第5話

 乙川の様子がおかしいという話は、次第に皆の知るところとなった。

 名人戦では圧倒的な強さを見せつけ、他の棋戦でもよく勝っている。ただ、人との会話があまり成立していないのである。元々寡黙ではあったが、聞かれたことには答えていた。今はまるで、「将棋以外の思考を忘れてしまったようだ」と皆が言っていた。

 名人には、公の役割も多い。周囲が人形を操るようにして、なんとか様々なことを乗り切っていた。

 ただでさえ分裂の危機を迎えている中で、名人の健康状態が危ぶまれているというのは連盟にとっては頭の痛いことだった。

「なんか大変なことになってるなあ」

 美駒の父親、綜馬は将棋のニュースを見てつぶやいた。彼の父は理事を務める黒山銀次郎であり、今回のことは他人事ではない。

「どうしたの」

「名人の様子が変みたいだ」

「あ、それお母さんとも話した」

「そうなのか」

「『名人がこっちにくるみたい』、って言ってた」

「こっち? まさかなあ。でも、そんなことあるのかなあ」

 綜馬が考えたのは、乙川が生駒と同じ症状であるということだった。ありえないことではない。しかし、写真で見る限り、何か様子が違うのだ。生駒はどこまでも深く、穏やかに眠っている。だが、乙川は何かに抗うような、何かに執着するかのような顔に見えた。

「おじいちゃんなんだよね……」

 綜馬はうなずいた。彼にとっても義理の父だが、実感はない。今後、一切会うことはないかもしれない。

「私……」

 肩を震わせる美駒を、綜馬は抱き寄せた。彼女にとって、祖父までもが病気であるとなれれば、とても怖いに違いない。いつか自分も、深い眠りに落ちてしまうのではないか、と。

「大丈夫だ。血のつながりなんて、そんな大したものじゃない。美駒は美駒だ」

 僕が父の才能を受け継がなかったように。綜馬は、そのことは口にしなかった。



 ミーナは、将棋ゲームをクリアした。エクセレントショウギの、エクセレント名人に勝利したのである。

 だが、古いゲームなのでそもそもかなり弱い。最新のものはプロ棋士をも越えるのだ。ゲーマーとしての血が、チャレンジ精神を呼び起こしていた。

 ミーナはまず、ネット道場で人間と対戦してみた。最初は初心者が相手なのか、サクサクと勝つことができた。しかし7級ぐらいになると苦戦して、なかなか勝てなくなってきた。将棋のランクは、1級の次が初段、一番上は八段まであるが、さらにプロはその上らしい。果てしない道のりのほんの入り口にいると知って、ミーナはがっかりした。彼女は、ほとんどのゲームはしばらくやればトップ級になれていたのだ。

「将棋、手ごわい」

 ミーナはネットサイトで、将棋の本を検索していた。幸い、英語の本は何冊かあり、彼女は英語が堪能である。ただ、これまで説明書も読まずにゲームをしてきた彼女にとって、「他人の書いたもので勉強する」ことにはとてつもない嫌悪感があった。とにかく「自分だけで達成したい」性格なのである。

「うーん。あー」

 彼女は、なかなか購入のボタンを押すことができなかった。

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