第10話

「日本も意外と暑いじゃない」

 駅から出てきた、ミーナの最初の感想だった。

 ミーナはついに、日本にやってきた。父親は、止めもしないし勧めもしなかった。すでにそういう感情が希薄になっているのである。

 空港からいくつかの電車を乗り継ぎ、やってきたのは山手線の少し外側。新しい全日本将棋会の建物からほど近い場所である。駅から徒歩十分、マンスリーマンションの一室をミーナはすでに契約していた。

 それほど時間があるわけではない。彼女はまだ、日本での仕事が決まっていないのだ。滞在できる期間の内に、何としても審技点を三回取らなければならない。

 部屋の中には家具も備え付けられており、水もガスも使える。最低限の生活はすぐにできるようになっていた。

「悪くない」

 ミーナは荷物を放り出し、まずはパソコンを取り出した。事前にもらっていたデータを観ながら、インターネットに接続する。

 無事、オンラインになった。これで、準備はほぼ整ったと言ってよかった。

 一分も無駄にできない。彼女は空港で買っておいたペットボトルを開け、飲み物を体に注ぎ込んでいく。集めておいた審技会参加者たちの棋譜を並べる。

 すでに彼女は免状も取得しており、レーティングでも十分な点数があった。New Japan Shougiならば、「チャレンジトーナメント」と呼ばれる無償の予選大会に出る資格があった。そこで勝ち上れば本大会に出られるので、「プロ棋士」と呼ばれることになる。しかしあくまで彼女の狙いは全日本将棋会。審技会を経てプロになる必要があった。

「待ってて。ぶっ潰してあげるから」

 そう言うとミーナは、スティック型の栄養食をかじった。



 竜弥は、不思議な気持ちになっていた。

 これまでも、インターネットを通じて多くの人と指してきた。彼にとって将棋を指すことは、存在証明のすべてでもある。

 誰も、彼の正体を知ることはできないはずだった。おそらく、想像できるはずもない存在なのだ。だから、将棋をする相手は遠く遠くに感じていた。

 それが、美駒のことは少し近くに感じられた。彼女自身はごく普通の人間の女の子のはずだ。けれども。

「お母さんの感じに似てる」

 美駒は言った。彼女の母親は、生まれたときから体を動かすことができず、頭の中だけでずっと将棋を指してきたらしい。

 確かに似ているかもしれない。

 美駒ならば、自分のことを見ても驚かないだろうか。そんなことはないだろう。けれども、認めてはくれるかもしれない。

 竜弥の心の中に、この星に来てから初めての温かい気持ちが芽生えていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る