第3話 主婦マリヱが異世界に逝ってから、身籠るまで

 もう朝なの?

 そよ風が心地いいわ。体中の毛穴を通り抜けていく。

 広い胸板に頬ずりすると、彼の匂いがします。

「イサヲさん、起きて」

 安らかな顔で眠っている。まるで赤ちゃんみたい。まさか、生き別れた息子じゃないわよね。

 胸を指でなぞっても、ピクリとも動かない。そんなに疲れているのかしら?


 ここは何処かしら?

 さざ波の波打つ音が聞こえる。

 周囲を見渡すと、とんでもない光景が広がっていました。

 まさか大洪水で流されちゃったの?


 白い砂浜に青い海、どこかの南の島?

 きっと未だ夢を見ているのね?

 私とイサヲさんは一糸まとわぬ、生まれたままの姿で二人きりです。一糸どころか、指輪やネックレスまで無くなってます。幾らなんでも、一晩で一っ跳びで地上の楽園、天国に一番近い島には行けないわよね?


 小さな島に大きな木が一本、とても太くて大きな幹です。大きな洞があります。その中に棲めそう。枝葉が空を覆っています。まるで緑の屋根のよう。枝には様々な色の果物がたわわに実っています。

 林檎かしら、梨かしら、桃かしら?

 その中に、ひときわ大きな桃が姿を現しました。すっごく綺麗、なんだかゾクゾクしちゃう。私、女なのに興奮している。

 私の背じゃ、ジャンプしても届かない。


 美しい桃から、すらりと長い脚が生え、ひらりと舞い降りました。緑の黒髪がふわりとし、白い背中がちらりと見えました。女が見ても惚れ惚れとする後ろ姿です。

 モデルさん?

 天使さま?

 それとも、女神さま?

 緑の黒髪をなびかせ、くるりと振り返りました。私の想像を超えています。思わず生唾を呑み込みました。本当に綺麗、これ反則よね。私、自分の見た目には自信ありました。でも今は自信が砕かれました。彼女に比べたら、私なんて体の弛んだ醜いオバサンです。私の方が胸は大きい。でも、上向きの美乳と垂れパイでは勝負にならない。よく見るとお腹が大きい。妊娠五ヶ月くらいね。お臍の周りに字が書かれている。時計回りに「伏・魔・封・淫」って読めるわ。その下に目をやると、ビーナスの丘はツルツルだわ。この御方はビーナス様じゃないかしら?

 見た目は十七歳くらい。娘のシモンの上級生くらいの年頃ね。でも凛とした立ち姿は、私よりも大人っぽい。そこはかとなく妖艶さが漂う。若いのに色っぽい。私のようなオバサンが色気でも負けている。


「ようこそ桃源郷ヱデンの島へ。これでも召し上がれ」

 鈴を転がすような声で、大きな桃を勧められました。女神様の美尻のミニチュアみたい。とっても綺麗な形だわ。皮ごと被りつくと、口の中が甘さでいっぱいです。皮も全然邪魔じゃない。こんな美味しい桃を食べたの初めてだわ。

 お礼も言わずに食べてしまったわ。桃の果汁がイサヲさんのお腹にこぼれる。今気が付いたわ。とっても恥ずかしい姿を。全裸どころか、男の人の上に跨ったままだわ。穴があったら入りたい!?

 慌ててイサヲさんから離れて正座をしました。余韻が滴っている。あー恥ずかしい。三つ指をついて頭を下げました。


「お礼が遅れまして大変失礼しましたわたくしマリヱと申します。頂きました桃、大変おいしゅうございました。改めてお礼申し上げます。有難うございました」

「マリヱさん、顔を上げてください。そんなに畏まらないで。私はヰチヱと申します。封淫の魔女、このお腹の中に魔王を封じています。よろしくね」

「はい、ヰチヱ様、こちらこそ宜しくお願い申し上げます。……あの……つかぬことをお伺いしますが宜しいでしょうか?」

「はいどうぞ。何でもかんでも気軽にお尋ねくださいね。何でもかんでも包み隠さず話しますよ」

「ここは何処でしょう?……桃源郷ヱデンの島と仰ってましたけど」

「桃源郷ヱデンの島は、この世でも、あの世でも無い所、現世と常世の狭間、犬魔王サノバヰッチ様が想像から創造した小さな世界、箱庭よ」

「この世でも、あの世でもないと仰せですが、もしかして私たちは死んでしまったのですか?」

「死んでませんよ。あなたは生きています。あなたの息子さんは、あなたのお腹の中で生きてますよ」

「えっ、どういうことでしょうか?」

「息子さんの御体、息してないわよ」

「イサヲさん、起きて、起きて!」

 とても安らかな顔をしている。確かに息をしていない。涙が込み上げてきました。ヰチヱ様は優しく抱いて背中を撫でてくれます。

「悲しむことは有りません。あなたのお腹の中で生きてますよ。落ち着いてね。こちらへいらっしゃい」


 女神の様なヰチヱ様が桃色の唇を寄せて来る。全く化粧してないのに、なんて綺麗なの。キスは何度もしたこと有るけど、女の人とは初めて。絹の様に細やかな餅肌に包まれる。白魚の様な指で慰められる。ヰチヱ様、女の扱いに慣れてらっしゃる。ハードじゃない。ソフトだけど、こんな素敵な体験初めて。お蔭様でヰチヱ様と親密になれました。もう友達以上の関係よね。

 私は今までのことを洗いざらい懺悔しました。ヰチヱ様は嫌な顔一つせず聞いて下さる。私の名前はマリヱだけど、ヰチヱ様こそ聖母マリヱ様だわ。


「イサヲが生き別れた実の息子だなんて気付くのが遅すぎました。愚かな私の罪です。なのに、どうしてイサヲが罪を背負って亡くなったのでしょう?」

「マリヱさん、自分を責めないで。近親相姦で心筋梗塞を起こすのは単なる因果よ。別に罪ではないわ。近親相姦を禁じるのは人の世の法に過ぎないわ」

「それではイサヲが実の父親を殺したことが罪だったのでしょうか?」

「チャラヲとやらは禍々しき者でしたね。実の子に殺される親の方が悪いのです。自業自得、これも因果に過ぎないわ。悪が殺められたことを悔やまないでね」

「ヰチヱ様……でも、私が生き残って息子が亡くなったことは……」

「子を想う気持ちは母として当然です。私もお胎の中の魔王ちゃまの為なら自分の命なんて惜しくないわ。でもね、息子が生き残っても私たちを産めないわ。私たちが生き残れば、息子を産み直せるのよ。悲しまないで、責めないでね」


 ヰチヱ様の御考えには頭が追い付きません。頭が追い付かない私が悪いのよね。私頭悪いし。ヰチヱ様は優しい。ヰチヱ様が大好きです。頭が追い付けなくても、信じます。従います。お慕い申し上げます。それで救われたような気になります。


「あの……娘と夫の行方は御存じでしょうか?」

「シモンさんとヨシヲさんですね。マリヱさんとイサヲさんと同じ様に流れつきました。ヨシヲさんの御魂は御体から抜けシモンさんのお胎に宿り、ここでヨシヲちゃんを産みましたよ」

「ヨシヲさんも近親相姦で心筋梗塞起こしたんですねっ!?」

「ほらっ、あの小さな島をご覧なさい」

「細い木が生えていますね」

「ヨシヲさんの墓標ですよ。イサヲさんの御遺体も海に返せば、いずれああなります。長い年月をかけて島は広がり、ここと繋がるでしょうね」

「シモンはヨシヲちゃんを産んだ後どこに?」

「ヨシヲちゃんが十五になるまで、ここで育てました。それから海のかなたの大陸に旅立ちました」

「えーっと、時間が……どうなってるんですか?」

「ここの時間軸は現世と違うのですよ。早く流れたり、遅くなったり、止まったりと」

「もう私は娘と夫に会うことは叶わないのですか?」

「会って仲直りしたいのですね。何とかしましょう。……魔王ちゃま、お願いね」

 ヰチヱ様はお腹をさすりながら、お腹に話しかけていました。魔王様が鍵みたいね。でも、私がイサヲを産み直して十五まで育てたら、五十才よね。娘は今ごろ三十才で、十五年後に四十五才よね。私と年が変わらないじゃない。それでも好いから、会って謝りたいわ。



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