第12話 とある幸せだった女性の話 三
結婚届けを出すのは、彼女の誕生日に決めた。
それは、普段は記念日なんて気にしない利樹からの提案だった。
「その方が忘れねぇからな」
本心なのか、建前なのか。なんとも言えない微妙な言い分で利樹がそれを決めてしまった。特に彼女に反対する理由もないが。
あえて不満があるとしたら、彼女としては早く結婚をしたいと思っていたため、それが遅れて少しだけがっかりしたという気持ちはある。
とはいえ、彼女の誕生日は1週間後。
それを待つのもまた、楽しみの1つだと割りきって彼女は日常を過ごしていた。
ちなみに、結婚式は3ヶ月後に行う。
彼女と利樹には家族がいないため、誘うのは友人や施設で一緒に育った仲間、先生たちがほとんどだ。
その準備は忙しく、働いている利樹では手が回らないため、ほとんどの準備を彼女が担当することになっていた。
「全く、やっとか、という感想ですわ」
その手伝いに来てくれたのは女子生徒。
いや、すでに女子生徒も学生という身分ではなく、社会人として普通に働いているのだが。
「そんなに遅かったですか?」
「まあ、早いも遅いもありませんけれど、正直に言うのなら、そう思いましたわね」
女子生徒は、高校生の頃から2人のことを見ていた。当時から、2人は結婚するのだろうと確信していたが、その結果は、女子生徒が思っているよりは時間がかかっていた。
彼女ならば、利樹にプロポーズをされれば、即決で結婚するだろうと思っていたため、余計にそう思うのだろう。
しかし、そのかけた分の時間は、彼女にとって幸せを考える大切な時間となっていた。
それを理解している女子生徒にすれば、乗り越えた先にある今は、自分のことのように嬉しい出来事だった。
「本当に、困った人たちですわ」
「ふふ、あなたにもすごく助けられましたね」
「も、もう。そんな風に言わないでくださる? せっかく我慢しているのに」
必死に背けるその横顔には、一滴の涙が溢れていた。
それは祝福の証。
2人は、これからいつまでも続くであろう幸せな時を夢見て、2人して笑い合っていた。
いつまでも、いつまでも続くと、そう願って。
そう。いつまでも続くと確信していた。
「そういえば、喫茶店はどうなんですの? 順調ですの?」
「まだ流石に順調とは。でも、なんとかなりそうですね」
していたのに。
「それは良かったですわ」
「今度、遊びに来てくださいね」
しかし、神様は残酷だった。
◇◇◇◇◇◇
「ふぅ。まったくよぉ。ただ結婚するってだけなのに、何でこんなに忙しいんだよ」
1人愚痴りながら、利樹は街を歩いていた。
結婚式の準備は彼女に任せているとはいえ、利樹も全く何もしない訳にはいかない。
仕事をしながら、彼女と一緒に作業をするのは、嫌ではなかったが体力的には厳しいものがあった。
しかし、一生に一度の結婚式。
彼女をこれからもずっと幸せにするという覚悟を示すためにも、利樹は彼女に最高の結婚式をしようと考えていた。
そのためならば、多少の疲れなど、どうでも良かった。
「それに、これからはもっと金も必要になるからな」
家族が増えた時のために。
彼女は子供を欲しがっていた。
別にすぐに欲しいという訳ではなかったが、いつかは必ずという思いが強かった。
そうなった時、家計を支えるためにも。不自由な生活をさせないためにも。利樹は全力で仕事に励んでいた。
今日の仕事も夜遅くまでかかるだろう。しかし、今日はその他に大切な用事があったため、利樹は仕事を抜け出していた。
「これで、用意するものは全部だな」
言いながら、利樹は自分の鞄を見る。そこには1枚の紙が入っていた。
それは今、役所で貰ってきた婚姻届だ。
結婚をするための大事な書類。
2人の名前を刻む最初の文書。
これから2人が家族になるための、始まりの文書だ。
後はお互いに名前を書いて提出するだけ。
それだけで家族になれる。
それを思うと、利樹は顔がにやけそうだった。
幸せに顔が緩みそうだった。
周りに人さえいなければ、気持ちの悪い笑みを浮かべていたことだろう。それ程に舞い上がっていた。
信号が点滅し、利樹は歩みを止める。その少しの待ち時間すらも、早く早くと心が急かす。
だからこそ、その反応は少しだけ遅れてしまったのかもしれない。
「あぶないっ!」
「え?」
キキィー。という嫌な音が交差点に響いた。
そして、同時に視界に飛んでくるのは異常な速度の車。
避ける暇なんてなかった。
それは、横断歩道で止まっていた利樹と、その周りの人を巻き込んで、けたたましい音を上げながら建物に突っ込んだ。
救急車の音が聞こえる。
世界が真っ赤に染まったようで、利樹にはほとんど何も見えなかった。手も動かない。身体は熱いのに、少しずつ寒くなっていく。
ああ、俺は死ぬのか。
わかってしまった。
それでも、死にたくはなかった。
見えない視界で必死に身体を動かす。しかし、ほとんど動かない。どうあっても動かない。
そんな時、ふと触れたのは自分の鞄。そして思い出す。そこに入っている物を。彼女の顔を。
手を伸ばしても届かない距離にいる彼女に、利樹は一言だけ伝える。伝えたかった。
しかし、それは叶わずに、利樹の意識は……。
世界は、真っ暗になった。
◇◇◇◇◇◇
「どう、して?」
利樹の変わり果てた姿を前にして、彼女はその場に崩れ落ちた。
彼女が利樹の交通事故を聞いたのは、事故が起きてすぐのことだった。
「そんな……。こんなことって」
女子生徒もその場に来ている。
ただ呆然とする彼女に寄り添い、背中を擦っている。しかし、女子生徒も、そのあまりの信じられない出来事に、何も考えられなくなっていた。
「飲酒運転だったようだ」
それを教えてくれたのは、鮫島という警察官。
利樹が問題を起こす度に世話になる警察官で、その繋がりから2人と仲が良くなっていた。
今回も知り合いということで、鮫島が直接、彼女に連絡をくれたのだった。
2人の結婚を知る友人として。
「飲酒、運転?」
彼女がポツリと呟く。
「ああ、まだ詳しくは調べられていないが、すでに意識も覚束ない状態で、ふざけた状態だ。調べる間もないだろうな」
鮫島も悔しそうに歯を噛み締めていた。
会えば、いつも悪ガキだと叱ったものだが、鮫島にとっても利樹は気の良い友人だった。
それを理不尽に奪われ、怒りは、悲しみは、言葉で表現なんてできなかった。
しかし、それを表に出さないのは、自分なんかよりも、強い感情を抱いているであろう人が目の前にいるから。
彼女を差し置いて、自分に何かを言う権利なんてないと思っていた。
彼女はうつ向いたまま何も言わない。
微かに見える瞳は光を失い、すべてに絶望しているように見える。時間が止まったかのように、彼女は息をしているのかもわからない。
やがて、彼女はユラリと無言で立ち上がった。
「その犯人は、何処にいるのですか?」
「それを聞いて、どうするんだ?」
尋常ではない雰囲気に、鮫島は怯みながらも、聞かなければならないことを聞く。
その質問に、彼女は無感情な目を向けて、一言だけ告げた。
「ころす」
「っ!」
その目は本気だった。
躊躇なんてない。ここで彼女の質問に答えれば、今すぐにでもそこに向かって、本当に殺すつもりなのだろう。
「教えられない」
「調べれば、すぐにわかることですよ?」
鮫島と女子生徒は、ゾワッと背筋が凍った。
能面のような表情は、何を考えているかはわからない。しかし、その言葉が本気であるということだけはわかる。
そして、それが本当にできてしまうと確信できるのは、彼女の優秀さを知る者ならば、誰もが同じだろう。
「事故を起こした奴は、俺が必ずその報いを受けさせる。どんなことをしても、だ。だから、君が何かをする必要はない!」
「それが答えですか」
彼女は鮫島を空虚な目で睨むと、そのまま部屋を出ていこうとした。
「やめなさい!」
そんな彼女に怒鳴ったのは、女子生徒だった。
「そんな馬鹿げたこと、絶対にしてはいけませんわ!」
「馬鹿げたこと? これが? あなたは、私の気持ちをわかってくれないのですね?」
低く重い声が、女子生徒に突き刺さる。
すべてを憎しみをぶつけるような視線は、それだけで恐怖を与えるものだった。
それでも、女子生徒は怯まない。
「確かに、あなたの悲しみをすべてを理解することはできないですわ。でも、その行いは、絶対に後悔します! 絶対にあなたのためにはなりませんわ!」
「そんなこと、どうでもいいのですよ。私は、私の大切なものを奪った人間に、責任を取らせないといけないのです」
「どうでもよくなんてありませんわ! そんなこと、利樹さんが望むはずがない! あの人が、あなたがそんなことをすることを望むはずがありませんわ!」
今にも動き出しそうな彼女の肩を掴んで、無理やり止める。
「あなたに、利樹の何がわかるのですか?」
「わかりますわ! あなただって、わかってるでしょ! わかるはずですわ! わからないはずないでしょ!」
食い込む程の力で、女子生徒は彼女を止める。
その顔には涙が溢れていた。くしゃくしゃに歪んで、歪に唇を結び血も滲んでいる。
悔しさと悲しさと怒りと苦しみと。
すべての感情を押し殺して、女子生徒は彼女を止めていた。
「離してください」
「いやです。離しません! お願い、やめて。そんなこと、絶対に駄目なんです!」
彼女を抱き締めて懇願する。
「お願い。あなたの苦しさが、私には想像もできないものだということはわかります。でも……。でも! あなたまで、あなたまで遠くに行かないで。利樹さんを悲しませないで」
「利樹が、悲しむ?」
その言葉で、彼女の瞳に色が灯った。
悲しみの限界を超えて、何も考えられなくなっていた彼女に感情が蘇る。
利樹との思い出が、彼女の頭を駆け巡った。
「利樹が、そんなこと、望んでる、わけ……」
女子生徒に言われる間でもなく、わかっていることだった。
利樹がずっと望んでいたのは、彼女を幸せにすること。それは、自分自身に科した使命でもあり、それと同時に、純粋に彼女の幸せを願う優しさだった。
そんな利樹が、彼女が犯罪を犯すことをよしとする訳がなかった。
「でも、それなら、私は、どうしたら……」
ゆっくりと女子生徒から離れて、利樹が眠る所まで歩く。
足が上手く前に進まない。受け入れがたい現実に、身体が悲鳴を上げている。それでも、それを見なければ。
彼女はずっと拒んでいた現実に目を向ける。
ソッと触れる。
そこに感じるのは、無機質な温度。
冷たく、触れて返してくれることのない、利樹の身体だった。
「どうして」
問いかけても、誰も返してくれない。
涙が溢れる。
いつも拭ってくれた手が、そこにあるのに、動いてくれない。涙が止まらない。
「どうして!」
叫んだ。感情のままに。
いつもみたいに、うるせぇよって返してくれる言葉が聞こえない。
彼女はその場に倒れる。意識を失ったのではない。身体の力がすべて抜けてしまったのだ。
支えてくれる人はいない。
目の前にいるのに。いるはずなのに。
その人は、もう動いてくれることはなかった。
「どうして? どうして? 嫌よ。私たち、結婚をするのでしょう? 結婚してくれって言ったのは利樹じゃありませんか! 結婚して、子供も作って、2人でどんなことがあっても乗り越えようって、そう言ってくれたじゃありませんか! 私を幸せにしてくれるって、言ったじゃありませんか! どうして、何も言ってくれないのですか。こんなに、近くにいるのに。私がこんなに話しかけているのに。こんなに泣いているのに、どうして助けてくれないの! どうして支えてくれないの! どうして? どうしてよおぉぉぉ!」
彼女の叫び声は、まるで悲鳴のようで。
声が枯れるまで彼女は泣いた。
いや、声が枯れても、心が枯れても、彼女の涙は止まらない。
止める術などない。
止めることができる唯一の人は、もうこの世にいないのだから。
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