第13話 とある喫茶店のマスターの話 一
今日の喫茶店は、いつも以上に静かだった。
客は朝から誰も来ていない。
店内の音楽は3回目のループに入るが、それを聞いているのは玲美とトシさんだけ。
掃除も終わり、やることもなくなった玲美は目を閉じて静かに休んでいた。
ここまで誰1人客が来ないというのは、久し振りのことだった。
元々、そこまで繁盛しているという訳ではないが、ここ最近は常連客も増えてきて、忙しいことも増えてきた所だったので、よりそう感じられるのだろう。
静かに過ぎる空間に、玲美とトシさんだけがいる。ほとんど会話もないが、そこにお互いがいるだけで心が安らぐようだった。
「久し振りだな」
そんな中、唐突にトシさんが口を開いた。
「ええ、そうですね」
玲美は目を閉じたまま返事をする。
余計な会話などなくても、2人は意思の疎通ができた。
静かに会話をするのは言っぶりだろうか。
家に帰れば内と外で分かれているため、会話は少ない。店内でも、以前より客が来ることが増えたため、こうした時間も減っていた。
「寂しいですか?」
「はっ。ありえねぇな」
口振りとは裏腹に、トシさんは退屈そうだった。騒がしい日常にも慣れてきたのだろう。面倒くさがっていても、店の中で楽しげな会話が流れるのはトシさんも嫌いではなかった。
「私は、少し寂しいですよ」
「……そうか」
玲美の喫茶店。
誰かが今とは違う自分に変われるきっかけになればと始めた喫茶店だったが、最近ではそれとは別に玲美自身が救われたような気がしていた。
誰もが変われる訳ではない。
誰もが変わらなければいけない訳でもない。
それでも、玲美は変わりたいと思っている誰かが、変われるきっかけになりたいと思っていた。
しかし、本当はそれだけじゃなかったのかもしらない。
「皆さんがいると、私は少しだけ救われるような気がしていたんです」
誰かの力になれたとは思っていなかった。
少しだけ話を聞いただけ。
変われたのは、その人たちの頑張り、気付き、そして、その人の今までがあるから。
それが玲美には眩しかった。
「皆さんを見ていると、私も変われるんじゃないかと思えるのです」
過去にけじめをつけて。前だけを見て。
「でも、それは勘違いなんですよね」
少しだけ弱気な声になる玲美に、トシさんは顔を向ける。その表情を見ると、辛いのを耐えるような、苦しげな笑みを浮かべていた。
「私は、何も変われていないのです。あの時からずっと、彼の面影ばかりを追い求めている。もうそこには誰もいないとわかっているのに」
トシさんは黙ったままだった。
「私の時は止まったまま。今でも私は、彼の元へ行きたいと思ってしまう。それが許されないとわかっていても」
苦しげに漏れる言葉が、彼女の胸を締め付ける。かさぶたにもならない傷口は、今でも血を流し続けている。
ギュッと胸の辺りを握りしめ、玲美は体を震わせていた。
そんな玲美を抱き締める腕もなく、トシさんは悔しそうに目を伏せながらも、すぐに顔を上げて玲美の元へと歩み寄った。
そして、ソッと玲美の足元に足を添える。
「今日は随分とネガティブなんだな」
「……ふふ、ええ。静かな時間は、考える時間が多すぎて」
ぶっきらぼうなトシさんに、玲美は苦笑いを浮かべる。
だが、トシさんも気まずそうにしているのは隠せていなかった。
「俺には、気の利いた台詞なんて言えねぇんだ。だがな、少なくとも俺は、お前がいなくなると、寂しいと、思う、と、思う」
「ええ、ええ。わかっていますよ。だから、そんなことは、絶対にしませんから」
苦しそうな笑みは、玲美が見せる表情の中で、トシさんが1番嫌いな表情だった。そして、そんな表情をさせる自分も嫌いだった。
「さて、暗い話は終わりです。静かすぎて、変な話をしてしまいましたね」
何事もなかったかのように、玲美がいつもの調子に戻る。本当は戻ってなんていないのに。
トシさんは強く歯を噛み締めた。
◇◇◇◇◇◇
「つー訳でだ。お前らも協力してくれ」
「そんな急に言われても」
人気の少ない路地裏で、トシさんに追い詰められているのは海人だった。隣には美咲もいる。
一歩間違えれば、野犬に襲われている子供のようにも見える中で、美咲は冷静に話をまとめた。
「つまりトシさんは、玲美さんを元気付けたいってこと?」
「……まあ、そういうことだ」
トシさんはばつが悪そうに少しだけ目をそらして肯定した。
「俺が喋れるのを知ってる奴はほとんどいねぇ。お前らくらいしか頼める奴はいねぇんだ」
「確かに、玲美さんにはお世話になってるし、助けになりたいのは山々だけど」
美咲と海人は顔を合わせる。
2人が難しそうな顔をしているのには、少し訳があった。
「そうだよな。どうして元気がないのかわからないと、やりようがないっていうか」
元気がない理由は、玲美のプライベートな話が大いに関わってくる。それを本人の許可もなく他人に話すことはトシさんにはできなかった。
それについては、海人たちも納得している。
しかし、原因もわからず元気付けるというのは、流石に2人にも無理難題のように思えた。
「無茶苦茶言ってるのはわかってる。だが、そこをなんとか」
「うーん」
美咲は空を見上げる。
海人はそんな美咲の反応を伺っていた。
実際、こうした問題を解決するのは美咲の方が適任だ。空気を読むことが下手な海人では、玲美を元気付けることはおろか、そもそもそれに至る前に気付かれてしまうだろう。
だからトシさんも、どちらかと言えば、美咲に期待している。
長く悩んでいた様子の美咲は、やがてふうっと息を吐いて考えを整理したようだった。そして、トシさんに顔を向けると、自身なさげな笑みを浮かべる。
「わかったわ。できるかわからないけど、やってみる」
「そ、そうか。すまねぇな」
トシさんはホッとしたように肩を下ろす。断られる可能性もあると考えていたのだろう。美咲の答えを聞いて、トシさんの表情は少しだけ明るくなった。
「ううん。私も玲美さんが元気がないのは嫌だからね。それじゃあ、早速、どうすれば良いかを考えましょう」
「じゃあ、何処かに入らないか? ここで話してるのもあれだし」
特に異論はないようで、海人も乗り気で声を出す。その指摘に美咲も頷いた。
「そうね。玲美さんの喫茶店は使えないし、トシさんもいた方が良いから、公園とか?」
そうして2人と1匹は、玲美の喫茶店から少し離れた公園の方へと移動した。
◇◇◇◇◇◇
美咲たちが訪れた公園は、小さく、ほとんど子供も遊んでいない寂れた場所だった。
遊具は錆びていて、草木も生い茂っている。
あまり良い場所とは言えないが、玲美に秘密で話をする場所としては申し分ない場所だった。
ベンチも埃まみれで汚れていたので、美咲は持っていたハンカチで、少しだけそこを拭いてから座った。
「じゃあ、早速だけど、トシさんに聞きたいのよね」
「おう、なんだ?」
「話せる範囲でいいから、玲美さんが元気がない理由を教えて」
詳しくは話せないとはいえ、何も知らなければ対策を立てるのも難しい。少なくとも、原因の一部くらいは聞いておきたかった。
尤もな美咲の問いかけに、トシさんは頭を悩ませる。
「まあ、そうだよな」
しかし、トシさんとしても、何処まで話せば良いのかわからなかった。
トシさんは、玲美の事情についてはすべて知っている。本人から聞いたこともあれば、英玲奈が話していたことも聞いている。
それらの話を総合すれば、今回の原因もある程度はわかるのだが。
「つまりは、だな。寂しいんだよ」
「寂しい?」
精一杯考えあぐねた結果の答えがそれだった。
美咲も微妙な表情だ。
言葉として理解はできるものの、それだけを聞くと玲美とは無縁のような気がしてならない。
「私には、玲美さんが寂しがってるようには見えないけど。うーん」
他人の悩みを知ることは難しい。
美咲は、玲美に悩みを聞いてもらうことも多かった。
いつも優しく話を聞いてくれる玲美は、いつも穏やかで、それでいて嬉しそうに話を聞いてくれる。
寂しげな表情を見せることなんて。
そこまで考えた所で、美咲はあることを思い出した。
「そういえば、あの時」
美咲が思い出したのは、以前に玲美の家で過去の話を聞かせてもらった時のことだった。
あの時は、すべての話を聞くことができなかったが、その時の表情は寂しげで、苦しげで、トシさんの言葉が重なったような気がした。
「もしかして、その原因って、高校時代とか、大学時代のことなのかな」
「え? あー、まあ、関係なくもない、のか? というか、何か知ってんのか?」
美咲は以前の話をトシさんと海人に説明した。
「なるほどな。まあ、その話は関係してるな」
「というか、そんな話してたのか」
美咲はあの時の話を海人にもしていなかった。
特別、口止めをされていた訳でもなかったが、気軽に話せる話でもなく、言うタイミングもなかったから。
「でも、深い話は聞けてないのよね。それに、もしこれが関係あるのなら、確かに踏み込むのは慎重にしたいかも」
明確な言葉にはしていなかったが、明らかにあの時、玲美は話をすることを拒絶していた。
踏み込む勇気があるとか、ないとかではなく、踏み込むべきではない領域の話に思えた。
それでも無理やり踏み込むべきなのかどうか。美咲は頭を抱えた。
「本人に聞くしかない? でも、またあの時みたいにはぐらかされたら……」
そもそも、美咲や海人、トシさんも同じだが、玲美は人の細かな変化に敏感に反応する。
少しでもこちらが、玲美を気遣っている様子を見せてしまえば、また強がって、すべてを隠してしまうだろう。
そうなってしまっては、玲美を本当の意味で元気付けることはできなくなってしまう。
「うーん」
良い案が浮かばずに、美咲は唸った。
トシさんも難しい顔をして悩んでいる。
しかし、1人だけ、海人だけは取り残されたようにポツンとしていた。
「あー、えっとさ」
海人はよく、美咲にデリカシーがないと言われる。空気が読めていないと言われる。そしてそれは、美咲だけが感じていることではなく、海人の友だちも同じように思っていた。
よくよく他人から言われるため、海人自身もそうなのだろうと自覚している。
そのため、こういう真剣な場面において、海人は自分の意見を言うことを遠慮する癖があった。それでも、気を抜けば、いつものデリカシーのない発言をすることも多いのだが。
しかし、今回は、自分がお世話になった、そして、尊敬している玲美の話だ。
海人も力になりたいと心から思っている。その思いが海人の勇気を支えてくれた。
「もしかしたらさ、その、玲美さんの友だち? 英玲奈さんだっけ? その人にも相談すればいいんじゃないか?」
期待なんてしていなかった海人からの提案。意外な出来事に、美咲とトシさんは一瞬ポカンと呆けてしまった。
そんな反応に、海人はまた、何かやらかしてしまったのと焦る。
「いや、変なこと言ったか? その、なんつーか、その方が良い案も出るかと思ったんだけど」
「「それだ!」」
「え?」
美咲とトシさんの声が重なった。
「確かに、俺はあいつと喋れねぇから、最初から考えてすらいなかったが、お前らがいるなら、それも全然ありだな」
「そうね。喫茶店で何度か会ってるし、話したこともあるから、協力してくれるかも」
「そ、そうだろ? いい考えだと思ったんだよ」
盛り上がる1人と1匹に、海人は密かにホッと息を吐いたのだった。
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