第12話 とある幸せだった女性の話 四
彼女は死人のようだった。
精神的に壊れかけ、少し油断すれば自殺もしかねない危うさを持っていた。
そのため、利樹が亡くなってからしばらくの間は、女子生徒が彼女の家で一緒に暮らすことになった。目を離すと何をするかわからない彼女を放っておくことなんてできなかった。
食事もほとんど取らない。ほとんど動くことすらしない。声も出さない。目は開いているのに、何を見ているのかもわからない。
そして、気付けば死に場所を求めているかのようにさ迷い歩く。
見るに耐えない彼女の姿に、女子生徒は苦しみながらも、決して見捨てることなく寄り添った。
「ほら。今日は買い物に行きますわよ。そろそろ食料品もなくなってきましたわ」
女子生徒は一般的な暮らしを知らない。
令嬢として育ってきた女子生徒は、大学でも社会人になっても、それなりの家でしか生活をしたことがない。彼女が住むようなアパートの勝手というのがよくわからなかった。
買い物も、ほとんどはネット通販に頼っていたため、スーパーというものにも行ったことがなく、最初の頃はかなり四苦八苦したものだ。
今では、なんとかそれにも慣れたようで、普通に買い物ができるようになっていた。
その進歩も、ほとんど動くことのない彼女のためというのはなんとも皮肉なものだが。
それでも、決して責めることはなく、優しく見守る女子生徒は、今日も彼女に声をかける。
答えなんて返ってこない。それはわかっていた。しかし、声をかけなければ彼女は消えてしまいそうな気がした。
それ程に彼女の生気は希薄だった。
今日も返事はなく、ただ寝ているだけの彼女。
女子生徒は仕方なく1人で立ち上がり、出掛ける準備を始める。
財布を持って、鍵を持ち、彼女にもう一度声をかけた。
「それでは、行ってきます。ちゃんと待っていてくださいね?」
常に一緒にいることはできない。どうしても彼女を1人にしてしまうことがある。女子生徒は、その瞬間が不安で仕方がなかった。
不安げに揺れる女子生徒の瞳に、彼女は焦点の定まらない視線を向ける。まるで、言葉の理解できない幼児のように、彼女は無感情な表情をしていた。
いつもと変わらない反応に、女子生徒が苦笑いを浮かべて出掛けようとした時、ふと、彼女が少しだけ動いた。
「わ、たしも」
「え?」
彼女が口を開いた。
声をほとんど出していなかったせいか、いつもの綺麗な声とは程遠い掠れた声だったが。
「わ、たしも、い、きます」
それでも、久し振りに彼女の意味のある言葉を聞いた女子生徒は、弾けるように喜んだ。
「ええ、ええ! もちろんですわ。あ、でも、ちゃんと身だしなみは整えないと駄目ですわよ。せっかくの綺麗な顔が台無しですわ」
込み上げてくる涙を堪えて、女子生徒は彼女の支度の準備を手伝った。
利樹を失い、絶望の淵にいる彼女が、自分から一緒に外に出ると言ってくれたことが、何よりも嬉しくて。
すぐに立ち直れる訳がない。
一生、立ち直ることはできないかもしれない。
心の傷は、時間ですらも治してくれないかもしれない。
それでも、彼女が歩き出そうとしたことは、少なくとも前に進もうとする気持ちが芽生えたということだ。
まるで死人のような生活も、この1歩から何かが変わるかもしれない。そんな期待が、女子生徒の胸に宿っていた。
その嬉しさゆえに、彼女の表情を見ることができていなかった。
何も変わっていない、無感情な顔を。
◇◇◇◇◇◇
「さて、今日は何を作ります? ハンバーグなんて如何? この前は焼けすぎ、その前は生焼け、なら、今回はその中間を取れば、完璧だと思うのですけれど」
近くのスーパーにやってきた2人は、適当に食材を眺めていた。
ちなみに、女子生徒の料理スキルは並み以下。
最近は、ようやく包丁で自分の手を切らずにできるようになってきたが、味付けの感覚はまだまだ勉強中だった。
安い肉がないかを確認しながら、付け合わせの野菜も見てみる。
ほとんど会話はないが、一緒に買い物に来ているというだけで女子生徒は嬉かった。
「うーん、あ、このじゃがいも、安いですわね」
「お、いらっしゃい。今日も綺麗だねぇ」
「あら? 店長さん」
彼女と一緒に暮らすようになってから、ここのスーパーに来ることが多くなり、気さくで見た目にも目立つ女子生徒は、店員とも顔馴染みができていた。
店長もその1人で、偶に商品を安くしてくれる店長は、女子生徒にとっても有難い存在だった。
「良い日に来たねぇ。今日は芋が格安なんだよ。色んな種類があるから、どんな料理にもバッチリさ」
「へー、そうなんですわね。確かに、他も安いのが多いですわね」
一応、食費は彼女と女子生徒の割り勘ということになっている。金銭的に苦しい訳ではないが、共同生活をする上で、節約は重要な話だった。
「じゃあ、今日はこのじゃがいもで何かを作りましょう。あなたは、何か食べたいものありますか?」
お買い得な商品を手に入れ、浮かれている女子生徒は、後ろにいるはずの彼女に声をかける。
しかし、返事はなく、それどころかその気配すらない。
「え? ……、何処にいますの?」
嫌な予感がした女子生徒が慌てて振り向くと、そこには彼女の姿がなかった。
「なっ! て、店長さん! 私の後ろにいた女性を知りませんこと?」
「え? い、いやぁ、私が声をかけた時には、もう誰もいなかったと思うけど」
「そんな。しまった!」
「ちょ! えぇ!」
女子生徒は買い物かごを店長に押し付けると、慌てて店の外へと出た。すぐに辺りを見渡すが、彼女の姿は見えない。
最悪の事態が頭に浮かび、女子生徒は冷や汗を流す。
「早く。早く探さないと!」
女子生徒はがむしゃらに走り出した。
彼女が向かう場所に、心当たりなんてない。
それでも、早く見つけなければ、彼女が何をするかわからなかった。
「お願い。お願い、早まらないで」
◇◇◇◇◇◇
曇り空の下で、凍えるような風が彼女の頬を刺す。
誰の所有物かもわからないビルの屋上で、彼女は落下防止の柵を乗り越え空を見上げていた。
後一歩前に出れば、そこに足場はない。
落ちれば即死するであろう高さを見下ろして、彼女は無感情に溜息を漏らした。
「もう、いやなの」
誰も聞いてなんかいない。彼女の言葉は、誰かに向けたものではなかった。
「あなたのいない世界に、意味なんて、ない」
思い浮かぶのは、利樹の姿だけ。
楽しかった思い出も、悲しかった思い出も、辛かった思い出も、嬉しかった思い出も、すべて利樹との思い出だった。
「この世界に、生きる意味なんて、ないの」
この世界に色はなくなった。
何を見ても真っ黒に見える。
優しく見守ってくれる友人たちですら、彼女の目には、真っ黒に塗り潰された人形にしか見えなかった。
「迷惑なんて、かけたくない」
僅かに残った感情が、彼女を苦しめる。
優しく接してくれる程、温かく見守ってくれる程、彼女はそれを返せない自分に嫌気が差した。
世界にある絶望が、すべて自分に降りかかったのではないかと錯覚するような、暗い世界。
逃げ出したかった。
許されないことだとわかっていても、もうここにはいたくなかった。
それで、利樹に嫌われたとしても、利樹のいない世界にいる方が、彼女には辛かった。
「叱ってくれるのなら、軽蔑してくれるのなら、私な目の前で罵ってください。もう二度と会えなくなるくらいなら、私はもう……」
彼女を繋ぎ止めるものはない。
もう、誰も彼女を止めることはできない。
もう、彼女の希望は潰えてしまった。
彼女は、死を選んだ。
「私も、そこへ」
もしかしたら、あなたが止めてくれるかもしれない。
例え、死んでいても、あなたなら、私を止めてくれるかもしれない。
そんなあり得ないことを思いながら、彼女は嗤い、足を前に踏み出した。
いや。
「おい、お前」
「っ!」
踏み出そうとした。
まさに、その瞬間だった。
後ろから突然聞こえてきた声は、彼女のよく知る声で、彼女は驚きのあまり落ちそうになるのを必死に堪えて、後ろを振り向いた。
「と、利樹?」
聞こえてきた声は、確かに利樹のそれだった。
聞き間違えるはずがない。この声だけは、絶対に聞き間違えるはずがなかった。
信じられない気持ちで振り向く彼女だったが、そこに利樹はいなかった。
「……え?」
そこにいたのは、1匹の犬だけ。
声を発するような存在は1人もいなかった。
「幻、聴? ……そう、ですよね。そんな訳、あるはずありませんよね」
利樹のことを思うあまり、聞こえてきた幻聴。
考えてみれば当たり前なことだった。これ程までに利樹のことを想っていたのだ。それが聞こえるくらい、想像できる話だった。
しかし、ここで奇妙な出来事が起きた。
「おい、何を納得してるのか知らねぇが。お前は、なんでそんな所にいるんだ?」
「え? え?」
またしても聞こえた利樹の声。
しかも、その声はどう聞いても、目の前にいる犬から聞こえてくる。
彼女は訳がわからず、柵を乗り越えて犬の元へと走っていった。
「あ、あなたが、喋っているのですか?」
「あ? ああ、そうだよ。よくわかんねぇが、お前らの言葉が使えんだよ」
信じられないことだった。
犬が人の言葉を話せることもそうだが、何より、その声が利樹と同じものだったから。
偶然、とは思えなかった。
「もしかして、あなたは、利樹ですか?」
「は? としき? なんだそりゃあ?」
犬の表情の変化を読み解くのは、流石の彼女も難しい。しかし、本当に意味がわからないという様子は気配で伝わってきた。
「そう、ですか」
「つーか、お前はそこで何やってたんだよ。あの高さから落ちたら、俺でもあぶねぇぞ」
「あ、いえ、あれは」
犬が睨んでくる。
その顔が利樹のように見えた。
似ている訳ではない。そもそも犬と人間だ。似通っている部分は一部たりともない。
それなのに、彼女はその犬に利樹の存在を重ね合わせた。
それは、妄想なのだろう。
現実逃避なのだろう。
自分に都合よく解釈しているのだろう。
それでも、彼女はその犬に希望を感じた。
「あなたこそ、どうしてここに?」
「あ? 質問に質問かよ。……はぁ、俺はまあ、行く宛もないから、適当に歩いてただけだよ」
犬が言うには、これまでの記憶を失っているらしい。
何故、自分が人の言葉を理解し、話せるのか。自分は何処から来たのか。何も覚えていないのだとか。
「そしたらよ。誰かの匂いがして、ここまで来てみたってことだ」
「そう、だったんですね」
聞けば聞く程に信じられない話だった。
しかし、彼女は犬の話を信じた。
信じたいと思った。
「私は、知り合いに、会いに行こうとしていたのです」
「は? あそこから、か?」
「ええ、あそこからです」
彼女の答えに、犬は怪訝な表情を浮かべたようだった。
「うそつけ」
「っ!」
それは何のこともない回答だった。
彼女な答えに対しての返事としては、誰もが同じように返すだろうものだった。
しかし、彼女にとってそれは、自分に初めて気付いてくれた人の言葉だ。
その瞬間、彼女の世界に色が広がった。
真っ黒だった世界に、色がついていった。
「本当ですよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないです」
「いいや、嘘だな」
「ふふ、あはは、嘘じゃないですって」
彼女は本当に心の底から嬉しそうに笑った。
いきなり笑い出した彼女に、犬は眉を潜める。
「なんだ、お前は」
「いえ、すみません。ただ、ああ、ただ、この会話が、嬉しくて」
信じられない話だった。
だが、彼女にとって、この出来事は奇跡のような出来事だった。
「意味わかんねぇ奴だな」
「ふふ、すみません」
これは逃げだ。現実逃避だ。頭の中で誰がそう言っているような気がしていた。
しかし、今の彼女にとって、それはどうでもいいことだった。
「ねぇ、犬さん」
「あ?」
今の彼女に必要なのは時間。
それを放棄しようとしていた彼女に訪れたのは、奇跡のような出会い。
「もし、行く宛がないのなら」
心の傷を無視して。
悲しむ心を無視して。
それでも、彼女の絶望を薄れさせることができるのは、もうここにいる犬しかいなかった。
「私の元に来ませんか?」
それが、彼女と犬の出会い。
玲美とトシさんの出会いの話だった。
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