言うならば極上の水を飲んでいるようであって、それがまた美味い。

山形の酒に、こういう良い水を飲んでいるような気持ちにさせる銘柄がいくつかあったなと思う。

カウンターの中から親父が一升瓶を見せてくれた。ラベルには「冥米」とある。

「肴、適当に」と文哉。

わたしの方は、少し酔ったのか妙な感覚を味わっていた。この店に入った時、L字のカウンターの斜め向かいには、誰も座っていないように見えていたのだが、何やらぼんやりと、人の輪郭が見えてきたのである。箸の先に着いた海苔の佃煮を舐めると、もう一口飲んだ。ぬる燗の冥米が喉の奥を通って胃の中で広がる。

「いい酒だなぁ……」

気がつくと、カウンターの斜め向かいには白髪の老人が座ってこちらを見ていた。

「おや、ようやくオレの姿が見えるようになったのかい。こっちは、随分と前からお前さんの顔は見知っていたんだぜ」

まあ、彼岸では珍しいことではない。はじめは目に見えていなかったものが、次第に見えてくるようになることもある。こちらは、そういう場所なのだ。

老人がお猪口を持ち上げたので、わたしも釣られてお猪口をかかげる。

「乾杯」

これが、門爺と呼ばれるこの老人との出会いだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼岸の酒場で一杯飲んで 甲子夜范 @tasty_sogoo0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る