第2話

「おお、やったぞ!」

 家の中に父の声が響き渡った。

「どうしたどうしたー」

 ミーナは声のした仕事部屋へと駆け付けた。

「アワーゼロが強くなったぞ」

「アワー……? あ、あの将棋の」

「そうだ。どえらい強くなった」

「どれぐらい?」

「レートで言えば400ぐらいだ。これなら一番も狙える」

 仕事以外の開発の時ほど、ミーナの父は楽しそうである。

「何が起こったの?」

「評価の方法を変えたんだ。これまでは計算してから局面を選んでいた。だから、すごい分岐を計算しなければならなかったんだ。でも今度は、とりあえず指してから振り返って評価をするようにした」

「それじゃ、負けちゃうんじゃない?」

「まあ、その場ではな。あとから評価することによって、損をする指し手や局面を覚えていく。アワーゼロは反省して強くなっていくんだ」

「いまいちよくわからない……」

「指さない手を読まないようになったので、試行回数が増やせたということだな。マシンを動かすだけでもいろいろとバカにならんから」

「そうね……」

 ただでさえインドは暑いが、父の部屋は時折ものすごく暑い。複数台あるパソコンが同時に稼働して、部屋を熱しているのである。

「節約が思わぬ方向で成果を生んだ。これはひょっとしたら『金になる』かもしれないぞ」

「やった! ゲーム機買ってね」

 ミーナは喜んでいるふりをしたが、内心特に期待はしていなかった。これまでもこういうことは何回もあり、お金にはならなかったのである。

「全部買っていいぞ」

 実際アワーゼロがお金を生み出すことを、この時の親子はまだ知らないのであった。



「避けられぬ、ということか」

 黒山銀次郎は、送られてきたメールを見ながらつぶやいた。

 ことの発端は「記憶増強剤」だった。元々は記憶の病気を治療するために開発する薬だったが、健常者が使用すると一時的に大幅に記憶力が上昇する。それは、一夜漬けにはもってこいの薬なのだった。

 ある棋士が、この薬の使用を告白した。動画で軽い気持ちで「使ってますよ」と言ったのである。しかしこれが、ドーピングではないかと問題になった。規定にはなかったが、「道義的に許されるとは思えない」と言う棋士たちが出てきた。

 これに対して、使えるものは何でも使うべきという一派もいた。将棋は元々対局中にいろいろなものを食べたり、様々な道具を使ったりする競技である。他人の意見を聞くわけでなければ、合法的な薬は禁止されるべきではなく、最高のパフォーマンスを見せることこそが重要である、と。

 スポーツにおいてもドーピングのみならず体の機械化や遺伝子操作が話題に上がるようになっており、将棋団体にも決断が迫られていた。規制による平等な条件下での勝負を目指すか、現在の人間の限界を超えた、より高次元の強さを目指すのか。

 現在連盟の理事である黒山は日々調整のために奔走していたが、ついに「決裂」は避けられないところまでやってきたのである。

 メールの主は、南牟婁みなみむろだった。タイトルの半分以上を持つ、誰もが認めるトップ棋士である。彼は、こう書いていた。「私は、最強の先を目指します」

 プロ棋界が、二つに別れようとしていた。

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